いちばん大切な訓練

テモテ第一4:1-8

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4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
4:2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、
4:3 結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。
4:4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。
4:5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。
4:6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。
4:7 俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。
4:8 肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

 今年の夏期修養会は「主と同じ姿に」という主題で行なわれました。聖会講師の福澤先生からは、「キリストの形なるまでの土台」「キリストの形なるまでの生き方」「キリストの形なるまでの宣教と再臨信仰」というメッセージをいただきました。真実なクリスチャンであれば誰もが、キリストのようになりたいと願っているはずですし、何よりも、神が、私たちをキリストに似た者にしたいと願っておられることを知っています。ローマ人への手紙では「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8:29)とあります。ガラテヤ人の手紙には「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ4:19)とあります。これは、使徒パウロが、信仰から離れていこうとしているガラテヤのクリスチャンのために嘆いて語ったことばですが、私たちのうちにキリストが形造られるようにと願っておられる神のおこころを代弁したことばでもあります。クリスチャンでない人が、キリストを信じてクリスチャンになる、それは他の何にもくらべられないほどの大きな変化です。神は、ひとりの罪びとでも悔い改めてキリストを信じるなら、神は天使たちとともに大喜びされるのです(ルカ15:10)。しかし、神にとって、私たちがクリスチャンになるということが最終のゴールなのではありません。神は、罪びとが悔い改めて救われるだけでなく、罪びと(Sinners)が聖徒(Saints)になることを願っておられるのです。クリスチャンになるというのは、人生の一大転機ですが、人生の変化はそれで終わるのではありません。キリストのようになるという変化が待っているのです。クリスチャンの生活は、キリストのようになるというチャレンジに満ちた生活です。信仰生活は、キリストを信じた感激が消えていかないように、クリスチャンになった喜びがなくなっていかないように、それを一所懸命守るだけという消極的なものではありません。信仰生活は、キリストのようになっていくという、生涯をかけての大事業に取り組んでいく、とてもエキサイティングなものなのです。

 「キリストのようになる」とはいったいどんなことなのか、神は、私たちが「キリストのようになる」ためにどんなことをしてくださるのか、そうしたことについて聖書から学び、整理しておく必要があるのですが、「キリストのようになる」とはどういうことかをいくら頭で理解しても、「キリストのようになりたい」という願いを持つのでなければ、また、キリストのようになろうと一歩踏み出すのでなければ、決して、「キリストのようになる」ことはできません。それで、この七、八月は、夏期修養会のテーマのフォローアップのような形で、「キリストのようになる」ということを、実践的な面から話してみたいと思っています。

 一、訓練の必要性

 この夏のメッセージの予定を、そんなふうに考えていました時、書店で "So, You Want to Be Like Chirst?"(『あなたはキリストのようになりたいのですね』)という本を見つけました。ダラス神学校の総長、チャールズ・R・スウィンドル先生が書いたものでした。チャック・スウィンドル先生のメッセージをはじめて聞いたのは、私がアメリカに来てからでした。そのころ、先生は、カリフォルニアのフラトンにあるエヴァンジェリカル・フリー教会の牧師をしていましたから、スウィンドル先生のメッセージを聞いたと言っても直接ではなく、ラジオからでした。"Insight for Living" という番組で、彼の深い声と深い内容にたちまち魅了されてしまい、彼の本を何冊か買って読んだのを覚えています。それ以来、久しぶりにスィンドル先生の新刊を見たのと、本の内容がちょうど読みたいと思っていたとおりのものでしたので、さっそく買い求めて読みはじめました。スウィンドル先生は、まず、この本の中で、キリストのようになることは、決して容易いことではないと言っています。それは、現代があまりにも、神から遠く離れた時代だからです。人々は、朝から晩まで神経をすり減らして働き、金のため、名誉のため、自己実現のためにあくせくしています。そのような中で、真に「敬虔」な生き方をすることは容易ではないのです。スウィンドル先生は次のように言っています。

しかし、どうやって敬虔であることができるのでしょう。早いペースで複雑な生活をし、穏やかならざるプレッシャーに直面している忙しい人々がどうやって、絶えず神と共に歩むことができるのでしょうか。その答えに含まれるものが何であったとしても、人々が自然に、自動的に、即座に、あるいは簡単にそこに至ることはないということだけは、確信を持って言うことができます。「この世は、私たちを神に向かわせる恵みの友ではない」からです。私たちの回りのどれも、私たちの現在の状態に不満をいだかせるものでしかないのです。
現代が、「敬虔」からほど遠い時代であることは、誰もが認めるところでしょう。テモテへの手紙第一4:1-3には「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。」ここで「後の時代」と呼ばれているのは、まさに今、私たちが生きている、この時代のことです。今が、後の時代、終わりの時代であり、人々が信仰から離れ、間違った教えに引っ張られている時代だからです。

 もちろん、正統的な教会が、姿を消したわけではありません。多くの教会は、正統的な教えを保っています。しかし、多くの場合、それが形の上だけで、人々の心が、神への愛から遠く離れ、自分を愛することに終始してしまっています。教会で神のことばが教えられていないわけではありませんが、神のことばが人生を導くもの、生活の基準となっていないのです。聖書を「お勉強」として学びはします。しかし、実際にものごとを判断する時や行動する時の基準は、結局は、この世のもの、人間の尺度、自己主張、自分の好みなのです。「イエス・キリストは主です。」と告白しながら生きるのがクリスチャンなのですが、多くの人々にとって、キリストは、実際には人生の主ではなく、私たちが健康で、豊かで、居心地の良い生活を保つために、人間にかしづくしもべになってしまっています。信仰の告白と、実際とがあまりにもかけはなれ、しかも、そのギャップに気づいていないのです。もちろん、信仰の告白と実際の生活の間にギャップのない人は誰もいないでしょう。誰しも、聖書が教えるとおりに生きることが出来ないことに苦しみを覚えるのです。しかし、その苦しみは、信仰から出てくる苦しみ、成長を求めるゆえの健全な苦しみであって、神は、そうした苦しみを用いて私たちをキリストの形へと形造ってくださるのです。なのに、信仰の世界にまで「建前」と「本音」を持ち込んで、信仰告白と実際の生活のギャップを当然のこととしているとしたら、それこそこそ悲劇だと言ってよいでしょう。

 では、どうしたら、このような時代であっても、「キリストのようになる」ことができるのでしょうか。私たちを「キリストのようにする」のは、もちろん、主権者である神のみわざです。エレミヤ書にあるように、神は、陶器師のように、思いのままに私たちを形造られるのです(エレミヤ18:6)。しかし、私たちの側にもできること、しなければならないことがあります。それは「訓練」です。訓練によって、私たちは、神の手の中で自在に練りあげられるために、練られやすい陶土になることができるのです。テモテの手紙第一4:7-8は「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」と教えています。ここには「肉体の鍛錬」と「信仰の訓練」とが比べられています。アメリカで近年急成長しているビジネスのひとつが、フィットネス産業で、多くの人が「肉体の鍛錬」のためにジムに通っています。人々は、からだのためには、時間もお金も努力も惜しまないのですが、もう一つの訓練、「信仰の訓練」のことには無頓着です。

 思い出してください。「目的の四十日」で学んだ、人生の第三の目的は「訓練」でした。何のための訓練でしたか。体の訓練ではありませんね。信仰の訓練、キリストの弟子としての訓練、「キリストのようになる」ための訓練だと学びました。テモテへの手紙はそれを「敬虔の訓練」と呼んでいます。「敬虔な」というのは英語では "Godly" と言い、「敬虔」は "Godliness" と言いますね。文字通りには「神のようである」ということです。キリストは神の似姿、神のかたちであるお方ですから、キリストのようになっていくことを "Godly" と呼ぶのは、とても適切なことと思います。ヘブル人への手紙に「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」(ヘブル12:10)とあります。神が私たちを訓練されるのは、私たちをきよめるためです。「キリストのようになる」というのは、きよめの一部ですから、神の訓練は、私たちが「キリストのようになる」ための訓練であるのです。「キリストのようになるため」、訓練はなくてならないものであり、私たちがその訓練に従順に従う時、私たちは、きよめられ、「キリストのようになる」ことができるのです。ヘブル12:11に「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われる」とありますように、私たちは、辛くて大変な訓練を好まず、そこから身を引いてしまいがちなのですが、その訓練に踏みとどまるなら、私たちはかならず、その実を得ることができるようになります。ヘブル12:11は、「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実をむすばせます。」と約束しています。

 二、訓練の実際

 神は、私たちをキリストのようにするため、私たちを訓練されるのですが、このことで、覚えておかなければならない大切なことが一つあります。それは、神が主権者であって、ご自分のご計画にそって私たちを訓練されるということです。フィットネス・クラブに入りますと、最初にコンサルテーションがあって、どういう健康上の問題があるのか、そのために、何をしたいのかということを聞かれます。そして、スタッフの勧めにしたがってトレーニングの計画を立てるのです。からだの鍛錬の場合は、このように自分で計画を立てるのですが、信仰の訓練では、神がその計画を持っておられ、しかも、多く場合、その計画は、前もっては、私たちに知らされないのです。チャック・スウィンドル先生の場合もそうでした。私は、"So, You Want To Be Like Chirist?" という本ではじめてスウィンドルの個人的なあかしを知りましたが、先生がどのように神からの訓練を受けたかがそこからわかりますので、紹介したいと思います。

 スウィンドル先生が、第二次大戦の時、兵役を課せられ、海兵隊に入隊したのは、結婚して二年してからでした。サンディエゴのキャンプ・ペンデルトンで、ブート・キャンプとそれに続く戦闘訓練を受けました。訓練が終わって、多くの兵士がカリフォルニアのバストウといった熱い砂漠地帯か、沖縄のような離れたところに送られていきました。幾人かは六ヶ月に一度しか上陸しない船の警備を命じられました。しかし、スウィンドル先生は、幸運にも、サンフランシスコ勤務になったのです。彼と妻は大喜びでした。

 彼の任地は、サンフランシスコのハリソン通り一〇〇番地で、それは誰もがうらやむ素敵な任務でした。ふたりはサンディエゴで新しい車を買い、その車でサンフランシスコにやってきました。彼らは、デーリシティのアパートに住んで、ペニンスラ・バイブル・チャーチに通っていました。この教会は "Body Life" という教会生活についての素晴らしい本を書いたレイ・ステッドマンの牧会する教会でした。スウィンドル先生は、マウント・ハーモンにも行ったと、書いています。すべてがうまく行き、彼らの人生はバラ色でした。

 それからのことです。一通の思っても見なかった手紙が彼に届きました。それは、郵便配達されたものではなく、軍が、トラックの荷台に載せて運んできたものでした。すぐに開けてみるほど大事なものとは思わなかったので、ポケットに入れたまま、そのころ奥さんが働いていたエレクトロニクス工場に、奥さんを迎えにいきました。少し早く着いたので、奥さんの仕事が終わるのを待っていましたが、その時、手紙のことを思い出し、封筒をポケットから取り出し、それを開けてみました。手紙の最後には、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の署名がありました。それはサンフランシスコから沖縄に移るようにとの公式命令の手紙だったのです。彼は封筒を確かめて、それが、ほんとうに彼に宛てて送られたものかどうかを確かめました。間違いありませんでした。それは彼宛のものでした。その時、彼が築いてきた人生の枠組みすべてが崩れたのです。

 スウィンドル先生は、今までの楽しい生活のすべてを置いて、新婚の妻を残して、六千五百マイル離れたところに、最低でも一年半は行かなければならなくなったのです。彼は、泣き、悲しみました。彼のことばによると、「地球がその回転軸から外れて、世の終わりがやってきたように思えた」そうです。しかし、この一通の手紙が彼の人生を、彼自身を根底から変えてしまうものだったということを、その時の彼は知りませんでした。実は、それは、他の道では決して通ることのない扉を開くための神からの訓練だったのです。それは、彼をいくぶん甘やかされた生活から、神に仕える奉仕の道へと進ませるものでした。

 彼は沖縄でボブ・ニューカークという人に会いました。ボブは彼が持っていた『詳訳聖書』というものをスィンドル先生にあげました。そこにはボブが一箇所だけ、マークしてあった箇所がありました。それはピリピ3:10でした。『詳訳聖書』では次のように書いてあります。

〔私の心に堅く定めた目的は〕彼を知ることです<だんだんと、さらに深く、さらに親しく彼を知るようになり、さらに強く、さらに明白に〔彼の人格の驚異を〕知り、認識し、理解することです>。またそれと同様に彼の復活からあふれてくる力〔復活が信者たちの上に及ぼす力〕を知るようになり、また彼の苦難にあずかって、絶えず変えられて〔霊において彼のかたちに〕彼の死〔にさえも似るように〕されることなのです。

 スウィンドル先生は、家族から、教会から遠く離れ、また、彼にとって居心地のよいすべてのものから切り離され、地球を半周した場所で、神を見る機会を与えられたのです。しかも、その費用はすべて政府が出してくれたのです。スィンドル先生の心に、天を見上げ、キリストをさらに知りたい、そして、さらにキリストに似る者になりたい、キリストのようになりたいという思いが与えられたのです。

 神は、思いがけない訓練によってでしたが、「キリストのようになりたい」との思いをスウィンドル先生に与えました。そして、彼はその訓練によって、「キリストのようになる」道を歩みはじめたのです。神も、同じように、あなたに必要な訓練をお与えになります。その訓練は、思いがけないものであるかも知れません。思っても見なかったときに、思ってもみないことが起こるかも知れません。しかし、神の訓練を、訓練として受けとめる時、神は、それを用いて、私たちをよりキリストに似た者として造りかえてくださるのです。スウィンドル先生は、「私たちの意志に働きかける神の御霊が私たちを変えてくださるのです。しかし、訓練によって柔らかくされる時、私たちは、御霊の手の中でより練られやすいものとなると、私は確信しています。」と言っています。聖書も言います。「敬虔のために自分を鍛練しなさい。」神のことばに聞き従い、信仰の先輩の良いあかしに倣いましょう。そして、主と同じ姿に変えられていく恵みを体験していきましょう。

 (祈り)

 父なる神様、あなたは、私たちにしばしば思いがけない試練をお与えになります。しかし、それがあなたの愛から出たものであり、そこにあなたの深いご計画があることを、みことばによって教えられ、多くのクリスチャンのあかしから学んできました。しかし、いざとなると、あなたの愛を忘れ、あなたの深いご計画を見逃してしまうことの何と多いことでしょうか。どうぞ、あなたの前にへりくだり、主であるあなたの訓練を進んで受けることができるよう、私たちをお助けください。あなたの訓練によってキリストの姿へと造りかえられる恵みを体験させてください。私たちをご自身と同じものにするため、私たちと同じ姿となってくださった主イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/10/2005