敬虔の奥義

テモテ第一3:16

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確かに偉大なのは、この信心の奥義である、
「キリストは肉において現れ、
 霊において義とせられ、
 御使たちに見られ、
 諸国民の間に伝えられ、
 世界の中で信じられ、
 栄光のうちに天に上げられた。」

 一、「メサイア」

 1685年、ドイツにふたりの音楽家が生まれました。ひとりは2月23日に生まれたヘンデル、もうひとりは3月31日に生まれたバッハです。バッハは教会音楽のために生涯を捧げ、ヘンデルは劇場音楽で成功を収めました。ヘンデルは数多くのオペラやオラトリオの作曲を手がけましたが、その中で最も有名なのは「メサイア」です。

 「メサイア」というのは、ヘブライ語の「メシヤ」(救い主)の英語読みです。「メシヤ」はギリシャ語では「キリスト」ですから、これは救い主、キリストの生涯を音楽にしたものです。しかし、直接イエス・キリストが登場して、弟子たちやユダヤ人とやりとりをするといったものではなく、イエス・キリストに関する預言の言葉などによって、間接的にイエス・キリストを描いています。

 ヘンデルの音楽は、劇場で民衆を楽しませるために作られたものです。それで、「メサイア」に対して「聖なるお方を娯楽に使っている」といった批判もありました。確かに「メサイア」は興行目的で作られましたが、このオラトリオの歌詞はすべて聖書からとられており、ヘンデル自身も聖書の言葉に感動しながら作曲したといわれています。そして、これを聴く人たちにも同じような信仰の感動を与えました。「メサイア」がロンドンではじめて演奏されたとき、「ハレルヤ」コーラスに感動した国王ジョージ二世が思わず起立して、「王の王」「主の主」であるイエス・キリストをあがめたという逸話があるほどです。

 「メサイア」が最初に演奏されたのは病院を支援し、受刑者を慰めるためのチャリティー・コンサートとしてでしたが、その後も孤児院のためのチャリティー・コンサートで上演されました。ヘンデルは、救い主を主人公にしたオラトリオを、営利目的に上演したくなかったのかもしれません。

 これは、あまり知られていないのですが、「メサイア」が1742年4月13日に初めて演奏されたときから、ずっと、演奏会のプログラムに書かれている聖書の言葉があります。それが、きょう、取り上げた箇所、テモテ第一3:16なのです。オラトリオ「メサイア」が表現したかったのは、この聖書の箇所にあるように、「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」ということだったのです。では、「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」というのはどういうことなのでしょうか。これは、何を言おうとしているのでしょうか。次に、そのことを学んでみましょう。

 二、キリストにある救い

 「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」というフレーズは、おそらく、初代教会で歌われていた賛美の一つだったと思われます。新約聖書には、そのような「さんび」がいくつも遺されています。ピリピ2:6-11は、その中で最も良く知られているものでしょう。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 このピリピ2:6-11の「さんび」は、神の御子が人となられたこと、十字架で死なれたこと、しかし、復活し、今、天の御座におられることを力強く歌っています。そして、「イエス・キリストは主である」という、信仰の中心の真理を告白し、すべてのものに勝って偉大なイエス・キリストを崇めています。ここを読むわたしたちもまた、ひざをかがめてイエス・キリストを礼拝する思いへと導かれます。

 テモテ第一3:16も同じように、主であり、王であるイエス・キリストを歌っている「さんび」です。これは、6行から成り立っていて、2行づつ、対になっています。

(第1行)キリストは肉において現れ
(第2行)霊において義とせられ
1行目と2行目は「肉」と「霊」の対比があります。1行目は、神の御子が人となり、からだを取ってこの世に来られ、そのお体をもって十字架の上で、人の罪の身代わりとなられたことを言っています。2行目は、イエス・キリストが十字架から三日して復活されたことを歌っています。犯罪人のひとりとして十字架で死なれたお方が、実は、神の御子であったことが、復活によって明らかにされたのです。

 3行目と4行目には「御使いたち」と「諸国民」という対比があります。

(第3行)御使たちに見られ
(第4行)諸国民の間に伝えられ
というのは、イエス・キリストの復活が、天でも地でも力づよく宣言されたことを言っています。

 そして、最後の

(第5行)世界の中で信じられ
(第6行)栄光のうちに天に上げられた
は、イエス・キリストが復活から四十日して天にお帰りになったこと、つまり「昇天」を描いています。4行目の「諸国民の間に伝えられ」と5行目の「世界中で信じられ」が対になっていることにも、お気づきでしょう。イエス・キリストが天にお帰りになって十日して、聖霊が弟子たちに降り、教会が生まれました。弟子たちは聖霊の力によって、イエス・キリストを宣べ伝えました。イエス・キリストの良い知らせは、世界にまたたくまに伝えられ、信じられたのです。この「さんび」も、天の御座に、栄光のうちにおられるイエス・キリストを賛美しています。

 ピリピ2:6-11もテモテ第一3:16も、イエス・キリストがこの地上に人となって生まれてくださったこと、人類の罪を背負って十字架で死なれたこと、死に勝利し復活されたこと、天の栄光の御座へと昇っていかれたこと、つまり、降誕、受難、復活、昇天を描いています。このイエス・キリストの降誕、受難、復活、昇天にわたしたちの救いがあるからです。神がわたしたちに与えてくださる救いとは、たんに「心が休まる」とか、「元気が出る」とかいった主観的なものではありません。イエス・キリストがこの世界に人となって来てくださり、歴史上の人物としてご生涯を送られ、それによって世界を変え、歴史を変えてくださったという客観的な事実に基づいたものなのです。この事実があればこそ、イエス・キリストを信じる者が、罪と滅びの世界から救われ、神の子どもへと変えられるのです。

 テモテ第一3:16は、イエス・キリストこそ救い主であることを明確に告げています。イエス・キリストが救い主であることを描く「メサイア」の主題の言葉として、これほどにふさわしい聖書の言葉はないと思ます。

 三、敬虔の奥義

 テモテ第一3:16は、また、「信心の奥義」と呼ばれています。「信心」は「敬虔」と言ったほうが分かりやすいでしょう。この言葉は、「敬虔の奥義」である以前に「救いの奥義」であり、「信仰の奥義」なのですが、ここでは「敬虔の奥義」と呼ばれています。それは、ここに救いがあり、信仰のよりどころがあるばかりでなく、これが、信仰者を敬虔な生活へと導く真理でもあるからです。

 聖書は、ペテロ第二1:5-7で「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心(敬虔)を、信心(敬虔)に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」と教えています。「敬虔」は特別な人だけに求められていることではなく、すべてのクリスチャンに当然備わっているべきもの、真実なクリスチャンなら何よりも求めてやまないものなのです。神を信じる者は、罪を赦され、義しい者とされるだけでなく、実際に正しくものを考え、語り、行動する者へと変えられていきます。この変化が「敬虔」です。

 英語の冗談に、「船酔いしている人は、誰も『敬虔』に見える」というのがありますが、ほんとうの「敬虔」とは、船酔いした時のように、青ざめて、おとなしくしていること、禁欲的な生活をするということではありません。人となり、苦しみを受け、復活し、今、栄光のうちに天におられるイエス・キリスト、このお方に信頼して、力強く生きること、それがほんとうの「敬虔」です。かつて人となって世に降られたお方を心に受け入れ、今は天にあってわたしたちを守り導いておられるお方に従って生きること、これこそがわたしたちの「救い」であり、「敬虔」なのです。

 初代のクリスチャンは大きな迫害に遭いましたが、それにくじけませんでした。ローマ皇帝の命令をも恐れませんでした。栄光の賛歌にあるように、「主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエス・キリストよ」と、イエス・キリストが、ローマ皇帝の上に立つお方であることを、告白し続けました。そして、このイエス・キリストに「聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。アーメン」と歌って、すべての栄光をお返ししたのです。わたしたちも、イエス・キリストを聖なる神、王の王、最高の権威を持っているお方として、信頼し、あがめたいと思ます。

 聖書のクリスマス物語は、イエスを飼いばおけに寝かせられた貧しく、力の無い赤ん坊として描くだけではなく、天使たちの賛美を受け、羊飼いや東方の博士たちに礼拝される栄光に満ち、力ある王としても描いています。このクリスマス、わたしたちは、イエス・キリストの貧しさを覚えるだけでなく、その栄光と力をも覚えたいと思ます。テモテ第二2:8に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とある通りです。わたしたちの「メサイア」(救い主)であるイエス・キリストを信じ受け入れ、このお方の権威と力によって生きる、確かな人生を、このクリスマスから始めましょう。また、すでにイエス・キリストを信じ受け入れた者は、この主なるお方の前にへりくだり、神を畏れ、尊ぶ「敬虔」な生き方をさらに求めていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、イエス・キリストのお生まれから昇天にいたるご生涯の中に、あなたの救いを示してくださいました。このクリスマスに、イエス・キリストのご生涯に秘められた救いの真理、信仰の奥義、また、敬虔の奥義を深く心に留めるわたしたちとしてください。救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/25/2016