5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
一、心の平和
11月26日、インドで起こった同時テロで亡くなった方は195人になり、今年(2008年)最大のテロとなりました。アメリカの国務省は、毎年4月に「テロに関する報告書」(Country Reports on Terrorism)を発表しています。今年の報告書は312ページにもなる分厚いもので、2007年に、どこの国でどんなテロが起こり、何人亡くなったが次々と書かれています。今年は、テロの犠牲者が去年よりも多く、2001年9月11日の同時テロの死者2,973名に次ぐ数になるのではないかと言われています。イラクでの戦闘そのものは2003年3月19日から4月30日までの一ヶ月半の短期間のものでしたが、その後の平和維持のために派遣された連合軍から数多くの死者が出ています。アメリカだけでも、この5年で4,000人近い兵士を失っています。戦争、内乱、テロ、紛争などのニュースを見聞きするたびに、平和な世界になって欲しいと、心から願わずにはおれません。
しかし、テロが止み、戦争がなくなれば、それで私たちに平和が訪れるのでしょうか。たとえ国と国との関係が良くなっても、社会に不安があれば、そこにはほんとうの平和はありません。アメリカをはじめ、世界の国々は、今、経済的にたいへんな状態ですが、こうしたことも解決されなければなりません。真面目に働いている人たちが報われないということがあってはなりません。また、普通に道を歩いているだけでいきなり刃物で刺し殺される。ホームで電車を待っていたら後ろから突き飛ばされる。車に引っ掛けられでもしたら、何キロメートルも引きずられるなどといった恐ろしいことが毎日のように起こる社会では、たとえ経済の面が豊かであっても、安心して生活することができません。
それに、家庭に平和がなければ、そこはとても惨めなところになります。聖書の箴言に「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」(箴言15:17)「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)ということばがあります。説明のいらないことばですね。夫婦が愛しあえない。親と子が心を通わせることができない。表面はうまくいっているように見えても、夫か妻のどちらかが、どちらかに盲従しているだけで、夫と妻が互いの欠点をカバーしたり、支えあったり、互いに高めあったりしていない夫婦関係もあります。家族の誰かがアディクション(依存物)にとらわれていると、その家庭はそれによって傷つけられます。アディクションのうち最も一般的なものは三つの ”A” で表すことができます。つまり、アルコール、アンガー(怒り)、アクティヴィティ(たえず動き回っていないと落ち着かないこと)です。アディクションやその他のことで健全な機能を失った家庭を "dysfunctional family" と言うのですが、多くの人が子どものころそういう家庭で育てられたため、自分たちが結婚して家庭を作るとき、自分が育ったのと同じ問題のある家庭を作ってしまうことが多くあります。残念なことに、dysfunctional family というのは、世代から世代へと遺伝のように伝わっていくのです。現代、そういう家庭が増えていますが、そうした家庭がいやされ、回復し、再び平和を取り戻してこそ、ほんとうに平和な社会が作られるのだと思います。
そのためには、まず、ひとりひとりの心の中に、ほんものの平和、平安が宿る必要があります。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)とあるように、平和、平安はまずひとりびとりの心の中に宿るのです。家庭で、社会で、平安を乱し、平和を乱すようなことをする人は、心のどこかに劣等感があり、不安な心を持っています。そして、自分がこうなったのは、家族が悪いから、社会が悪いからだと、すべてを他の人のせいにし、家族を苦しめ、反社会的な行動をとるようになるのです。反社会的とまでいかなくても、自分は不幸なこども時代を過ごしたのだから、少々ひねくれていてもしかたがないのだという言い訳を使います。まわりの人も「あの人はかわいそうな生い立ちなのだから大目に見てあげなくてはいけない。」と甘やかします。しかし、そうしたことは誰の益にもなりません。ただ平和を乱すだけです。家庭が、社会が、そして、世界がほんとうに平和であるためには、まず、ひとりひとりの心の平安がなによりも必要です。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の憲章にも「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」と書かれています。心の平安が健全な家庭を作り、健全な家庭が安全な社会を作り、安全な社会が平和な世界を作ります。世界の平和も、私たちの心の中の平安からはじまるのです。
二、神の平和
では、心の平安をどのようにして得ることができるのでしょうか。それはどこから来るのでしょうか。それは、「父なる神と主イエス・キリスト」から来ます。新約聖書の使徒たちの手紙のほとんどが、「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(テサロニケ第二1:2)ということばで始まっています。「平安」は「父なる神と主イエス・キリスト」から来ます。ですから、平安を求める人は、神とイエス・キリストのもとに来るのでなければ、本物の平安を得ることができないのです。ある人は、財産を貯めて、それで心の平安を得ようとします。財産があれば、いざというときに困らないから、心に安らぎを得られると思っているのですが、それは一時的な「安心」に過ぎません。そうやって財産を貯め込んで「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と自分に言い聞かせた人について、神は「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:19-20)と言っておられます。財産は一時的な「安心」を与えることができても、変わらない「平安」を与えることはありません。また、ある人は、友だちをたくさん作っておけば、そういう人脈がセーフティネットになって、大変なときに、実際的にも精神的にも支えてもらえると考えています。しかし、ほんとうに大変なときには、人のことばが何の助けにもならないことを、多くの人が体験しています。心の平安は、誰か他の人から分け与えてもらえるようなものではなく、ひとりびとりが自分で持たなければならないものです。それは、神のもとに行き、神とのまじわりの中で、神から直接受けるものだからです。
しかし、罪ある人間は、そのままでは、誰ひとり聖なる神の前に立つことはできません。神が、罪ある人間を、愛とあわれみのゆえに、寛大に取り扱ってくださることを「恵み」と言いますが、「恵み」によって、はじめて、人は罪を赦され、神との平和を得ることができ、そして、そこから、心に平安が与えられるのです。
この神の恵みがどこにあるか分かりますね。神の恵みは、今から二千年前、形をとり、人となってこの世に生まれました。それが、イエス・キリストです。聖書は「この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)と言っています。イエス・キリストこそ、神の恵みです。イエス・キリストは、私たち罪人の身代わりとなって十字架で死んでくださり、聖なる神と罪ある人間との仲立ちとなってくださいました。イエス・キリストによって、神と人との間に平和が成り立ったのです。イエス・キリストは私たちの「平和」です。この恵みによらなければ平安はありません。心の平安は、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの救いの恵みを受け取る人に与えられます。恵みと平安は、切っても切り離せない関係を持っています。それで、使徒たちは「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と、祈ったのです。あなたは罪の赦しを得ているでしょうか。神と和解したでしょうか。神との平和を持っているでしょうか。そして、そこから来る平安を持っているでしょうか。イエス・キリストはそれを与えるために世に来られました。キリストが与える神との平和、神からの平安を受けて取ってください。
三、平和の神
最後に、神の平和が私たちの生活にどのように働くかを見ておきましょう。テサロニケ第一5:23は「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」と言っています。ここでは「神の平和」ではなく、「平和の神」となっています。「神の平和」は「神から与えられる平和」という意味ですから、「平和の神」とは「平和を与える神」という意味になります。そして、このふたつのことばは、神の臨在(presence)と神の平和(peace)とが切り離せないものであることを教えています。神がおられるところに平安があり、平安のあるところに神がおられるのです。神が私たちに平安を与えてくださるということは、神が私たちとともにいてくださるということなのです。神が与えてくださるものは、愛も、恵みも、あわれみもみなそうですが、神ご自身から切り離された賜物というものは何一つありません。愛は欲しいが神はいらないということができないように、平安は欲しいが神の臨在はいらないということはできないのです。神が共にいてくださること、それが平安なのです。ですから、平安を求める人は神の臨在を求めるのであり、「神の平安」を持つことは、「平和の神」とともに生きることなのです。
23節には「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」とあります。「霊、たましい、からだ」は、私たちの全体、すべてという意味です。「霊」は神とかかわることのできる部分で、私たちは「霊」によって、霊である神とまじわり、人間の五感では感じることのできないものを感じ取ります。霊は真理によって生かされます。ですから、神の真理に対して忠実であるとき、霊の平安を感じることができます。ピリピ4:9で使徒パウロは「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」と教えています。また、私たちの霊の部分は、サタンの攻撃を受けやすいのですが、神とのまじわりに生きる者には、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16:20)と約束されています。「平和の神」に「踏み砕く」などという乱暴なことばはふさわしくないと考える人がいるかもしれませんが、神は、平和の敵に対しては断固として闘ってくださり、私たちの平安を守ってくださるのです。その霊に常に平和の神の臨在を感じている人はさいわいです。
「たましい」は、私たちが考えたり、感じたりする部分で、ふつう「心」と呼ばれているものです。心は、神にも向けられますが、同時に、私たちの身の回りのことにも向けられます。心は、困難があればくじけ、励まされることがあれば喜びます。心は環境に左右されます。ですから、私たちの心は常に神の平安で守られる必要があります。ピリピ4:6-7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあります。私たちの心が神の平安によって守られているためには、常に、何事についても祈る、絶えず祈ることが必要です。神の平安は祈りを通して私たちのうちに働くのです。
「からだ」は肉体のことです。神の平安は、霊や心だけでなく、私たちのからだをも守ります。ストレスなどが多くの病気を引き起こすことが知られています。神の平安によってこころが守られることで、からだも守られることが多くあります。神の平安がからだに直接働きかけて、いやしをもたらすこともあります。また、「からだ」ということばは、私たちが手足を使ってする生活の営みすべても意味します。神の平安を受けるとき、私たちの霊が守られ、心が守られるだけでなく、生活のひとつひとつのことが、整えられ、変えられていきます。ある企業と学校で、仕事や授業がはじまる前の15分間、静かに心を落ち着ける時を持ったところ、作業の能率があがり、学業が進んだということが報告されています。人間の作り出す平安でさえ、それだけの力があるなら、まして、神の平安が、平和の神が、あなたの生活を変えないわけはありません。
私は、最初に、「心の平安が健全な家庭を作り、健全な家庭が安全な社会を作り、安全な社会が平和な世界を作る。」と言いましたが、それは決して大げさなことばではありません。神の平安にはそれだけの力があるのです。事実、平安な心を保った人々によって家庭が変わり、一家が救われていった実例が数多くあります。歴史は、世界の平和が、心の平安を決して失わず、ひたすらに平和を追い求めた人々によって前進してきたことを教えています。24節は「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」と言っています。平和の神は、同時に真実な神です。ご自身の約束に真実なお方です。それを信じて、神の平安を、平和の神を求め続けましょう。
(祈り)
どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。(テサロニケ第二3:16)
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(ヘブル13:20)
12/7/2008