わたしたちの救い

テサロニケ第一1:8-10

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1:8 すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。
1:9 わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。

 「トトト、ツーツーツー、トトト」これは何でしょうか。モールス信号で "SOS" です。"SOS" は "Save Our Souls" というい意味で、これを最初に使ったのは、あのタイタニック号だと言われています。"SOS" を言葉で伝えるときは "Mayday" と言います。フランス語の「私を助けて」(m'aidez)という言葉に発音が似ているので、この言葉が使われるようになりました。緊急のときには、遠回りな、長々とした言葉は要りません。「救ってください」、「助けてください」で十分です。

 「主の祈り」の最後の願いは、「わたしたちを試みにあわせないで、悪しき者からお救いください」です。短く言えば、「救ってください」、「助けてください」です。主の祈りもまた、"SOS"、"Mayday" の祈りと言ってよいと思います。

 では、わたしたちにとって「救い」とは何なのでしょうか。わたしたちが「救ってください」と願うとき、わたしたちは何から救ってくださいと願えばよいのでしょうか。聖書は「救い」を「罪からの救い」だと言っていますが、わたしたちはどんなふうに罪から救われるのでしょうか。きょうは「救い」を「過去」、「現在」、「未来」の三つの面から考えてみましょう。イエス・キリストを信じる者は、すでに救われ、今救われ続け、やがて完全に救われるということです。

 一、過去の救い

 では、「過去の救い」から見ていきましょう。聖書は「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者はさばかれない」(ヨハネ3:17-18)と言っています。罪を犯した者には刑罰が与えられます。しかし、イエス・キリストを信じる者は本当は受けなければならない罪の刑罰をまぬかれるのです。罪が赦され、まるで罪がなかったようにして、神に受け入れられるのです。それは、イエス・キリストがわたしたちが犯したすべての罪をその身に引き受け、わたしたちの身代わりとなって十字架の上でその刑罰を受けてくださったからです。わたしたちが犯した罪のペナルティは、すでに、すべて、主イエスによって支払わています。イエス・キリストを信じる者はすでに救われている。これが、聖書が救いについて語っている第一のことです。

 わたしたちが犯した罪、それには、わたしたちが実際に行ったことばかりではなく、言葉で言ったことや態度で示したこと、さらには心に抱いたものも含まれます。それも、これも皆、神の前には罪なのですが、しかし、人間が犯す最大の罪とは何でしょうか。それは、自分の人生から神を締め出すことです。わたしたちを赦そう、受け入れようとしておられる神を斥けることです。神を信じないで、神でないものを神とすることです。

 きょうの箇所には、テサロニケのクリスチャンの救いの体験が書かれています。それは「偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」(9節)という体験です。当時、テサロニケの人々はギリシャやローマの神々に慣れ親しんでいて、まことの神を知りませんでした。この町に使徒パウロがやってきて、イエス・キリストを宣べ伝えました。それを聞いた人々は、最初は「ユダヤ人の神さまのことか」と思ったことでしょう。しかし、キリストの福音を聞くにしたがって、世界には、あの神、この神と数多くの神々がいるわけではない。また、それは、人間が木を削り、土の型に金属を流しこんで作った、物言うことも、動くこともできない偶像ではない。「人間が作った神」ではなく、「人間を造られた神」こそ、まことの神だということが分かるようになりました。それで人々は、偶像を捨てて神に、生けるまことの神に立ち返ったのです。

 日本でもまた、かつてのテサロニケと同じように、数多くの神々をまつってきました。日本には「やおよろず」(八百万)の神がいるとされます。しかし、誰も、どれがほんとうの神さまだろうかと考えることしません。神さまはひとりだけよりも、おおぜいいたほうが便利だとぐらいにしか思っていません。つまり、ほんとうの意味では、神を求めてはいないのです。そんな日本で生活していた人たちがアメリカにやってきて、アメリカのクリスチャンが神のことを真剣に考え、本気で神を敬い、従おうとする姿に出会う。そのことから信仰を真面目に考えるようになる。そんな体験を多くの人がしています。新島譲は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)という言葉によって、信仰に導かれたと言われていますが、皆さんの中にも、聖書に出会い、わたしを造り、生かしておられるのは、じつがこの神であることが分かって、神を信じるようになった人も多いと思います。

 聖書は「偶像を捨てて神に立ち帰り」と言っています。「立ち返る」という言葉は、神から離れたイスラエルの人々に対して使われる言葉です。イスラエルの人々は、まことの神を知っていたのに、まわりの国々の神々に惹かれ、まことの神への信仰を捨てて、偶像を拝むようになりました。ところが、ギリシャ人であったテサロニケの人々は、まことの神を知らなかったのに、「神に立ち返った」と言われています。なぜでしょう。それは、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうがすべての人は、唯一のまことの神によって造られたからです。世界の宗教のそれぞれにどんなに多くの神々がいようと、神はただおひとりです。日本人は日本の神々に造られ、インドの人々はヒンドゥの神々に造られ、イスラムの人々はアッラーによって造られたわけではありません。世界中のどこのだれであっても、どの宗教を信じていても、あるいは無宗教であったり、無神論であったりしても、その人を造り、育て、生かしておられるのは、ただおひとりの神です。ですから、どの人も、イエス・キリストにある信仰を持つとき、「神に立ち返った」と言うことができるのです。

 ですから、クリスチャンになるということは、たんにある宗教からキリスト教という宗教に宗旨替えをするということではないのです。アメリカに来たのだから、多くのアメリカ人が信じているキリスト教に入っておこうということでもないのです。神を神として認めずにきたわたしたちの罪をイエス・キリストがすべて赦してくださる。そのことを信じて、わたしの神、「生けるまことの神」へ立ち返ること、それこそがわたしたちの救いなのです。

 二、現在の救い

 では、罪の赦しを得たなら、それで救いは終りなのでしょうか。わたしは、何人もの人がこう言うのを聞いてきました。「わたしはイエス・キリストを信じ救われました。もう天国が保証されているのですから、あとは自由に生きていってよいのでしょう?」そうしたことを聞くたびに悲しくなりました。わたしの罪の負い目が主イエスの十字架によって支払われていることを知っている者が、「自由になった。バンザイ」と言って、神から離れ、イエス・キリストから去っていくことができるでしょうか。そんなことはできないはずです。罪とは神から離れている状態のことを言うのですから、神から離れるということは、再び罪の中に戻っていくことです。神から、イエス・キリストから離れていて「わたしは救われています」と言うことはできないはずです。

 救いは「わたしはイエス・キリストを信じます」という決断から始まります。それは図に描けばひとつの「点」です。決断の時、それは大切なものです。すべてはそこから始まります。しかし、救いはそこだけで終りません。救いはたんなる「点」ではなく、そこから伸びていく「線」のようなものです。わたしたちはイエス・キリストを信じて救われます。しかし、それは「救われてしまって、もう何もしなくてよい。イエス・キリストも何もなさらない」ということではないのです。神がわたしたちの罪を赦し、わたしたちを神の子どもとしてくださったのは、わたしたちが実際に罪から離れ、神の子どもらしくなるためです。それはわたしたちの努力でできることではなく、イエス・キリストとつながることによってはじめてできることです。それが、わたしたちの生涯の中に働き続ける、イエス・キリストの救いです。わたしたちは、イエス・キリストを信じたときに救われ、その時から救われ続けているのです。日ごとにイエス・キリストの救いの中に生きるのです。救いは過去のことだけではなく、現在のことなのです。

 テサロニケ人への手紙では、このことが「生けるまことの神に仕える」という言葉で言い表わされています。「仕える」という言葉には原語で「奴隷になる」という意味があります。わたしたちはかつては罪の奴隷でした。しかし、罪から解放されて義のしもべとなりました(ローマ6:18)。偶像に仕えていたテサロニケの人々は、こんどは生けるまことの神に仕えるようになりました。「解放されました。自由になりました」といって神から去っていったのではなく、自ら進んで、自分たちを解放してくださったお方のしもべになったのです。わたしたちも同じです。罪に仕え、自分の欲望に仕えてきたわたしたちの過去を赦し、そこから解放してくださったイエス・キリストに仕えていくのです。イエス・キリストに仕える生活が、救いそのものなのです。

 「神に仕える」というのは、かならずしも、実際にからだを動かして何かをするということではありません。それはローマ6:22に「しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る身を結んでいる」とあるように、神とのまじわりの中で、心において、態度において、また、行動において、神のご性質を反映していくことを意味しています。

 イエス・キリストを信じる者は、すでに罪の刑罰から救われています。しかし、信仰者にも神とのまじわりから引き離そうとする罪の力が働きます。ですから、わたしたちには、日々に「救い」が必要なのです。イエス・キリストがわたしたちと共にいて、わたしたちを罪の力から救い続けてくださっていることを、いつも覚えていたいと思います。

 三、将来の救い

 イエス・キリストはわたしたちを救ってくださり、そして、救い続けてくださいます。ですから、わたしたちはどんなに苦しい中でも、イエス・キリストに支えられて歩むことができます。それでも、世にある間は、わたしたちは自らの罪やさまざまな悪と戦い続けなければなりません。さまざまな問題に悩まされ、困難に襲われ、悲しみを味わなければなりません。それで、すでに救われ、今も救われて続けているわたしたちも、心の中に、罪と死と悪に対する完全な勝利を願い求める叫びがあるのです。

 イエス・キリストはその叫びにも、答えてくださいます。10節に「そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになった」と言われています。これは、イエス・キリストの「再臨」のことを言っています。今から二千年前、イエス・キリストはわたしたちの罪を背負うために、しもべとなって世に来てくださいましたが、もういちど来られるときには、王として、栄光のうちに来られるのです。そして、この世を治めてくださいます。イエス・キリストはその十字架によってわたしたちを罪の刑罰から救ってくださいました。復活なさったイエス・キリストは、今、わたしたちと共にいて、罪の力から救い続けてくださっています。そして、やがて、その再臨によって、わたしたちを罪の存在そのものから救ってくださるのです。

 「主の祈り」の「救ってください」との願いには、過去の救い、現在の救い、将来の救いのすべてが含まれています。「主の祈り」は神を「父」と呼んでいますから、それは神の子どもたち、つまり、イエス・キリストを信じて「救われた人」の祈りです。わたしたちは、自分たちだけが救われればそれでよいとは思っていません。神を「われらの父」と呼んで、もっと救われる人が増えるように、多くの人とともに神を「父」と呼ぶことができるようにと願い求めています。

 また、「主の祈り」は「日ごとの糧を今日も」とあるように、日々の祈りです。わたしたちは毎日、困難に直面し、誘惑に会います。ですから、わたしたちは、イエス・キリストの救いを、日々に祈り求めるのです。

 さらに、「主の祈り」に「御国がきますように」とあるように、それは、イエス・キリストの再臨を待ち望む祈りです。わたしたちは「主の祈り」を祈ることによって最終的な救いを求めます。また、「主の祈り」祈るごとに、救いの完成の時が近づいていることを感じとるのです。

 キリストが十字架で死なれたこと、復活されたこと、再び来られ、世を治めてくださるということは、こどもをどう育てたらいいか、この難しい仕事をどうやり遂げたらいいか、また、老後をどう過ごしたらいいかなどの身近なことがらと直接のつながりが無いように思えます。たしかに、聖書が大切なこととして教えるキリストの十字架、復活、また再臨は「人生の教訓」や「生活の知恵」といった、すぐに役立つ知識ではありません。しかし、どんなに人生をうまくやっていけても、人と仲良くできたとしても、自分にどんな価値があるのか、自分の人生にはどんな意味があるのか、その目的は何なのかといった重要な問いに対する答えはそこからは出てきません。それに答えることができるのは、十字架による罪の赦し、復活による永遠の命、そして再臨による希望です。それがわたしたちの日々を、とりわけ、困難なときを支えるのです。

 イエス・キリストは十字架によってすでにわたしたちを救ってくださいました。やがて再臨によって完全な救いを与えてくださいます。わたしたちは十字架を信じる信仰に支えられ、再臨の希望に導かれ、復活の主から来る日々の救いを体験し、この人生を力強く生きていくのです。 

 (祈り)

 父なる神さま、初代のクリスチャンたちはみな、イエス・キリストの救いを確信し、その救いを生き、救いの完成の時を待ち望みました。わたしたちにも同じ信仰を与えてください。そして、どんな困難な中でも、イエス・キリストの救いを信じ、「救ってください」と、あなたを呼び求めるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/18/2015