1:4 神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。
1:5 なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。
1:6 そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、
1:7 こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。
1:8 すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。
1:9 わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。
今週はもうサンクスギヴィング・デーを迎えます。サンクスギヴィング・デーになると、一年の終わりを感じさせます。実際、教会暦では、きょうの日曜日は、一年の最後の日曜日となります。アメリカではきょうはサンクスギヴィング・サンデーですが、世界中の教会ではこの日は「王なるキリスト主日」(Christ the King Sunday)として守られています。
一、教会暦
「王なるキリスト主日」についてお話しする前に、教会暦について少しお話ししましょう。教会暦は、クリスマスの4週前の日曜日から始まり、このシーズンは「アドベント」(待降節)と呼ばれます。アドベントの次は「クリスマス」で、12月25日から次の年の1月5日までが「クリスマスの12日」(Twelve Days of Christmas)として祝われます。クリスマス・ツリーなどはクリスマスの12日の間ずっと飾っておきます。お正月が過ぎてもクリスマス・ツリーを飾っている家は、ツリーを片付けるのを忘れているのではなく、クリスマスを伝統に従って守っている家なのです。
1月6日は「エピファニー」(公現日)で、赤ちゃんのイエスが東方の博士たちの訪問を受けた日とされています。この出来事は、イエスがすべての人の救い主であることを示しており、エピファニーの次の日曜日は「主のバプテスマの日」で、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、公の生涯に入られたことを覚えます。エピファニーの期間、私たちはイエスが公生涯でなされた教えやみわざを学びます。
イースターの四十日前は「レント」で、イエス・キリストの十字架に焦点を合わせ、それを思い見ます。イースターはキリストの復活をお祝いする日で、教会の最大の祝日です。じつは、毎週日曜日は小さなイースターで、教会の礼拝が日曜日に行われているのは、日曜日がキリストの復活の日だからです。
イエス・キリストは復活ののち四十日にわたってご自分の生きておられることを示されから、天に帰って行かれました。そして、そのとき二つのことを約束なさいました。そのひとつは、聖霊を遣わして、教会を始められること、もうひとつは、その教会を天に迎えるためにもう一度天から降りてこられることです。聖霊を遣わしてくださるとの約束は、イエスの昇天から10日目、「ペンテコステ」の日に成就しました。しかし、キリストがもう一度世に来られることはまだ実現していません。初代教会から今にいたるまで、信仰者たちはキリストがもう一度、王として来られる日を待ち望んでいます。その希望を表わすため、教会暦最後の日曜日が「王なるキリスト主日」となったのです。
教会暦はたんに教会の行事を定めただけのものではありません。それは、イエス・キリストにある救いを告げ知らせ、教えるものです。「クリスマス」は神の御子が人となられたという「救いの基礎」を、「イースター」は神の御子が罪の贖いをなし終えて復活されたという「救いの成就」を告げ知らせています。そして、「ペンテコステ」は私たちをキリストの救いのうちに生かしてくださる聖霊と、聖霊によって生みだされた教会という「救いの奥義」を教えています。教会暦の最後の日、「王なるキリスト主日」は、キリストの再臨という「救いの完成」を私たちに待ち望ませるのです。
世界中の人々は、それぞれの国のカレンダーに従って行事を行いながら生活しています。カレンダーが無かったら、一年が節目のないものになってしまうでしょう。日本人はアメリカにいても日本のカレンダーを取り入れ、それによって日本の文化を保っています。クリスチャンは、教会のカレンダーに従って信仰生活を送ります。テモテへの第二の手紙2:8に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とあるように、教会暦によって、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いのみわざを覚えるのです。教会暦はたんなる行事予定表ではありません。キリストを中心にして日々を送り、一年一年をキリストと共に神の国を目指して歩むためのものです。教会暦を信仰の成長のために活かしていきたいと思います。
二、王であるキリスト
きょうは「王なるキリスト」を覚える日ですが、さきほどのテモテ第二に「ダビデの子孫として生まれ」とあったように、イエスはイスラエルの王であったダビデの子孫で、「王」として生まれたお方でした。しかも、イエスはたんにユダヤ人の王というだけでなく、神の国の王です。それで、イエスの教えの第一声が「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)だったのです。山上の説教は、王であるイエスがご自分の民にお与えになった「神の国の憲法」のようなものでした。イエスは五千人以上の人々にパンを与え、それをご自分が王であることのしるしとされました。王は、その国民を養う者だからです。エルサレムに入城されたとき、人々はイエスを王として迎えました。イエスは人々が「ホサナ!ホサナ!」と叫んでご自分を迎えるのをお許しになりました。総督ピラトがイエスに「それでは、あなたは王なのだな」と言ったとき、イエスは「あなたの言うとおり、わたしは王である」と答えておられます(ヨハネ18:37)。
そのとき、イエスはピラトに「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)とも言われました。今、世界には195の国がありますが、神の国は、それのどれでもありません。それは国境のない国で、全世界に広がっています。アッシリヤ、バビロニア、ペルシャ、ローマなどいった、かつては大きな力を持っていても、今はもう無くなってしまった国が数多くありますが、神の国はそういったもののひとつでもありません。神の国は、この世の国のように移り変わり、過ぎ去っていく国ではありません。いつまでも続く、永遠の国です。
イエス・キリストを信じる者は、どの国の誰であっても、神の国の国民として受け入れられいます。神の国の王であるイエス・キリストによって、守られ、導かれ、養われています。教会は、神の国の大使館のようなところで、この世に対して神の国を代表し、代理するのです。クリスチャンひとりひとりはキリストの大使であり、王であるキリストに忠誠をつくし、キリストの愛のメッセージ、平和のメッセージ、希望のメッセージを世の人々に伝えるのです。
教会とひとりひとりのクリスチャンには、ひとりでも多くの人を神の国に導き、この地を少しでも神のみこころにそったところにする使命が与えられています。教会も、個々のクリスチャンもそのことに励んできましたが、この世界はまだまだ神のみこころから遠く、国と国とが争い、民族と民族とが敵対しています。社会には不正や矛盾が満ちています。多くの家庭がバラバラになっています。科学技術が発達して、世界中の人々が同時に情報をやりとりできるようになりました。なのに、家族や身近な人たちが互いに心と心を通わしあえないでいます。今、若者たちの多くが、顔を合わせての会話が苦手で、電話やメールでしか会話ができなっていると聞きます。通信や交通が不便だった時代のほうが、人はもっと心を通わせあい、良い関係を築いていたかもしれません。
世界はすでに二度の大戦を経験しています。三度目の世界戦争があれば、どの国も勝ち残れず、世界が滅びてしまうとさえ言われています。キリストを信じる者はそんな世界が平和に向かうように、社会に公平がもたらされるように、家庭にいやしが来るように努力していますが、最終的な平和、ほんとうの公平、そして完全ないやしはキリストが王として再びこの世に来られ、世界を治めてくださる時まではやって来ないことも知っています。それで、信仰者は、「キリストよ来てください。来て、この世を治めてください。すべての罪と悪から人類を救ってください」と祈り、キリストの再臨を待ち望むのです。
三、再臨の希望
神の国は信じる者のところにすでに来ています。しかし、キリスト再臨の日には、神の国は目に見える形で全世界に、すべての人に及ぶのです。キリストを信じる者はみな、この再臨の日を待ち望んでいます。再臨は初代から今にいたるまで常に教会の希望でした。今朝の聖書はテサロニケの教会に宛てられた手紙で、ここにはテサロニケのクリスチャンが再臨の希望に生きていたことが記されています。テサロニケの人々は、神の言葉を聞いて、それを信じ受け入れました。それまでギリシャの神々をあがめ、土着の宗教の偶像を拝んでいましたが、まことの神を知ったとき、それらを捨てて、生ける神に立ち返ったのです。人々はクリスチャンのこの変化を見て、誤解したり、迫害したりしました。しかし、テサロニケのクリスチャンは、それに負けず信仰を保ちました。キリストを救い主としてだけでなく、キリストを主として従い、キリストに倣う者にになりました。今朝の箇所の6,7節に「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった」とあるのは、テサロニケのクリスチャンの回心の様子を描いた言葉です。
こういう箇所を読むと、皆さんも自分がクリスチャンになったときのことを思い起こしませんか。私たちも、それぞれ、神の言葉を聞き、それを信じ受け入れました。「神などいるものか」「人生には意味はないのだ」などといった考え方から解放され、まことの神を知った喜びを味わいました。そして、この喜びを味わった後は、神の言葉を自分たちのうちにだけ留めておくことができず、他の人に伝えました。テサロニケのクリスチャンも同じでした。8-9節にこう書かれています。
すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。
神の言葉は、教会から出て、その地方に響きわたりました。この「響きわたる」という言葉は新約聖書ではここでしか使われていない言葉で、鐘やトランペットのような大きな音が出る楽器を鳴らすことを意味しています。神の言葉が小さな声でささやかれたのでなく、雷の響きのようにその地方にとどろきました。神の言葉はクリスチャンの間でだけでなく、町の人々の口を通しても語られるようになり、人々は、クリスチャンの信仰について「クリスチャンは、復活して天に帰ったイエス・キリストが、もういちど天から来るのを待っているんだそうだ」と話すほどになっていったのです。「教会ではこんな行事がある」「あそこのコワイヤーは上手だよ」「教会のバザーにはいいものがたくさんあるよ」などといったことははよく話題になります。しかし、教会が何を信じているかという、信仰の内容が話題になることはあまりありません。ところが、テサロニケの町の人たちは、クリスチャンが何を信じているかを知っており、それを話題にし、そのことの意味を考えるようになっていたのです。それはテサロニケのクリスチャンが、自分たちの信じていることをはっきりと語り、その信仰が見えるような生き方をしていたからだろうと思います。
自ら語るだけでなく、他の人に語らせる。これは素晴らしい伝道です。あるオフィスに行ったとき、その受付に、「苦情がおありでしたら私たちにお話しください。お褒めにあずかることがあれば、他の人にお話しください」という言葉を刻んだ置物がありました。なるほどと思いました。そのオフィスを訪れた人がそこで良い思いをして、「あそこはいいよ」と他の人に言ってくれれば、それはとても良い宣伝になります。自分で自分のことを話しても自己宣伝になって聞き苦しいことがあります。でも、回りの人が良い評判をひろめてくれたら、とても効果的です。テサロニケの教会は、自分たちがキリストのことを語るだけでなく、キリストを信じる真剣な生き方を貫くことによって、まわりの人にその信仰を伝えてもらうという最高の伝道をしていたのです。
キリストが再び来られ、王となって世を治めてくださるということは、こどもをどう育てらいいか、この難しい仕事をどうやり遂げたらいいか、また、老後をどう過ごしたらいいかなどの身近なことがらと直接のつながりが無いように思えます。たしかに、聖書が大切なこととして教えるキリストの十字架、復活、また再臨は「人生の教訓」や「生活の知恵」といった、すぐ役立つ知識ではありません。しかし、どんなに人生をうまくやっていけても、人と仲良くやっていけても、自分にはどんな価値があるのか、自分の人生にはどんな意味があるのか、その目的は何なのかといった重要な問いに対する答えは。そこからは出てきません。それに答えることができるのは、十字架による罪の赦し、復活による永遠の命、そして再臨による希望です。それが私たちの日々を、とりわけ、困難なときを支えるのです。
キリストの十字架、復活、再臨を信じる信仰が人を救います。この信仰に裏打ちされた生活が人々への証しとなります。王なるキリストに支えられ、導かれ、守られていく人生が、私たちの回りの人々に神の言葉を響かせる楽器となるのです。私たちもテサロニケのクリスチャンのように、回りの人々に私たちの信仰を話してもらえる、そんな教会、クリスチャンになりたいと思います。それこそが、キリストの再臨を待ち望み、王なるキリストをお迎えするのにいちばん良い準備なのです。
(祈り)
父なる神さま、初代のクリスチャンたちはみな、キリストの再臨を心から待ち望み、その日を思って日々を生きました。その真剣な信仰は、まだクリスチャンでない人たちの心をも捉えました。そのように、私たちにも、キリストの再臨を待ち望む生活を与えてください。王であるイエス・キリストを心に迎え入れ、このお方に忠誠をもって仕えることができますように。人々が主の再臨の日を平安のうちに、喜びをもって迎えることができるために、力強く神の言葉を響かせるものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
11/24/2013