1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
以前のことですが、娘が、日本のニュースを観て、「お父さん、日本でスダレがあったんだよ!」と言いました。「えっ、スダレ?」と聞き返すと、「ヨダレだったかな?」と自信がなさそうです。「ほら、山の雪が崩れて…」と言うものですから、「それはナダレだろう。」と言うと、「そう、それ、それ!」と言って、皆で大笑いしたことがあります。「ナダレ」と「スダレ」、「ナダレ」と「ヨダレ」では大違いです。ある人に電話をかけたところ、日本語を習いはじめたばかりのご主人が電話に出ました。「奥さん、いますか?」と言うと、「今、ビョウインです。」との答えがありました。「えっ、どこか悪いんですか?」と聞くと、「いや、違いましたビヨウインです。」との返事で、ほっと安心したこともありました。「ビョウイン」と「ビヨウイン」も似てはいますが違います。他にも奥さんが「キュウイを買ってきて。」と頼んだのに、ご主人が「キュウリ」を買ってきたという話も聞きました。「キュウイ」と「キュウリ」も、名前は似てはいますが全く別物です。こういう間違いや勘違いは笑って済ませられますが、大切なことでは、似てはいても違うものをしっかり区別しないと、大きな失敗をしてしまいます。「願望」と「欲望」は違いますし、「勇気」と「向こう見ず」、「平安」と「気休め」は違います。今朝のテーマ、「喜び」と「笑い」も違います。コメディを観れば大笑いすることができるでしょうし、気のあった仲間とワイワイやっていれば楽しいでしょう。しかし、面白いこと、可笑しいこと、楽しいことと、喜びとは別物です。「笑い」はあっても「喜び」のないところがありますし、「楽しみ」はあっても、それが「喜び」とはならないこともあります。むしろ、悲しみの中に喜びがあり、苦しみの中で喜びを感じ取ることもあります。聖書が教える「喜び」は、私たちが普段考えている「笑い」や「楽しみ」とは違ったものなのです。
一、苦難の中の喜び
今朝の箇所に「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」(テサロニケ第一1:6)とあります。ここには「苦難の中の喜び」が教えられています。
初代のクリスチャンは、迫害を受け、様々な苦しみを味わいました。今日では、「教会にいらっしゃいよ。楽しいから。」「信仰を持ったら、仕事も、家庭もうまくいくよ。」と言って、人々を教会に誘ったり、信仰を勧めたりしますが、初代教会では、そういうことばは通用しませんでした。教会に属することは、キリストのゆえに受ける苦しみを共にすることであり、信仰のゆえに財産を奪われ無一物になることも、家族の反対にあい勘当されることも、殉教さえも、覚悟しなければなりませんでした。
クリスチャンは後にはローマ帝国による組織的な迫害を受けましたが、最初はユダヤ教徒からの迫害を受けました。テサロニケのクリスチャンが受けた迫害もユダヤ教徒からのものでした。使徒の働き17章に、使徒パウロがテサロニケで伝道したときのことが次のように書かれています。
彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。(使徒17:1-4)「神を敬う人」というのは、ユダヤ教に改宗した人たちのことですが、パウロは、他の町でもしてきたように、まずユダヤ人と改宗者たちキリストの苦しみと復活とを伝えました。大勢というわけではありませんが、何人かの人々が、しっかりしたクリスチャンになりました。ところが、これをねたんだ人々が、暴動を起こしたのです。次を読んでみましょう。
ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。」こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。(使徒17:5-8)このため、パウロはテサロニケに留まることができず、次の町、ベレヤに行きました。聖書は、ベレヤの人々について「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。」(使徒17:11-12)と言っています。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで…」という言い方は、テサロニケのユダヤ人が、どんなに悪かったかを言い表しています。実際、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤで神のことばを伝えていることを知ると、ベレヤにまで押しかけてきて、そこでも群衆を扇動し、騒ぎを起こしたほどでした。パウロはそのため、ベレヤにもおれなくなってアテネに行くことになったと、聖書は告げています。
パウロはその後、コリントで一年半、腰を据えて神のことばを教え続け、実りの多い伝道をするようになるのですが、テサロニケのクリスチャンは、もちろん、テサロニケの町に留まり続けなければなりませんでした。ねたみにかられ、町のならず者をかり集めては暴動を起こすような人々に取り囲まれ、苦しめられていました。では、そんなテサロニケのクリスチャンは、喜びのないクリスチャンだったのでしょうか。いいえ、その反対でした。他のどの地方のクリスチャンよりも喜びに輝いており、他のクリスチャンの模範となりました。苦難の中でも喜びを持っていました。いや、苦難を通してしか得られない喜びを持っていました。6節の最後に「私たちと主とにならう者になりました。」とあるように、テサロニケのクリスチャンは、迫害にあうことによって、同じく迫害にあってきた使徒たちと、十字架の苦しみという最も大きな苦難を耐え忍ばれた主イエス・キリストの足跡に従うことができたのです。"No Cross, No Crown; No Pain, No Gain." とよく言われるように、苦難を通してしか得られない喜びがあります。テサロニケのクリスチャンと初代のクリスチャンは、この喜びを知っていました。「苦しいこと、嫌なことはできるだけ避けたい」というカルチャーにどっぷり漬かっている、現代のクリスチャンも、もういちど聖書に立ち返って、ほんものの喜びを求める時が来ているように思います。
二、聖霊による喜び
しかし、どのようにして苦しみの中でも喜びを持つことができるのでしょうか。それは、聖霊によってはじめて可能になるのです。しかし、「聖霊による喜び」について、いくつかの間違った考えがあるので、まず、それを正しておきたいと思います。
間違いの第一は、「この世には、ほんとうは苦しみなどないのだ。それを苦しみだと思うから苦しみになるのだ。罪や悪、病気や苦しみは人間の心が作り出すものだ。」という考え方です。このように考える人は案外多く、Christian Science と呼ばれる宗教でもそう教えます。Christian Science とは、ずいぶん立派な名前ですが、それは Christian でも Science でもありません。キリスト教とも科学とも矛盾する教えです。それこそ、キリスト教とは「似て非なるもの」ですから、注意が必要です。このような教えによると、世の中のすべては善であり、罪も悪も無いことになります。そして、世の中に罪も悪もなければ、善と悪とを区別している聖書は間違っていることになります。その区別を定めた神も間違っており、罪を罰し正義に報いる神を否定することになります。罪も悪も現実のものでないなら、人類の罪のために受けられたキリストの苦しみは一体何だったのでしょうか。聖書に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3,4)とある通り、人は、さまざまな苦しみを通って、人格的に霊的に成長していくのですが、苦しみを否定するなら、そこにはどんな人格の成長もなくなります。また、社会はさまざまな悪と戦うことによって、より良いものへと進歩してきました。奴隷制度や独裁政治、人種差別や性差別などが悪でないのなら、そうしたものと戦う必要もなかったのです。
個人も社会も、また、地球環境さえも、罪と悪によって傷つけられ、苦しみ、うめいています。この不況の中で仕事をなくし、住む家もなくした人々が苦悩と不安を訴えています。長年病気が直らないでいる人、人間関係の不和に苦しむ人がなんと多いことでしょうか。この世に苦しみがあるのか、無いのかなどという議論は、実際に苦しみに遭っている人にはナンセンスです。聖書は「人が生れて悩みを受けるのは、火の子が上に飛ぶにひとしい。」(ヨブ記5:7口語訳)と言っています。苦しみは、すべて世に生まれてくる人を待ち受けている現実なのです。
間違いの第二は、「信仰を持っているものは、苦しみを苦しみと感じないで、どんな場合でも微笑をもってそれに対処すべきだ。」という考えです。病気になっても、もっと重い病気の人もいるのだから、少しばかりのことで「痛い」とか「つらい」とか言わないで我慢し、感謝すべきであるとか、肉親や親しい人が亡くなっても、天国に行ったのだから喜ぶべきだというのです。確かに、信仰を持つ者は大きな苦しみの中でも平安を与えられますし、愛する人々を失くしたときも、天からの慰めを受けます。しかし、神からの平安や天の慰めではなく、人間的な方法や力で苦しみの中でも無理をして笑顔を作り、愛する人を失くしてもニコニコしている人がいるとしたら、それは信仰をあかしするよりは、かえって、不自然で奇異な感じをひとびとに与えないでしょうか。「聖霊による喜び」は、苦しみを苦しみとして感じさせない、麻薬のようなものではありません。苦しいものは苦しく、痛いものは痛いのです。病院には「なんとか我慢できる」「我慢できない」「苦しくてたまらない」など、10段階に分かれた「痛みのスケール」というのがあります。それぞれのステージに「スマイル・マーク」がついているのですが、スケールがあがるほど「スマイル」が消えていきます。それと同じように、痛みが強ければ強いほど、私たちの顔はゆがみます。つらいときにはしおれます。悲しいときには涙が出ます。病気になったら、痛いと言えばよいのです。つらいときはそのつらさを訴えれば良いのです。愛する人を失くしたらいっぱい涙を流せばよいのです。
カール・マルクスは「宗教はアヘンである」と言いました。当時のドイツではアヘンは痛み止めとして使われていて、彼は「宗教は現実の苦しみから目をそらせるだけで本当の解決を与えない」という意味でそう言いました。もしその宗教が、たんに痛みや悲しみ、苦しみや嘆きから目をそらせるだけであるなら、まさにその宗教は「アヘン」のように、本当の解決を与えはしません。ほんとうの信仰は、私たちに痛みに直面させます。痛みや苦しみを切実に感じさせます。聖書の教える信仰は、人間の苦しみのただ中に降りてきて、その痛みをともに背負ってくださった救い主への信仰です。そして、苦しみ抜かれた救い主、傷つけられた救い主を信じる信仰だけが、苦しみと痛みの解決といやしへと導くのです。「聖霊による喜び」は、苦しみを否定した喜びでも、人間の心がけで苦しみを処理することでもありません。それは、苦しみのただ中で、それを克服するために聖霊によって与えられる喜び、天からの喜びです。それは人間の「悟り」で勝ち取るものでも、「やせ我慢」をして、喜んでいる「ふりをする」ものでもありません。苦しみを苦しみとして味わい、その苦しみの意味や目的を理解するとき、いや、すべてを理解できなくても、自分の苦しみがキリストの苦しみと繋がっていることが分かるとき、神が苦しむ者とともにいてくださることを確信することができます。そのとき、そこに、静かな、深い喜びが湧き上がってきます。この喜びが「聖霊による喜び」です。
「『品物』はお金では買えるが『満足』はお金では買えない。『笑い』はお金で買えるが、『喜び』はお金では買えない。」と言われます。お金があれば、欲しいものが手に入るでしょう。しかし、欲しいものを手に入れたからと言って、それで満足がやってくるわけではありません。むしろ、「もっと欲しい」という欲望が掻き立てられるだけです。同じように、豪華な食事を用意し、コメディアンやマジシャン、エンタテナーを招き、大勢の人を集めてパーティをすれば、きっと楽しく、大笑いできるでしょう。そうした「楽しみ」はお金で作り出すことができます。しかし、そこに本当の喜びがあるでしょうか。そこに聖霊がおられなければ、そこは賑やかで華やかではあっても、人の心に喜びを与えるところにはならないのです。聖書は言っています。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)人々は、今のこの不安な時代に、切実に「義と平和と聖霊による喜び」を求めています。私たちには、人間の作り出す「楽しみ」ではなく、聖霊がくださる喜びが必要なのです。
アフリカのある国から来た青年が言いました。「私たちの国ではクリスチャンに対する迫害があります。私たちは、まるでボールが地面に叩きつけられるように叩きつけられています。しかし、私たちの心には聖霊がおられます。空気の一杯入ったボールが、地面に強く叩きつけられれば叩きつけられるほど、高く跳ね上がるように、私たちは、聖霊によって、高く、天まで上る喜びを味わっています。」さまざまなことで地面に叩きつけられるような体験をするときも、聖霊によって高く上り、より神に近づくなら、そんな喜びの体験をすることができるのです。
(祈り)
父なる神さま、アドベントに、希望のキャンドル、平和のキャンドルを灯し、今日は喜びのキャンドルを灯しました。希望も、平和も、喜びも、生まれつきの私たちには持ち合わせていないものです。イエス・キリストは、絶望の世界に、不安な時代に、そして苦しみと痛みのただ中に、希望と平和と喜びをもたらしてくださいました。イエス・キリストを待ち望む私たちに、聖霊の賜物、聖霊の実である希望と平安、そして喜びを味わせてください。私たちの心が、あなたの教会が、そしてこの世界が、義と平和と聖霊による喜びで満ちるところとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。
12/14/2008