望みの忍耐

テサロニケ第一1:2-3

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1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

 ナチスがユダヤ人撲滅を図ったとき、身の危険を感じたユダヤの人々は国外に逃げましたが、それができなかった人々は、『アンネの日記』にあるように、隠れ家に息をひそめて生活し、戦争が終わるのを待ちました。そんな隠れ家の中でも、ユダヤの人々は過越の祭りを祝いました。過越の祭りにはキャンドルを灯して、「来年こそはエルサレムで!」と挨拶するのが慣わしになっていました。国を失った人々が、もういちどエルサレムに帰り、そこで過越を祝う日がかならずやって来る、そんな希望を、キャンドルの灯火で表したのです。ある隠れ家では、キャンドルが無かったため、父親がバターを燃やしてキャンドルの代わりにしました。それを見たこどもが、「お父さん、もう、バターはそれしかないのに、食べないで燃やしてしまうの?」とバターを惜しみました。そのとき父親は、「人はバターが無くても生きてはいける。しかし、希望無しには生きていけないのだよ。」とこどもに教えたということです。

 確かに、人は希望なしには生きていけません。それは、ナチスの時代のユダヤの人々ばかりでなく、どの時代の、どこの国の人も同じです。今月のゼロ会では、『自分をグローバル化する仕事術』という本の著者、天野雅晴さんを招きました。(このときの様子は、教会のウェブページの「ゼロ会」のところに写真入りで載っていますので、ぜひご覧ください。)天野さんは、そのお話の中で、「日本の若者は、人生にゴールを持っていないので、そのエネルギーをゆがんだ形でしか表わせないでいる。」と話していましたが、私も同感でした。これを目指して自分を成長させたい、このようにして社会に貢献したい、などという具体的な目標、ゴールが無いのです。目標がないということは、別のことばで言えば、希望がないということになります。日本にも、アジアの他の国々から多くの若者たちが来ていますが、その人たちは、日本語をマスターしたい、日本でこんな資格をとりたい、こんな仕事をしたいという夢があり、具体的な目標があり、希望に燃えています。今まで、日本人は他の日本人とだけ競争していればよかったのですが、これからは、他の国の人々と競争しなければならなくなります。希望を失っている日本人と希望に燃えている他の国の人々とでは、どちらがゴールに到着できるかは、目に見えています。

 人間には希望が必要です。しかし、「希望を持つと失望してしまう。失望するのが怖いから希望を持たない。」という人もいます。けれども、希望を持たないことは、すでに「望みを失っていること」であり、それは「失望」そのものなのです。世の中には、希望どおりにはいかないことが多く、「落胆」することも多くあります。あまりにも「落胆」が積み重なると、それは「絶望」になってしまいます。絶望のあまり死を選んでしまう人がいますが、ほんとうにそれ以外に方法はなかったのでしょうか。希望はどこにもなかったのでしょうか。希望を失っている人々に、ほんとうの希望の光を見つけて欲しいと願わずにはおれません。

 一、信仰と希望

 では、私たちの希望はどこから来るのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる信仰から来ます。テサロニケ人第一1:2-3で、使徒パウロは、テサロニケのクリスチャンに宛てて「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」と書いています。「信仰の働き」、「愛の労苦」、「望みの忍耐」ということばの中に、「信仰」、「愛」、そして「希望」の三つが言い表されています。コリント第一13:13に「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」とあるように、この三つのもの、信仰と希望と愛は、「いつまでも残るもの」、どの時代にも最も価値あるものです。信仰と希望と愛は、人が人として生きるうえに、なくてならないものです。人は信じることなしに、希望なしに、そして、愛なしには生きることができない存在だからです。そして、この三つのものは切ってもきれないつながりを持っています。

 信仰とは、神が私を愛してくださっていると信じ、その愛に答えて神を愛することです。聖書に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)とあるように、信仰は、まだ見ていないものを、確かにそうなると、待ち望むものです。信仰と希望は深くつながっています。信じること無しに希望を持つことはできませんし、希望を持つことなしに信じることもできないからです。

 また、愛も、信仰と希望に深くつながっています。愛は、愛する相手を信じますし、愛するものに希望を持ちます。愛しているけど信じられない、愛しているけど期待できないというのは、ほんとうの愛ではないでしょう。愛し合っている夫婦は互いに相手を信じますし、こどもを愛している親は、どんなに親に反抗しているこどもでも、やがて、親の愛を分かってくれる日が来ると信じ、待ち望みます。コリント第一13章に、愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ」とある通りです。ですから、「希望は信仰にはじまり、愛に実を結ぶ。」ということができるでしょう。

 そして、信仰と希望と愛は、神が私たちにくださる最高、最大の賜物なのです。神なく、望みなく、霊的に死んでいた私たちを、神は、イエス・キリストによって救い、「生ける望み」を与えてくださいました。ペテロ第一1:3に「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」とある通りです。私は以前、「イエス・キリストを信じる前の私は、何の希望もありませんでした。まだ20代なのに、私はまるで70代の老人のようでした。」というあかしを聞いたことがあります。70代の人が聞いたら気を悪くするようなことばですが、決して70代の人がまるで希望が無いと言うわけではありません。希望が無いということは、人から「若さ」を失わせると言っているのです。逆に希望にあふれている人は80歳になっても、90歳になっても、「若さ」を保っていることができます。みなさんも、キリストを信じて、希望を与えられたとき、まるで若返ったような力を感じませんでしたか。キリストの与える希望は「生きた希望」であって、私たちを、生かすもの、私たちのうちに生きて成長していくものなのです。

 ですから、イエス・キリストを信じる信仰から来る希望は決して無くなることはありません。もし、私たちが、目に見えるものに頼り、そこに望みを置いているとしたら、そのような希望はいつかは消えてしまいます。世の中のものは移り変わります。株の価値も、為替のレートも、オイルの値段も、何もかも変わります。変わって行くものに望みを置いていたなら、かならず失望する時が来ます。聖書は「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(テモテ第一6:17)と戒めています。変わらない神に望みを置くなら、失望することはありません。人に望みをかけても裏切られることがありますし、団体や組織に期待しても、その組織が、最初は良くても腐敗して悪くなって行くこともあるのです。神に望みを置くとき、その希望は失望に終わることはありません。

 二、希望と忍耐

 キリストによって与えられた希望は「生きた希望」、いのちのある希望です。すべていのちのあるものは、それを守り、育て、成長させなければなりませんが、では、私たちはどのようにして、与えられた希望を守り、育てていけば良いのでしょうか。もういちど、テサロニケ第一1:2-3に目を留めましょう「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」この箇所は新共同訳では、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」と訳されています。信仰は働きを、愛は労苦を、望みは忍耐を生み出すということを意味しています。「私には信仰がある。」といっても、それが具体的な良い行いを生み出さなかったなら、その信仰は本物とはいえません。また、本物の愛があるなら、自分が愛する者のために労苦を惜しまないはずです。神のためにする労苦を惜しんでいるとしたら、それは神への愛が十分でないからかもしれません。また、本物の希望があれば、少々の困難があっても、それに耐えて、困難を乗り越えていけるはずです。聖書には、とても希望など持てない状況の中で望みをいだき続けた人々が数多く登場しています。自分は百歳になり、妻も九十歳になっていたにもかかわらず、子どもが与えられると信じたアブラハムについて、聖書は「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」(ローマ4:18)と言っています。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)とあるように、聖書は「希望の書」と言われています。聖書は希望のことばで満ちており、その希望を忍耐によって保ちなさいと、数々の実例によって教えています。

 しかし、時として、私たちは聖書の素晴らしい模範を読めば読むほど、それに励まされるよりは、かえって、「自分はなんと不信仰で、忍耐がないのだろう。」と感じて落ち込んでしまうことがあります。そんなとき、テサロニケ第二3:5にある「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」とのことばは、大きな励ましになります。すこしばかりの愛や忍耐なら、なんとか持てそうですが、私たちが「神の愛とキリストの忍耐」を持つようにというのは、あまりにも目標が高く、とても実現しそうもない願いです。しかし、だからといって、目標を下げて生きるのがクリスチャンの生き方ではありません。クリスチャンにとって、地上での生活が人生のすべてではなく、クリスチャンは天を目指して生きています。天での生き方を、この地上ですでに始めているのがクリスチャンです。天では、すべての人が「神の愛とキリスト忍耐」を持つようになるでしょう。そうでなければ、天国にも、憎しみがあり、落胆があることになり、そこはもはや天の御国ではなくなってしまいます。その天の姿を仰ぎみて、今、神の愛とキリストの忍耐を求めて生きる、それがクリスチャンの生き方です。そして、神は、そのように生きる者を助け、神の愛とキリストの忍耐を持たせてくださるのです。

 神の愛と忍耐は、何のためでしょうか。それは、聖書に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロ第二3:9)とあるように、人間の救いのためです。神は、神に背を向けている人たちが神に立ち返って救われることを願い、忍耐しておられるのです。この神の愛と忍耐が最も良く現れているのが、キリストの十字架です。イエス・キリストは、人を救うために、ご自分が受ける必要のない苦しみを受け、それを耐えられのです。聖書はこう言っています。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロ第一2:20-25)「キリストの忍耐」とは、たんにつらいことを歯をくいしばって耐えたという忍耐ではありません。キリストの忍耐は自分のための忍耐ではなく、人々の救いのための忍耐でした。キリストの忍耐によって私たちは救われ、きよめられ、いやされたのです。

 神には、神をあなどる人々をたちどころに滅ぼしてしまう力があります。しかし、神はひとりでも多くの人が、神に立ち返り、救いを受けるようにと、今も、忍耐しておられ、忍耐の限りを尽くしておられます。神は、キリストを信じる者に、人々の救いのために祈り、福音を伝え、あかしする使命を与えましたが、これは、忍耐なしに出来ることではありません。神は、キリストがなさったように、私たちにも、人々の救いのために忍耐することを求めておられます。神とともに、キリストとともに忍耐することを求めておられます。そして、その忍耐は決して無駄にはなりません。キリストが十字架で耐え忍ばれた苦しみが人々に救いをもたらしたように、私たちの忍耐もかならず報われるのです。

 最初の話に戻りますが、ナチスの時代、オランダに、時計店を営むキャスパー・テン・ブームと二人の娘、コーリーとベッチィがいました。彼らは、苦しめられているユダヤの人々に深く同情し、隠れ家を提供しました。そのために、テン・ブーム一家はナチスに捕まえられ、父親のキャスパーは捕まって間もなく亡くなり、コーリーとベッチィは、残酷さが歴史に残るラベンズブルック女性収容所に送られました。ふたりはことばでは言い表せないほどの苦しみを耐えましたが、それは、キリストにある希望によってでした。ダンテのことばに「この門(地獄の門)から入るものはすべての希望を捨てよ。」とありますが、ナチスが地上に作った地獄の中でも、キリストにある希望は消えませんでした。彼らは、その希望の光を多くの人々に分け与えることができました。私たちは、コーリー・テン・ブームが体験したような困難でなくても、さまざまな困難に囲まれていることでしょう。その中で忍耐をもって希望の光を保ち続けましょう。その希望の光があなた自身を困難から救い出します。そればかりでなく、あなたが保っている希望の光によって、希望を失っている人々が、希望を見つけるようになるのです。

 (祈り)

 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ15:13)

11/30/2008