サムエル―信仰の勇者(12)

サムエル記第一3:10-13

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3:10 主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。
3:11 その時、主はサムエルに言われた、「見よ、わたしはイスラエルのうちに一つの事をする。それを聞く者はみな、耳が二つとも鳴るであろう。
3:12 その日には、わたしが、かつてエリの家について話したことを、はじめから終りまでことごとく、エリに行うであろう。
3:13 わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。

 先週は、サムエルの母ハンナについてお話ししました。ハンナは、その祈りにおいて戦い、勝利を得た「祈りの勇士」また「信仰の勇士」でした。きょうは、その子サムエルについてお話しします。ハンナは祈りによって与えられた子を神にささげ、サムエルは祭司エリの養子となり祭司となりましたが、同時に神の言葉を人々に伝える預言者ともなりました。サムエルは祈りと御言葉の両方で、神の民のために戦った「信仰の勇者」でした。

 一、神の言葉を聞いたサムエル

 きょうの箇所には、そのサムエルがまだ子どもだったころのことが書かれています。ユダヤの歴史を書いたフラビウス・ヨセフスは、伝承にしたがって、このときサムエルは12歳だったと言っていますが、聖書は正確な年齢について何も語っていません。

 このとき、祭司エリは自分の部屋で、サムエルは神殿で寝ていました(サムエル第一3:3)。「神殿で寝る」というのは、そこにベッドを置いて生活していたということではありません。「主の宮」、「神殿」は神のお住まいであり、祭司といえども、そこを自分の家にすることはできません。

 ところが、神は、イエス・キリストを信じる者をご自分の「宮」に住まわせてくださる、いや、神殿の一部にしてくださると、聖書は教えています。イエスはご自分のからだを「神殿」であると言われました。そうであるなら、イエス・キリストを信じる者は「キリストにある」(“In Christ”)のですから、それによって神殿の中にいるということになります。また、信仰者はキリストのからだの一部となることによって、神殿の一部ともなるのです。ペテロ第一2:5に「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」と書いてあるとおりです。

 黙示録21:3-4に「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる」とあります。「神の幕屋」とは神殿のことです。ダビデは詩篇23で「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と言いました。ダビデのこの言葉は、今、イエス・キリストによって成就していますが、終わりの日には、黙示録にあるように、目に見える形で、完成するのです。

 「主の宮に住む」というのは、霊的には神の「臨在」の中に生きるということです。これは、すべての信仰者にとっての究極の願いですが、少年サムエルは、昼は聖所で仕え、夜もまた、そこで過ごすという特権にあずかったのです。もっとも、サムエルが「神殿で寝ていた」というのは、夜の間中、聖所にともされている燭台のともしびを守るためだったと思われます。それが毎晩のことなのか、ときおりある特別なことなのかはわかりませんが、この夜は、サムエルにとって忘れられない夜となりました。

 それは、サムエルが、その夜、はじめて、神の言葉を、直接的に聞くことになったからです。「サムエル、サムエル」という声が、まるで耳元でささやかれるかのように聞こえました。サムエルはすぐに起き上がってエリのところに行って言いました。「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります。」しかし、エリは「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」(5節)と答えました。同じことが、二度、また三度とありました(6、8節)。三度目にエリは、主なる神がサムエルを呼ばれたのだと悟りました。そして、サムエルにこう教えました。「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい。」(9節)

 四度目に呼ぶ声を聞いたとき、サムエルはエリに言われた通り、「しもべは聞きます。お話しください」と言い、これからイスラエルに起こることを、神から聞きました。それは、エリとふたりの息子が一日のうちに死ぬという裁きの預言でした。エリの子たちは、祭司としての道を踏み外した乱暴者で、エリもまた息子たちを戒めることをしませんでした。そのため、祭司の勤めは、エリの子ではなく、サムエルに渡されることになるのですが、サムエルにとってそのような預言を聞くことは、大変つらいことでした。サムエルは、はじめて預言を与えられたときから、「預言」の勤めの厳しさを体験しなければなりませんでした。「預言」は、たんに人を喜ばせるだけのものではないからです。預言者は、人に喜ばれようが、喜ばれまいが、神の言葉を忠実に語らなければならないのです。

 祭司エリ自身はその生涯を失意のうちに閉じました。しかし、サムエルの母を励まし、サムエルに最も大切なことを教えたという点においては、果たすべき使命を果たして世を去ったと思います。サムエルは生涯の間、エリから教えられた言葉、「しもべは聞きます。主よ、お語りください」を心に刻んで、信仰の勇者として、神に仕えました。

 二、聞くことの大切さ

 「しもべは聞きます。主よ、お語りください。」この言葉は、第一に「聞くこと」の大切さを教えています。

 人は誰でも、自分の話を聞いてもらいたいのです。たいていの心の重荷は、誰かに親身になって聞いてもらえたら軽くなり、また、問題解決の糸口を見つけることができるものです。ところが、親身になって聞いてくれる人を見つけるのは難しいのです。何かを相談しても、少しも話を聞いてくれない、すぐに結論めいたことを言われる、話しても通じない、聞いてもらいたいのに、相手にまくしたてられる、などの経験を多くの人がしています。あらたまった話でなく、テーブル・トークでも、ふたり、三人の会話の中に、他の人が割り込んできて、その人に話題を横取りされてしまい、気まずく、さみしい思いをした人も、多いと思います。

 自分が嫌な思いをしたのだから、他の人にそうさせないようにと、努力しているつもりなのですが、自分も同じことをして、他の人に嫌な思いをさせていることも多いと思います。いつも自分を顧みて、「聞く心」を養い、できれば「聞く技術」も身につけたいと思います。「技術」(テクニック)といっても、聞く心もないのに、それをごまかすためのものだったら、そんなものは身に着けないほうがいいのですが、人と人とのコミュニケーションには一定の法則がありますので、「聞く心」を持ったうえで、スキルを身に漬けることは良いことだと思います。

 聖書は、「聞くに早く、語るにおそく」(ヤコブ1:19)と教えています。「神は人に口をひとつしか与えなかったが、耳はふたつ与えた。だから、聞くことは語ることの倍、語ることは聞くことの半分でなければならない」と言った人がいますが、多くの場合、わたしたちは「聞くにおそく、語るに早い」ものです。聞くことの倍語り、語ることの半分しか聞いていないのです。

 そして、人にするのと同じことを神にしていないでしょうか。わたしたちは、一日中、「今日は暑い」「あの人の態度は嫌いだ」「きょうの仕事はどうしようか」など、たとえ口に出さなくても、心の中ではひっきりなしに「語り」続けているのです。それをいったんストップして、神に「聞く」時間を持つことがほとんど無いのが現状ではないかと思います。携帯電話のアプリに「騒音測定器」というのがあります。メータが動いて、騒音のレベルを表示してくれます。もし、わたしたちの心に同じようなものが取り付けられたなら、そのメーターはいつもレッドゾーンを指し続けていることでしょう。

 聖書を読み、祈る時間を略して“QT”といいます。“Quiet Time”の略です。日本語で「静思の時」と言います。それは、語ることを止めて、聞くことに集中する時です。この時を守ることによって、わたしたちは、神に「聞く」ことの訓練を受けます。神に聞くことができる人は、人にも耳を傾けることができるようになります。

 わたしたちのたましいは神の言葉によって、もうすこし精確に言えば、神の言葉を「聞く」ことによって生かされ、養われます。ですから、「しもべは聞きます。主よ、お語りください」と、神の前に出ることは、わたしたちになくてならないこと、信仰の基礎の基礎なのです。

 三、聞く態度

 「しもべは聞きます。主よ、お語りください。」この言葉は第二に「聞く態度」を教えています。

 「人に聞く」ことについて、ディヴィッド・アウグスバーガーは“Caring Enough to Hear and Be Heard”(日本語訳『親身に聞く』)という、たいへんわかりやすく、実際的な本を書いています。そこでは、本のタイトルにあるように「互いに聞き合う」ことについて書かれていますが、それは、人と人との間だけでなく、神と人との間でも同じです。わたしたちが神に聞くなら、神もまたわたしたちに聞いてくださるのです。聖書によって神の思いに聞き、祈りによってわたしたちの思いを聞いていただくのです。この本には「同じ立場で聞く」という章もあります。神は、上から、高い所から、わたしたちに語りかけるだけでなく、わたしたちのところに降りてきて共に語りあってくださるのです。

 しかし、神がわたしたちのところにまで下りてきてくださるのは、神の恵み、あわれみのゆえであって、それを当然のように考えてはいけません。神に聞くときには、まずは、神の下に身を低くすることが大切です。「なぜ、聖書にこんなことが書いてあるんだろう。聖書が分からない」というとき、「聖書には、人が理性で分かることだけが書かれるべきだ」という先入観で聖書を読んでいることが多いものです。無意識のうちに、聖書の上に立って、「聖書はこうあるべきだ」という態度を取ってしまっているわけです。たとえば、神の裁きについて書いてある箇所について、その意味を考えることもなく、そうした部分に憤慨したり、飛ばして読んだりするのは、「すべては、人間の幸福のためになされるべきだ」という前提で聖書を読んでいるからです。「すべては神の栄光のために」という聖書の大前提を見逃しているからです。

 聖書を正しく読むために、神を主とし、自分をしもべとして、神の言葉の下に立ちましょう。神の言葉の下に(under)立つ(stand)とき、神の言葉がはじめて「分かる」(understand)ようになるのです。

 古い時代の教会堂には、礼拝堂の壁から突き出た場所がありました。それは「プルピット」と呼ばれ、説教者は、階段を登ってそこに入り、高い場所から説教しました。マイクロフォンもラウドスピーカーもなかった時代には、そうやって、大勢の人々に説教者の声が届くようにしたのです。けれども、それは、同時に、説教を、上から語られる言葉、神の言葉として聞くことを象徴するものでした。説教者が誰であったとしても、その人が健全な教えに立ち、聖書を神の言葉として語っているかぎり、それを神からの言葉として、その下に立って聞く、そうした態度の大切さを、今日のわたしたちも忘れてはならないと思います。

 「しもべは聞きます。主よ、お語りください。」サムエルは、生涯を通して神の言葉に聞き、それに従いました。そして、そのことを神の民にも求めました。サウル王が神の言葉に従わなかったとき、サムエルはこう言ってサウルを諭しています。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記第一15:22)神は、あらゆることに先立って、神の言葉に聞き、それに従うことを、わたしたちに求めておられます。わたしたちも、御言葉に聞き、それに従う信仰の勇者でありたく思います。

 (祈り)

 主なる神さま、御言葉に聞くことの大切さと、その態度について教えてくださり感謝します。わたしたちは御言葉によってあなたに聞き、祈りによってあなたに聞いていただく、あなたとの深いまじわりを求めています。へりくだって、御言葉に聞くことはその第一歩です。きょう、その一歩を踏み出します。私たちがその道から離れていることに気付いたなら、いつでも立ち返ることができるよう、助け、導いてください。主イエスの御名で祈ります。

7/29/2018