ハンナ―信仰の勇者(11)

サムエル記第一1:12-20

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1:12 彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。
1:13 ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、
1:14 彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。
1:15 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。
1:16 はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。
1:17 そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。
1:18 彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。
1:19 彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、
1:20 彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。

 ギデオンやサムソンはイスラエルを守り、救うため戦った人たちでしたから、「勇者」と呼んでも、不思議はありません。けれどもハンナについては、誰も彼女を「勇者」と呼んだ人はいなかったと思います。

 しかし、男性であれ、女性であれ、人生に戦いのない人はいません。戦場で武器をとることがなくても、信仰者はみな「祈り」という戦いの場で、毎日、戦っているのです。祈りの場は、戦いの場であり、信仰をもって祈る者は、みな「祈りの勇者」なのです。

 ハンナもまた、そうでした。では、ハンナはどのようにして祈りに導かれ、どのような祈りをささげ、その祈りがどのように聞かれたのでしょうか。そうしたことを一緒に学びましょう。

 一、ハンナの苦しみ

 ハンナを祈りに導いたのは「苦しみ」でした。ハンナの祈りを理解するために、彼女の苦しみを少し想像してみましょう。ハンナには三つの苦しみがありました。

 第一は、彼女が「セカンド・ワイフ」であるということです。古代には、男性が戦争で命を落とすことが多く、男性が足りませんでした。また、女性がひとりで生計を立てて生活していけるような社会でもありませんでした。それで、裕福な男性は、夫人をふたり、三人と持つことがありました。そのような場合でも、夫は、どの妻をも平等に扱わなければならないと定められていたのですが、やはり、セカンド・ワイフはいろいろな点で、肩身の狭い思いをしたのです。

 神は、アダムとエバを結ばれたときから、一夫一婦制を定めておられました。しかし、人類の中に罪が入ってきてからは、神の定めよりも、人間の便宜が優先され、一夫多妻制が生まれたのです。それは神の民、イスラエルの中にもありましたが、それは決して神のみこころではありませんでした。そして、神の定めに従わない結婚には、かならず、問題が生じ、その被害を受けるのは、きまって、ハンナのように弱い立場にある人たちでした。

 ハンナの第二の苦しみは、こどもがなかったことでした。まるでこどもを産めない女性は女性として失格で、こどものいない家庭は家庭ではないように言う人がいますが、決してそうではありません。主イエスも、使徒パウロも、神のために独身を貫き通す人々を認めていますし、私の尊敬する牧師たちも、戦後ドイツで戦争未亡人となった女性たちの多くが、シスターとなって伝道や福祉の働きに携わっていることや、こどものいない夫婦が神のための働きに専念していることなどをとりあげ、そのような人々を賞賛しています。

 しかし、子宝に恵まれることがそのまま神の祝福と考えられた古代では、こどもが与えられない女性は、神の祝福を失っていると考えられたのは事実でした。ハンナには「セカンド・ワイフ」であるうえに「こどもを産めない」という苦しみがあったのです。

 そして、第三の苦しみは、ファースト・ワイフ、ペニンナからの「いじめ」でした。その「いじめ」というのは、具体的な「いやがらせ」だけでなく、信仰的なものだったようです。6節に「彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした」とあります。夫エルカナは毎年、家族そろって宮もうでをしていました。このとき、ペニンナはハンナに、こう言ったかもしれません。「あなたには、宮もうでをする資格なんかない。神は、あなたを嫌って、子どもを授けないのだから。宮もうでをして祈っても、神はお聞きにならない。」ペニンナは、子どもが生まれないことで、ハンナに神を恨ませようとしました。ペニンナはハンナにとっての最後のよりどころである「信仰」を攻撃してきたのです。

 ペニンナは信仰の人ではなく、女性としての優しさや、人間としての思いやりに欠けていました。「弱い者いじめ」という最も卑劣なことが、古代から現代までも続き、神の民の中にさえあったのは悲しいことです。神を信じる者は、たいていのことには耐えられます。無理解な人やわがままな人からひどい扱いを受けたとしても、神に頼って乗り越えることができます。しかし、いちばんつらいことは、神を信じるという人たちが、神を恐れて生きることを軽んじ、神とのまじわりを熱心に求めることがないことです。そればかりでなく、そうしたことに対する反抗的な言動がなされることです。旧約時代の信仰者は、そのような苦しみを体験しましたが、世の終わりが近づくにつれて同じことが教会の中で繰り返されると預言されています。わたしたちも目を覚まし、そうしたものに負けないものを持っていたいと思います。

 二、ハンナの祈り

 ハンナはこの苦しみを「祈り」によって神のもとに持っていきましたが、神を知らない人は、苦しみを解決する方法を知りません。仏教は苦しみを見つめることによって生まれた宗教で、日本人は仏教の背景を持っているといいながら、こんにちでは苦しみに向かい合うことをしなくなりました。多くの場合、苦しみを紛らわせているだけで、ほんとうの解決にはなっていないのです。

 心に悩みを抱えている人は、現代であれば、カウンセラーのところに行くでしょう。もし、ハンナが現代のカウンセリングを受けたとしたら、カウンセラーはハンナに、「苦しみを紛らわすために何かの楽しみを見つけなさい」とアドバイスすることでしょう。しかし、一時的に気を紛らわせても、それが過ぎれば、苦しみが何倍にもなって返ってくることを、わたしたちは知っています。

 ハンナの夫エルカナは毎年、神の宮に行って礼拝をささげていました。しかし、その「宮もうで」も、彼女を癒やすことはありませんでした。神の宮で礼拝をささげる、それは神の民に命じられた聖なる義務であり、喜ばしい特権でした。しかし、「宮もうで」が、「信仰」の行為にならず、たんなる宗教行事となっているだけなら、それもまた、人の苦しみを癒やすことはできないのです。ハンナが一番つらかったのは、じつに「宮もうで」の時だったのです。

 食事の間も泣きくれているハンナに、夫エルカナは優しい言葉をかけ、彼女を慰めています(8節)。しかし、その言葉も思いやりもハンナの涙をぬぐうことはできませんでした。わたしたちは、苦しむとき、人の励ましや慰めを必要とします。しかし、人の励ましや慰めも解決できないことが多くあるのです。

 もし、ハンナに信仰がなかったら、こうした苦しみに押し潰されたままだったでしょう。主の宮に上らず、家に閉じこもっていたでしょう。しかし、ハンナには信仰がありました。それで、苦しみは彼女を押し潰すものではなく、彼女を祈りへ導くものとなったのです。

 では、ハンナはどのように祈ったのでしょうか。10節に「ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた」とあります。食事の時に泣き続けていたハンナは、主の宮ではもっとはげしく泣いたのです。神の前だから、とりすました祈りをしようとは考えませんでした。ハンナは自分を苦しめているもののすべてを嘆き、その思いを神の前にぶちまけたのです。

 ハンナの祈る姿に目を留めた祭司エリは、ハンナが酒に酔っているのではないかと思い、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」(14節)と言いました。それに対するハンナの答えは「いいえ、わたしは、主の前に心を注ぎ出していたのです」(15節)でした。「主の前に」「心を注ぎ出す」祈り。皆さんは、そのような祈りをしたことがあるでしょうか。すべてをご存知の神の前に、「よそいき」の祈りは通用しません。プライベートな祈りの時には、あるがままの自分をさらけ出し、神にすべてをさらけ出す祈りをしていいのです。

 三、ハンナの救い

 ハンナの祈りは、神に聞かれました。神は、祈りに聞いてくださるお方です。とくに苦しむ人の祈りに。詩篇に「この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。」(詩篇34:6)「わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる」(詩篇120:1)とあります。これはまさにハンナの祈りにそのままあてはまります。詩篇107篇はさまざまな苦しみの中から救い出された感謝の歌ですが、「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出された」という言葉が6節、13節、19節と28節に4回繰りかえされています。そうです。神は、苦しみの淵から叫び求める祈りを聞いてくださるのです。その祈りに答えて、救いを与えてくださるのです。

 ここに、苦しみの解決があります。さきほど、わたしは、「仏教は苦しみを見つめることから生まれた宗教である」と言いました。聖書も同じように、わたしたちに苦しみから目をそらしてはいけないと教えています。しかし、聖書は、同時に、わたしたちを苦しみから救ってくださるお方を仰ぎ見るように教えています。仏教には、一言では言い表せない深い教えがありますが、最終的には、人を苦しみから救うのは、その人自身なのです。しかし、聖書は、人を苦しみから救ってくださるお方、神がおられると言います。聖書は、わたしたちの苦しみをすべて引き受け、わたしたちにかわって、その苦しみを苦しみ抜いてくださった救い主を教え、指し示しているのです。

 こんな話があります。ある中国の青年が夢をみました。その夢の中で、彼は、水のない深い井戸に落ちました。彼は自分で井戸の壁に手をかけ、はい登ろうとしましたが、登っても、登っても落ちてしまいました。若者は井戸の底から「助けてくれ」と叫びました。するとその井戸にひとりの人が近づき、こう言いました。「愚かな若者よ。わたしが教えたように注意深くあれば、井戸に落ちずに済んだのだ。」それは孔子でした。しばらくすると、もうひとりの人が来て言いました。「おお、若者よ。かわいそうに。だが、井戸に落ちたのも因果から来るのだ。それが何かを考えてみなさい。」それは釈迦でした。ふたりは、声をかけてはくれたものの、助けてはくれませんでした。

 そうしているうちに、三人目の足音が近づきました。その人は、井戸を覗き、青年がいるのを見つけると、井戸の底までおりてきて、青年を背負い、井戸の壁をよじ登り始めました。二人分の体重がその両手、両足にかかり、彼の指から血が流れ出しました。しかし、それにもかまわず、その人はとうとう青年を井戸の外に連れ出しました。その間、その人は終始無言でした。「この人は誰なんだろう。」青年には分かりませんでしたが、井戸の外に出て、その顔を見たとき、青年は、それがイエス・キリストだと知り、そこで夢から覚めたというのです。

 苦しむ者のところにまで降りてきて、苦しむ者をそこから引き上げてくださるお方、自ら傷つき、わたしたちの傷を癒やしてくださるお方、これが、わたしたちの神、イエス・キリストです。わたしたちは、このお方に祈るという大きな恵みをいただいているのです。

 祭司エリは、祈り終えて顔を上げたハンナに「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」との祝福を与えました。「安心して行きなさい。」(Go in peace.)主イエスも、この言葉を何度も語っておられます。祈りの中でこの言葉を聞き、立ち上がることができる人、いや、この言葉を聞くまで祈り続ける人は幸いです。

 神に祈り、神からの平安を受けたハンナは一変しました。18節に「こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった」とあります。祈りの前と後の大きな変化に目を留めてください。“Before”と“After”の違いです。信仰の祈りは、祈る人の心を変え、その人を変え、また物事を変えるのです。

 ハンナはこのあと、男の子を産み、この男の子がイスラエルの偉大な指導者サムエルとなりました。ハンナの祈りは、ハンナを救い、彼女の祝福となったばかりでなく、イスラエルの救いとなり、祝福となったのです。わたしたちも、祈りが自分だけでなく、多くの人の救いとなることを信じ、ハンナにならい「祈りの勇者」、また「信仰の勇者」になりたいと思います。

 (祈り)

 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたが「祈りを聞かれる神」であることを感謝します。苦しみに遇うとき、そのことを忘れず、苦しみが大きければ大きいほど、さらに信仰を大きくして、そこからの救いを、あなたに祈り求める者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/22/2018