しばらくの苦しみの後で

ペテロ第一5:8-11

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5:8 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
5:11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

 ペテロの手紙は、試練や苦しみの中にあるクリスチャンを励ますために書かれました。

 キリストの福音は、まずエルサレムで宣べ伝えられ、紀元30年、エルサレムに最初の教会が生まれました。福音はわずかな期間にローマ帝国の隅々にまで宣べ伝えられ、各地に教会が生まれました。クリスチャンは最初、ユダヤ人から迫害を受けましたが、やがて政治権力者からの迫害を受けるようになりました。けれども、最初のうちは、その迫害はそんなに強いものではなく、地方の政治家の中には、みずからクリスチャンになり、教会を保護する者もありました。ところが、紀元54年に即位した皇帝ネロは、紀元64年のローマの大火災の責任をクリスチャンに押し付け、迫害を始めました。ローマの火災は、皇帝ネロが自分の思い通りに市街を作り替えるための陰謀だったという説もあります。皇帝がクリスチャンを迫害したので、その権威の下にある地方政府も「上にならえ」で、その後、313年に皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認するまで、およそ250年の迫害の時代が続きました。

 ペテロの手紙は、そのような迫害の時代の始まりに書かれました。きょうの箇所は、この手紙のしめくくりの部分で、ここには、試練と苦しみの中にある信仰者に対して、三つのことが教えられ、勧められています。

 一、身を慎み、目を覚ます

 第一の勧めは、「身を慎み、目を覚まして」いることです(8節)。「身を慎む」ことと、「目を覚まして」いることとは、ほぼ同じ意味ですが、あえて区別するなら、「身を慎む」は道徳的なこと、「目を覚まして」いるは理性的なことに関わりがあると言えるでしょう。

 どんなに有能で権力のある人でも、道徳的に問題があれば信用を失ってしまいます。クリスチャンは当時、いわれなく、嫌われ、憎まれ、苦しめられていました。そんな中で、クリスチャンが犯罪を犯したり、道徳的に間違ったことをしたら、他の人に対するものの何倍もの非難があったでしょう。今でも、「クリスチャンのくせに」などと言われることがあります。

 ですから、ペテロは、手紙の中で、くりかえし、道徳的に正しくあるだけでなく、積極的に善を行いなさいと教えています。3:16-17にこうあります。「ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。」イエス・キリストを信じる者が、その信仰を弁明するのに、最も効果的なものは、博学でも、雄弁でもありません。「キリストにある…善良な生き方」なのです。

 けれども、私たちが「身を慎み」、道徳的に正しい生活をし、善を行えば、いつでもそれが認められるとは限りません。「自分一人が正しいことをしていても、損をするばかりだ。ばからしい」と思ってしまうこともあるでしょう。また、「悪に対して善で返しても、それが踏みにじられたり、甘い人間だと思われるだけだ」と考えてしまうこともあるでしょう。とくに、現代の社会ではそうです。クリスチャンであっても、「善を行うことに、うみ疲れて」しまうことがあります(ガラテヤ6:9口語訳)。善を行うこと、しかも、それを続けることは、自分の力でできることではないからです。神への信仰が必要です。ペテロの手紙第一4:19に、こう教えられています。「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」神への信頼から善い行いが生まれるのです。

 次に、「目を覚ましていること」が必要です。高い教育を受け、社会的にも地位のある人が、つまらない犯罪を犯して、その地位や名誉を棒にふってしまうのを、私たちはよく見聞きします。どんなに頭がよくても、心が欲望に支配されていると、その頭が正しく働かないのです。けれども、その逆もまた真で、理性が働かず、判断力が鈍ると、簡単に人に騙され、思わぬ失敗をしたり、犯罪に巻き込まれたりします。町のシニアセンターには「インターネット詐欺に注意」などといったポスターが大きく貼ってあります。けれども、注意しなければならないのは、高齢者ばかりではなく、若い人も同じだと思います。正しい知識を持ち、それをアップデートしていなければなりません。法律の世界では「そんな法律があるなんて、知らなかった」といって無罪になることはありません。「知らない」ほうが悪いので、その責任をとらなければなりません。

 聖書についても同じです。聖書は神の言葉として、信仰によって受け止めるものです。けれども、聖書が教えることを、理性でもしっかり理解し、身につけていなければ、ひとりよがりの信仰になってしまい、聖書によって自分の心を制御し、生活を正すことができなくなります。「身を慎む」ことと「目をさます」こととはお互いに結びついていて、切り離せません。

 初代のクリスチャンが通った試練や苦しみと、現代の私たちが出会うものとは、種類も形も違います。しかし、時代や環境が変わっても、苦しみの本質は変わりませんし、その解決も変わりません。聖書をしっかりと学び、御言葉に励まされ、力づけられて、試練や苦しみを乗り越えたいと思います。

 二、悪魔に対抗する

 第二の勧めは、「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい」(9節)とあるように、私たちの信仰を弱らせようとする力に対抗することです。聖書に、「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。/それにより 私はあなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)とあるように、試練や苦しみは、ほんとうは、私たちの信仰を強くするものなのですが、思いがけない試練や、あまりに大きな苦しみに遭うとき、神を疑ったり、祈れなくなったりすることがあります。悪魔は、そういったところに巧妙に入り込んできますから、それに立ち向かう必要があるのです。

 バニヤンが書いた『天路歴程』という物語があります。これはイエス・キリストを信じる者たちの天に向かう信仰の旅を描いたものです。この物語の中で「クリスチャン」という名の人が「滅亡の市」(ほろびのまち)から「シオンの山」に向かう旅の途中、「落胆の泥沼」や「俗念の市」などさまざまなところを通るのですが、「困難の丘」にある「美の家」(うつくしのいえ)にたどりつく場面があります。その家の門に近づこうとすると、狭い路の両側に二頭のライオンが横たわっていました。彼はそれを見て恐れ、後戻りしようとするのですが、「美の家」の門番が言いました。「あなたの力はそんなに弱いのですか。獅子(ライオン)を恐がることはありません。繋がれているのですから。そこへ置いてあるのは信仰ある者の信仰を試し、また、信仰のない者を見つけ出すためです。路の真ん中を通つていらいしゃい。そうすれば大丈夫です。」(岩波文庫版111-112頁)悪魔は、「吼えたける獅子」のように信仰者に向かってくるでしょう。しかし、彼らは、神によって鎖に繋がれています。私たちが信仰の道をまっすぐに歩むなら、何の害も受けることはないのです。

 聖書は言います。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)神の敵にどんな力があろうとも、彼らは被造物に過ぎません。その力がどんなに強くても、神の全能の力に勝るものはありません。神の力は、信仰を通して、私たちのうちに働き、勝利は私たちのものです。ですから、おじけず、「堅く信仰に立って」敵に立ち向かうのです。

 三、神の支配を信じる

 第三の勧めは、神の支配を信じることです。10節に「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」とあるように、神は、この試練や苦しみの中でもすべてを支配し、治めておられ、私をそこから救い出してくださいます。

 聖書は、イエス・キリストを信じたら、どんな苦しみに遭わなくなるとは言いません。苦しみも、悲しみも全くないところ、それは、永遠の神の国だけです。そこに至るまでは、『天路歴程』にあるように、落胆の泥沼、俗念の市、困難の丘、虚栄の市、歓楽の山、疑惑の地などを通らなければならず、私たちは、何らかの苦しみを受けるでしょう。しかし、それは「しばらくの苦しみ」でしかありません。試練や苦しみは決して永遠のものではないのです。

 神は、「吼えたける獅子」を鎖につなぎ、制限をかけておられるお方です。私たちに襲いかかる試練や苦しみについても、その大きさや期間に制限をかけておられます。旧約のヨブの物語では、ヨブは、前代未聞の苦しみを受けましたが、それでも、神はその背後で、ヨブを苦しめる者に制限をかけておられました。神は、最初、試みる者に、「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない」と言われ、ヨブのからだを守られました。次に「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな」と言われ、ヨブのいのちを守られました。神は、ヨブが試練に耐えることができることをご存知でしたので、それを許しましたが、同時にヨブを守るために制限をかけ、それを支配しておられました。コリント第一10:13に、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」とある通り、私たちを一番良く知っておられるのは神です。神は、決して、私たちが負うことのできない苦しみをお与えになりません。必ず、そこからの救いの道を作っていてくださいます。けれども、試練や苦しみが長く続くと、私たちは、「いつまで耐えなければならないのだろう」と、ついつい忍耐を失くします。しかし、そんなときも、「時」は神の手にあり、神が期限を定めておられることを知るなら、そこから希望が、祈りが、生まれます。神は、信じて求める者のために、試練の期間を短くし、回復の時を早めてくださることがおできになるのです。

 試練や苦しみを通るとき、私たちを支えるのは、「神がすべてを支配しておられる」という事実です。きょうの箇所が、「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン」(11節)との言葉で締めくくられているように、私たちも、「アーメン」、「その通りです」と、神に答えましょう。

 「主の祈り」はあらゆる場合に通用する祈りですが、試練や苦しみの中にあるときには、とくに「主の祈り」を祈り、神のご支配を覚えるとよいと思います。「主の祈り」はマタイ6:10-13にこのように記されています。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」初代教会は、このあとに、「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものです」との言葉を付け加えました。でも、それは無意味な付け加えではありません。迫害の時代に「私たちを試みあわせないで、悪からお救いください」との祈りは切実なものでしたが、それを確信をもって祈るためには、この試練と苦しみの中にも神のご支配があることを、信じて、言い表す必要があったからです。私たちも、試練や苦しみに遭うときこそ、神のご支配が世々限りなくありますようにと祈り、試練や苦しみを乗り越える者でありたいと思います。「主の祈り」を共に祈って、きょうのみことばへの応答の祈りとしましょう。

 (祈り)

 天にまします我らの父よ、願わくは、御名をあがめさせ給え。御国を来たらせ給え。御心の天に成る如く地にもなさせ給え。我等の日用の糧を今日も与え給え。我等に罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦し給え。我等を試みに遭わせず悪より救い出し給え。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン。

11/17/2024