5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
5:9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
5:10 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
5:11 どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。
10月1日、オレゴン州のコミュニティカレッジで銃撃事件がありました。学校での銃乱射事件では、コロンバインで13人、ニュータウンで26人、ヴァージニア工科大学で32人が犠牲になっています。こうした惨事を見聞きするたびに、わたしたちは、現代という時代がどんなに病んでいるかを思い知らされます。悪の力があまりにも強いことに愕然とします。そして、「この世は矛盾だらけで、悪がはびこっている。そんな中で神に従い、正しく生きることなどできない」などと思ってしまうことがあります。しかし、聖書は、あきらめずに、罪と戦い、悪に立ち向かうよう教えています。神を信じる者が、時代が暗ければ暗いほど明るく輝き、社会がどんなに多くのごまかしで成り立っていても、真実を貫き通し、世の中がどんなに曲がっていっても、まっすぐに生きるようにと、聖書は教えています。ペテロ第一5:8-11は、そんな箇所のひとつです。ここから、罪と戦い、悪に勝つために必要な三つのことを学びましょう。
一、身を慎み、目をさます
その第一は、「身を慎み、目をさます」(8 節)ことです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」からです。これは否定できない事実ですが、このことに気付いている人は多くありません。自分がしっかりしていれば悪に負けることはないと考えています。そもそも世の中に悪などないのだ、悪というのは、善の影のようなもので、実体はないのだという説もあります。もし、そうなら、なぜこうも多くの人が悪に苦しめられているのでしょうか。聖書は悪は現実であり、この世の悪の背後にいる悪魔も実在の者であると教えています。
聖書は多くの箇所で「悪魔」について教えていますが、きょうはその中のいくつかのことを心に留めておきたいと思います。まず、悪魔は神の「敵」です。悪魔のことを「サタン」とも呼びますが、「サタン」とは「敵」という意味です。悪魔は神に敵対して、「この世」という自分の王国を作りあげました。わたしたちも、かつては、「この世」の流れに流されて生きていたのです(エペソ2:1-3)。聖書によって知らされるまでは、そのことに気付いていなかったかもしれませんが、悪魔の支配のもとにいたのです。しかし、イエス・キリストを信じて、悪魔の支配から解放されました。「この世」から「神の国」へと移されたのです。それで悪魔は、かつては自分のものだった者をふたたび自分の手にとりもどそうとして、とくにキリストを信じる者に激しく攻撃してくるのです。
「悪魔」という言葉には「斜めに入る者」という意味があります。神のみわざに横からわりこんできて、それを自分のものにしょうとするからです。悪魔のやり方はいつも巧妙です。悪魔は決して自分を表わしません。人々に「悪魔なんかいない」と思わせるのです。人々を安心させておいて罠にはめるのです。悪魔はその本性を隠して、あたかも神の使いであるかのようにして、人々を騙します。
ですからわたしたちは悪の力に足がかりを与えないようにしなければなりません。聖書に「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。悪魔に機会を与えてはいけない」(エペソ4:26-27)とあります。正義感の強い人は、世の中の間違ったことに、腹だたしくなります。それは間違ったことではありませんが、「怒り」を心に貯めこんでいると、それが個人や社会への「恨み」や「憎しみ」に変わります。怒りや恨み、憎しみを動機にして社会を変えようとしても、社会は良くはなりません。ただ破壊だけで終わってしまいます。聖書に「人の怒りは、神の義を全うするものではない」(ヤコブ1:20)とあるとおりです。正当な怒りであっても、わたしたちの感情が悪魔の道具にならないよう、気をつけなくてはなりません。
「身を慎む」というのは道徳的なことに、「目をさます」というのは理性的なことにかかわりがあります。しかし、どんなに賢い人でも、その内面が欲望にとらわれれていたなら、その知性も正しくは働きません。すぐれた教育を受け、社会的にも地位のある人が、たやすく犯罪を犯してしまうことは、皆さんがよく知っている通りです。それと逆に、聖書が教えることを理性でもしっかり理解し、身につけていなければ、自分の生活を正しく整えることもできなくなります。「身を慎む」ことと「目をさます」こととはお互いに結びついていて、切り離せません。ですから、神の言葉を学ぶことと、それに生きることに励みましょう。そのようして、「身を慎み、目をさまし」、悪の力に勝利したいと思います。
二、悪魔に立ち向かう
次に、悪の力に脅かされたときは臆病にならず、それに立ち向かうことです。聖書は「この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(9節)と教えています。けれども、わたしたちの力ではそれはできません。しかし、主イエスにあっては、そのことができます。主イエスはすでに悪魔に勝利されました。主イエスは「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」(ルカ10:18)と言っておられます。ヘブル2:14-15には、主イエスの十字架の死について、「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つため」であったと書かれています。主がすでに悪魔に勝利しておられる。このことを信じて「立ち向かう」のです。主がすでに勝利しておられることを忘れ、悪の力にいたずらに恐怖にとらわれないようにしましょう。
バニヤンが書いた『天路歴程』という物語があります。これはイエス・キリストを信じる者たちの天に向かう信仰の旅を描いたものです。この物語の中で「クリスチャン」という名の人が「滅亡の市」(ほろびのまち)から「シオンの山」に向かう旅の途中、「落胆の泥沼」や「俗念の市」などさまざまなところを通るのですが、「困難の丘」にある「美の家」(うつくしのいえ)にたどりつく場面があります。その家の門に近づこうとすると、狭い路の両側に二頭のライオンが横たわっていました。「クリスチャン」はそれを見て恐れ、後戻りをしようとするのですが、「美の家」の門番は言います。「あなたの力はそんなに弱いのですか。獅子を恐がることはありません。繋がれているのですから。そこへ置いてあるのは信仰ある者の信仰を試し、また、信仰のない者を見つけ出すためです。路の真ん中を通つていらいしゃい。そうすれば大丈夫です。」(岩波文庫版111-112頁)ペテロ第一5:8に「悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」とありました。しかし、悪魔はすでに鎖で繋がれているのです。イエス・キリストを信じる者が、神に信頼し、歩むべき道を正しく歩くなら、いたずらに悪魔を恐れることはないのです。
聖書は約束しています。「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。…だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。…わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:31−39)悪魔にどんな力があろうとも、彼は所詮被造物です。悪の力がどんなに強くても、神の愛の力に勝るものはないのです。
三、勝利を信じる
第三は、「勝利を信じる」ことです。それは10節に示されています。イエス・キリストは十字架と復活によって悪魔に勝利されました。そして、わたしたちをこの世にあって悪の力から守ってくださいます。これから世の中はもっと悪くなっていくかもしれません。しかし、イエス・キリストは、再び天から来られて、信じる者を救い、あらゆる悪を滅ぼし、世界を平和へと導いてくださいます。初代のクリスチャンたちはこの希望を持って迫害に耐えました。
迫害というと遠い昔のことと思われがちですが、迫害は今も続いています。Open Doors という団体によると、2014年に信仰上の理由で殺害された人の数は 4,344人で、前年の倍近く増え、過去24年間の調査で最悪となりました。クリスチャンを迫害している国のワースト10は、北朝鮮、ソマリア、イラク、シリア、アフガニスタン、スーダン、イラン、パキスタン、エリトリア、ナイジェリアだそうです。ほかにも信仰の自由を厳しく制限し、圧迫を加えている国はいくらでもあります。ペテロ第一5:9に「あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである」とある言葉は、ペテロの時代のときだけでなく、今も真実なのです。わたしたちはこうした国々のクリスチャンを覚えて、もっと真剣に祈りたいと思います。
過去も現在もクリスチャンが迫害に耐え信仰を守り通しているのは、苦しみの中でも神の約束を信じ、「わたしたちを悪しき者からお救いください」と、神に祈りをささげてきたからです。ペテロ第一5:10は「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう」と約束しています。「主の祈り」はこの約束に対するわたしたちの応答の祈りです。初代のクリスチャンは「悪しき者からお救いください」に続けて、このように祈りました。
主よ、わたしたちは祈ります。わたしたちをあらゆる悪からお救いください。恵みをもってわたしたちの日々に平安をお与えください。あなたのあわれみにより、罪から解放され、苦しみから守られますように。わたしたちは祝福された望み、すなわち、わたしたちの救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。これは、勝手な付け加えではありません。「わたしたちを悪しき者からお救いください」という祈りに含まれている、神への願いや信仰を言い表したものです。
苦しみや、痛み、思い患いや、悲しみに投げ込まれたとしても、わたしたちには「悪しき者からお救いください」という祈りがあります。悪の手に陥ったと思ったなら、そこからの救いを熱心に願い求めればよいのです。「主の祈り」の最後の言葉は「お救いください」です。あまりの苦しさに、たとえ「主の祈り」のそれ以前の部分を祈ることができなかったとしても、「救ってください」と祈るだけでもよいのです。主はかならず答えてくださいます。
「悪しき者からお救いください」との祈りは「イエス・キリストはかならずわたしを救ってくださる」という信仰の告白でもあります。そして、この信仰の告白は、この世のあらゆる悪に対する勝利の宣言となるのです。わたしたちは、この「主の祈り」で、悪と悪魔に勝利を得ることができます。その勝利を確信して、「どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン」(ペテロ第一5:11)と神をほめたたえるのです。そのような思いを込めて、「主の祈り」に続く祈りの言葉とペテロ第一5:11の言葉で、ごいっしょに祈りましょう。
(祈り)
「主よ、わたしたちは祈ります。わたしたちをあらゆる悪からお救いください。恵みをもってわたしたちの日々に平安をお与えください。あなたのあわれみにより、罪から解放され、苦しみから守られますように。わたしたちは祝福された望み、すなわち、わたしたちの救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」「どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。」
10/11/2015