思い煩いの解決

ペテロ第一5:7

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5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 以前、皆さんに、「礼拝メッセージで、どんなテーマでお話しましょうか」と尋ねましたら、ある人から、「思い煩いにどう対処したらよいかについて話してください」とリクエストがありました。それで、2022年8月21日の礼拝で、「心配してくださる神」と題して、きょうと同じ箇所からお話ししました。きょうも同じテーマにお話しますが、「思い煩い」は繰り返し体験するものですから、その対処法も繰り返し確認しておいて良いと思います。思い煩いの解決がどこにあるかを確認して、この週の歩みを始めたいと思います。

 一、思い煩いとは

 聖書で使われている「思い煩う」という言葉の、もともとの意味は、「心を働かせる」、「気にかける」、「世話をする」などで、かならずしも悪い意味で使われているわけではありません。使徒パウロは、コリント第二11:28-29でこう言っています。「ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。」ここで、「心づかい」と訳されている言葉は他のところで「思い煩い」と訳されている言葉です。パウロは、各地にある教会のために祈り、手紙を書き、人を遣わし、自分でも訪問し、諸教会を指導していました。彼はそのことを「教会への心づかい」と言っています。彼は、自分のからだが弱り、心が痛むほどに、諸教会のことを心にかけたのです。また、パウロは、テモテについて、こう言っています。「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。」(ピリピ2:20)ここでは、「思い煩う」と訳される言葉が「心配する」と訳されています。テモテも、パウロと同じように、諸教会のこと、そこに集う一人ひとりのために、心づかいをし、心配りをしたのです。

 使徒たちが信徒のことを思い、心配りをしたように、信徒も指導者たちのために心配りをしました。ピリピ人への手紙は、ピリピの教会がパウロに援助のためのお金や品物を届けたお礼に書かれたものです。そのころ、パウロはローマで、未決の囚人として裁判を待つ身で、軟禁状態にありました。ピリピの教会はそれまでもパウロの伝道旅行の先々に援助の金品を送っていました。このたびも、それを受け取って、「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます」(ピリピ4:10)と言って、ピリピの教会の人々が、パウロの身の上を「案じ」、心配してくれていることを喜んでいます。こうした気遣い、心配りは、思い煩いではありません。他の人に対するそうした思いやりを持つことによって、私たちは思い煩いから解放されるのです。

 二、思い煩いと罪

 心配することのすべてが思い煩いでないとしたら、では、どんな心配が思い煩いとなるのでしょうか。

 それは、第一に、神のことや、信仰のことなど、霊的なことは少しも考えず、この世のことだけにあくせくすることです。イエスは、種まきのたとえで、種は神の言葉で、土地は神の言葉を聴く人の心のあり方であると言われました。茨の生い茂っている土地に落ちた種について、イエスは、こう解説されました。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)イエスは、「茨」とは「世の思い煩いと富の誘惑」のことであると言っておられます。「世の思い煩い」とあるように、心が世のものにしか向いておらず、この世の地位や評判、満足を追い求め、そのために心をすり減らすような生き方を「茨」にたとえ、それを戒めておられるのです。神の言葉は「いのちのことば」と呼ばれ、それは私たちに永遠の命を与えます。その命の木を育てないで、やがては枯れ、焼かれ、燃え尽きてしまう「茨」を育てている人がなんと多いことかと、イエスは嘆いておられるかのようです。

 イエスは、「世の終わり」についての教えの中でも、そうした思い煩いに警戒するようにと言われました。「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。」(ルカ21:34)イエスが再び来られるのを待つ者が、ふしだらな生活に浸り、酒に酔いつぶれるようなことはいけないことは、誰にも分かります。しかし、「生活の思い煩い」、つまり、この世のものを追い求め、そのことであくせくすることもまた、同じように罪深いものであることに気づいていない人が多いのです。放蕩も、深酒も、この世の思い煩いもみな、等しく、神を忘れさせるものであって、私たちが避けなければならないものなのです。

 第二に、自分のことだけを求めることが「思い煩い」となります。ちいさい子どもは、〝Me, me, me!〟と言って自分が一番になろうとします。また、〝Mine, mine, mine!〟と言っておもちやなどを独り占めにします。大人になっても、そうした自己中心的な態度そのままで行動することを、〝Me-ism〟と言うのですが、他の人のことは少しも心配しないで、自分のことしか考えないところに思い患いの根があるのです。

 イエスは「愚かな金持ち」のたとえで、〝Me-ism〟に凝り固まった人の姿を描いておられます。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』」(ルカ12:16-19)この金持ちは地主で多くの畑を持っていました。小作人もたくさんいたでしょう。何年も豊作が続き、作物は、倉庫に入り切らないほどになりました。それで、この人は、もっと大きな倉庫を建て、そこに全財産を貯め込むことにしました。そして、自分のたましいに「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と言おうと考えました。彼は、「さあ休め」と言っていますが、この言葉は、彼が財産を築くためにどんなに「思い煩って」きたかを表しています。この金持ちは、自分の財産を増やすために懸命に努力し、やっと、その目標に到達しました。

 では、彼は、それによって思い煩いから解放され、たましいの平安を得たでしょうか。いいえ、イエスは続けてこう言われました。「しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(同12:20-21)どんなに多くの財産があっても、人は、それによって自分のいのちを贖うことはできません。人の命は神が与え、保っておられるものです。ですから、この世のどんなものも、人を「思い煩い」から解放し、本当の平安を与えることはできません。

 この人は、「私の作物」、「私の倉」、「私の財産」、そして「私のたましい」といって、すべてを「私のもの」と主張しています。地の作物は、気候に頼るところが多く、人間の力だけで豊作を得ることはできませんし、凶作を防ぐこともできません。彼の思いの中には「この私の作物は、私の努力によって、私のために、私が得たものだ」という思いしかありませんでした。「私」、「私」、「私」で心が占領され、神のことも、他の人のことも考える余地がありませんでした。

 この世のものを追いかけ、それに頼る生き方は、必ず自己中心的なものになります。この世のものと、自分のことだけを追い求める生き方には、決して本当の平安はありません。「思い煩い」からの解放はないのです。たとえ自己実現を果たすことが出来たとしても、そこから次の「思い煩い」が生まれてきます。この世のものを、自分のためだけに求める生き方から回れ右をして、神に向かうことにしか、「思い煩い」の解決はないのです。

 三、思い煩いと神の愛

 ルカの福音書では、「愚かな金持ち」のたとえ(ルカ12:16-21)話に続いて、「空の鳥」、「野の花」のたとえ(同12:22-23)が書かれています。愚かな金持ちのたとえ話のあとで、「空の鳥」、「野の花」のたとえを聞いた弟子たちは、私たちをほんとうに生かしておられるのは神であることをよく理解できたことでしょう。

 空の鳥は、何を食べようかと心配しません。神の養いの中に生きています。野の花は、何を着ようかと心配しません。神が、どんなものよりも、美しい装いを与えておられることに満足しています。神が空の鳥、野の花にさえ、そのようにしてくださるなら、ご自分の子どもたちに、必要なものをお与えにならないわけはないのです。それで、イエスは、こう言われたのです。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。」(ルカ12:29-30)ここでの「心配する」や「気をもむ」というのが「思い煩う」ことです。

 ここで、イエスは、神を「あなたがたの父」と呼ばれました。神は、ほんらいは、御子イエス・キリストの父なのですが、御子を信じる者たちにも、御子と同じ立場、身分を与え、信じる者を神の子どもとしてくださいました。イエスは、ここで、神の「父」としての愛を、教え、また、示された上で、「思い煩うな」と言っておられるのです。「思い煩い」からの解放はじつに、神の愛を知り、愛の神に頼ることによってなされるからです。

 ペテロも、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と言って、私たちに神の愛を教えています。私たちが毎日の生活のことで思い煩わなくて済むのは、神が心配してくださるからです。神には思い煩いなどあるはずがありませんが、神が、私たちの思い煩いを引き受けてくださり、神が、私たちの心配ごとを私たちに代わって心配してくださる。父なる神の愛は、それほどの愛であると言っているのです。

 子どものことを心配しない親はありません。子どもが心配しているだろうことを、親はその何杯も心配するものです。ある人が「親」という漢字には「木の上に立って見る」という意味があると言いました。子どもが家を出るとき、遠く離れていく子どもを、切り株の上に立つて見守るということなのでしょう。放蕩息子の父親も、家を出た子どもが帰ってくるのを待って、異国に続く道を眺めていたことでしょう。親の愛とはそういうものです。それでも、人間の親は不完全です。子どもを愛してはいても、どこかで、子どもに親の期待を押し付けて子どもを苦しめるようなことがあるかもしれません。また、親から虐待を受けた人は、「父なる神の愛」と言われても、なかなか実感が湧かないことがあるでしょう。ある人が、「私は、父親から虐待を受けたので、神さまを信じても、長い間、〝父なる神さま〟と祈ることができませんでした」と話しているのを聞いたことがあります。けれども、その人は、聖書にある神の愛を繰り返し学ぶうちに、その愛の大きさを悟って、ついに「愛する天のお父さま」と祈ることができたとのことでした。

 思い煩いは、最初は小さなものでも、それが積み重なると、不安になり、不安は恐れに変わります。思い煩いが私たちの生活を乱し、私たちを信仰から遠ざけます。その前に、思い煩いを神にゆだねましょう。神は、空の鳥を養い、野の花を装い、放蕩息子が帰ってくるのを待ちわび、私たちの思い煩いを引き受け、私たちに代わって私たちのことを心配してくださる、私たちの父なる神です。神は、私たちの父、愛の神、使徒信条が言う、「全能の父なる神」です。

 (祈り)

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」父なる神さま、この御言葉を感謝します。思い煩うことの多い私たちですが、あなたは、そんな私たちの弱さ、また、罪深さをご存知の上で、私たちに「あなたの思い煩いを、わたしに任せよ。わたしがそれを引き受ける」と語ってくださいました。この週も、何者にも勝るあなたの大きな愛を、日々、あなたの子どもである私たちに示してください。それによって、私たちを思い煩いからお救いください。主イエスのお名前で祈ります。

10/20/2024