5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。
5:6 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。
5:7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
一、謙遜
きょうの箇所には「謙遜」が教えられています。「謙遜」が美徳であることは、誰もが認めるところです。聖書はいたるところで「謙遜」を教えています。5節に「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とありますが、これは箴言3:34からの引用です。箴言には他に「人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ」(箴言18:12)という言葉があります。日本のことわざの中にも「慢は損を招き、謙は益を招く」というのがあります。
日本の文化では、自分をへりくだらせることは、当たり前のことで、それが礼儀のひとつになっています。時代が変わり、人々の意識も変わってきましたが、今でも、日本人は、「ふつつかな者ですが…」「お粗末なものですが…」という言葉を口にします。しかし、それが言葉だけで、心の中で逆のことを考えているとしたら、「卑下も自慢のうち」という言い回しのように、美しいはずの謙遜が醜いものになってしまいます。また、「親の小言を聞く時にゃ、あたまさげてりゃそれでよい」などという唄もあります。親に叱られても、頭を下げていれば、その小言は、頭の上を通り越してしまうというわけです。人前で頭を下げていれば、損はしないし、失敗もしないというのですが、それは、ほんとうの「謙遜」ではなく、たんなる処世術です。
では、聖書の教える「謙遜」とはどんなものなのでしょうか。それは、6節に「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」と教えられているように、神の前にへりくだることです。どんなに能力のある人も、全能者の前に立つとき、へりくだらざるを得ません。どんなに優れた人であっても、偉大な神の前では、小さな者にすぎません。どんなに立派な行いをしてきた人であっても、聖なるお方の前に立つとき、自分の罪を認めずにはおれなくなるのです。ヨブは神の声を聞いたとき、「わたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ42:6)と言いました。イザヤは神殿で神の幻を見たとき、「わざわいなるかな。わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫んでいます。人は神の前に立つとき、いっさいの外面の誇りを剥ぎ取られ、そこで、はじめて謙遜を知るのです。外面の、みせかけの、処世術としての謙遜ではなく、神を尊ぶ、敬虔で誠実な、ほんとうの謙遜を知るようになるのです。
また、聖書が教える「謙遜」は教会の中で養われ、実践されるものです。5節に「みな互に謙遜を身につけなさい」とあります。聖書、とくに、使徒たちの手紙の中には「互いに」という言葉がよく使われています。「互いに愛し合いなさい」「互いに尊敬しあいなさい」「互いに受け入れ、忍び合いなさい」「互いに教え、訓戒しあいなさい」「互いに励まし合い、慰め合いなさい」「互いに重荷を負い合いなさい」「互いにゆるし合いなさい」「たがいに仕え合いなさい」などと、「互いに」という言葉が繰り返されています。謙遜については、「互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない」(ローマ12:16)という言葉があります。これは、イエス・キリストを信じて、キリストのからだの一部とされた者が、キリストのからだ全体の中で、調和をもって生きるようにと教えている言葉です。自分がかしらであるキリストによって生かされていること、また、他の部分によって支えられていることを知るなら、キリストのからだの一致と調和を尊ぶはずです。そして、その一致と調和をもたらすものが「謙遜」なのです。
二、知恵
聖書は、このように神の前での謙遜、またキリストのからだの中での謙遜を教えていますが、そのような謙遜を持つ者には恵みが与えられると、約束しています。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある通りです。神はへりくだる者に、数々の恵みをくださいますが、きょうは、その中からふたつのものをとりあげたいと思います。まずは、神を知る「知恵」や「知識」です。謙遜な人には、神を 深く知る知識と、それに基づいて人生を生きる知恵が与えられるのです。
新約聖書の言葉では「謙遜」という言葉には「低い」とか「下の」という意味があります。人は、神と神の言葉の下にあるものとして造られました。ところが、人は神と並び、神の言葉の上に立とうとしました。そこから人間の罪が始まったのです。エデンの園での蛇の誘惑はこうでした。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか。」蛇は、エバに神の言葉を疑わせています。エバが「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」と答えると、蛇は「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と言って、すぐさま、神の言葉を強く否定しました。そして、こう言いました。「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」これは、「何も神に善悪を決めてもらう必要はない。人間は自分でそれを決めることができるのだ」ということを言っています。それは、神の下に立つのでなく、神と並ぶものとなるという誘惑でした(創世記3:1-5)。アダムとエバは、この誘惑にのり、そこから人は、神の言葉ではなく、自分の基準で善悪を判断するようになり、自己中心的で身勝手な生き方をするようになりました。そして、神と神の言葉の下に立つという、根本的な謙遜を忘れてしまったのです。
ギリシャ語で「人間」という言葉には「上を見る者」という意味があります。つまり、神の下に立ち、神を見上げるところに、本来の人間の姿があるのですが、多くの人は、その罪のゆえに、神と神の言葉を見下すようになってしまったのです。
神を信じる者は、みな、聖書を尊び、神の言葉を下に置くようなことはしないはずですが、時として、聖書を学ぶとき、それを人間の理性だけで理解しようとする間違いを犯してしまうことがあります。多くの場合、それは熱心から出たものなのでしょうが、聖書の解釈をめぐって「ああでもない」「こうでもない」という議論だけで終わってしまい、神がそこで、今の、このわたしに語りかけようとしておられることを見失ってしまうことがあります。もし、わたしたちが聖書を見下ろすようにして議論するとしたら、そこからは、神を信じる信仰の養い、キリストに従う励ましが与えられることはありません。信仰者としてこの世を生きる知恵も得ることができません。英語の「理解」(understand)という言葉が「下に」(under)と「立つ」(stand)という言葉の組み合わせでできているように、聖書は、その下に立って、神の語りかけに謙虚に耳を傾けることによってはじめて、正しく理解することができるのです。
わたしは、ある教会の庭で、しゃがんでおられるイエスの姿をかたどったブロンズ像を見たことがあります。それには、「こどもを祝福されるイエス」というタイトルがついていました。イエスは、子どもと接するとき、しゃがんで子どもと同じ背丈になられたことでしょう。この像は、そうしたイエスの謙遜な姿を表そうとしていました。しかし、この像を立って見ていてもイエスの顔が見えませんでした。それで、わたしもその前にしやがみました。すると、微笑みがいっぱいの優しいイエスのお顔が見えました。イエスがなさったように、身を低くして神の前に立ち、また人と接するとき、イエスのお心を知ることができるのだということを、わたしは、このことによって教えられました。へりくだる者に与えられる、神を知る知恵と知識とを、身を低くして受け取りたいと思います。
三、必要
謙遜な人に与えられる恵みのもうひとつは、霊的なことや生活の必要が満たされるということです。へりくだる者は、神に、その必要を満たしていただけます。なぜでしょう。それは、謙遜はわたしたちを祈りに導き、祈りによって必要なものが備えられるからです。
一般に、謙遜というのは、控えめで、受身的なことだと考えられていますが、ほんとうはそうではありません。謙遜な人は、自分がさまざまな面で欠けていることを知っています。そして、自分の欠けたところや、弱さを知っているからこそ、それを神に願い求めて祈るのです。たしかに、謙遜な人は、人を蹴落としたり、人のものを奪ったりしてまで、自分の必要を満たそうとはしません。じっと欠乏を耐えるでしょう。しかし、何もしないでいるのではありません。その必要を、ひたすらに、神に願い求め、自分が乏しいときでも、神に捧げることと、他の人に与えることを忘れません。
祈り会では詩篇の「都もうでの歌」を一編づつ黙想しているのですが、詩篇123:2にこうありました。「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」しもべやはしためが、その主人や主婦から報酬や賞与、あるいは休暇を受けようと願い求めるように、信仰者は、自分をしもべ、はしための立場に置いて、神に、その恵みや平安を願い求めるというのです。詩篇には、自分の苦しい状況を訴え「あなたのしもべをあわれんでください」と言って神に願い求める祈りが数多くあります。「あわれんでください」「恵んでください」というのは、物乞いの言葉です。聖書には、神に対して、「しもべ」以下の「物乞い」の立場にまで身を置いて、神に熱心に祈った人々の姿が数多く書かれています。
マルコ7:24-31に、ツロの地にいたひとりの母親のことが書かれています。彼女はスロ・フェニキア人でした。この母親は、自分の娘から悪霊を追い出してほしいとイエスに願いでました。そのときイエスは「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言われました。イエスの言葉の「子供たち」というのは、イスラエルの人々のことを指し、「犬」というのは、異邦人を指しています。イエスは、イスラエルの人々にも異邦人にとっても、すべての人の救い主ですが、このときは、まずイスラエルの救い主として働いておられたので、この母親にそう言われたのです。
しかし、この母親は、それでひるむことなく、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と言っています。これは、どういうことかというと、当時、人々は、ナイフやフォークを使わず、食べ物を指でつまんで食事をしました。それで、汚れた指を、パンのかけらで拭いたのです。そのパンのかけらは、食事が終わると、犬に投げ与えられました。「食事のとき手を拭くために使った汚いパンなら、犬でも、もらえるではありませんか。主よ、あなたのお力の、お恵みのおこぼれでもいいですから与えてください。」母親は自分を「犬」の立場に置くほどにへりくだり、また、熱心に願い求めたのです。イエスがこのような祈りに答えてくださらないはずがありません。その娘は、母親の願いどおり、即座に悪霊から解放されました。
きょうの箇所の7節にこうあります。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」へりくだる人は、祈ることができます。そして、祈ることができる人は、思いわずらいから解放されます。神の前にへりくだることを知らない人の人生は、さまざまなことを自分の力でなんとかしようとして、思いわずらいで一杯になってしまいます。「神に頼らなくてもやっていける」などと言った思いあがりを捨て、神に生かされ、支えられているという現実を見つめましょう。そして、主を知ることと、必要が満たされることを、謙虚に、また熱心に、神に願い求めて歩みましょう。
(祈り)
父なる神さま、罪はあなたとあなたの言葉の下に立とうとしない人間の高慢から始まりました。この罪を解決するため、あなたは、キリストをへりくだった姿で、お送りになりました。わたしたちは、このキリストの計り知れないほどの謙遜によって救われています。そして、この救いは、あなたの前にくりくだる者の内に働きます。わたしたちが、この救いの力により、謙遜な者となり、善きもので満たされる生涯を送ることができるよう、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
9/17/2017