5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
一、私たちの謙遜
「謙遜」が、美徳であることは、誰もが認めるところです。日本のことわざの中に「慢は損を招き、謙は益を招く。」というのがあります。最近の日本からのニュースにあったコクドの会長やライブドアの社長に当てはまることわざかなと思います。聖書では、箴言18:12に「破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。」(新共同訳)とあります。
しかし、謙遜を身につけるのは、簡単なことではありません。ベンジャミン・フランクリンといえば、雷の鳴る日に凧をあげて、雷が電気であることを証明した人として知られています。フランクリンは、また、アメリカ独立宣言に署名した五人の政治家のひとりでもあり、そのためでしょうか、100ドル札に肖像が載っています。彼は、人生に必要な徳目を13あげました。「節制、沈黙、規律、決断、倹約、勉強、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙遜」です。彼は、自分であげた徳目を身につけようと努力し、ある程度はそれらを実践し、社会的に成功を収めたのですが、謙遜を身に着けるのは難しかったようです。フランクリン自身が、「謙遜は、最後まで身に着けることができなかった。」と言っています。
日本の文化では、自分をへりくだらせることは、当たり前のことで、それが礼儀のひとつになっています。時代が変わり、人々の意識も変わってきましたが、まだまだ、日本人の多くは「私のようなふつつかな者が…」「お粗末なものですが…」という言葉を口にします。しかし、それは言葉だけのことで、「卑下も自慢のうち。」という言い回しがあるように、心の中では、それと逆のことを考えている場合もあります。人前で頭を下げていれば、損はしないし、失敗はしないというのです。「親の小言を聞く時にゃ、あたまさげてりゃそれでよい。」などという唄がありますが、誰かに非難されるようなことがあっても、頭を下げていれば、その非難は、頭の上を通り越して、自分にはぶつからないと、多くの人は考えていますが、それは、ほんとうの「謙遜」ではなく、処世術の一つなのです。
では、クリスチャンなら、「謙遜」をほんとうに理解し、身に着けているのでしょうか。必ずしもそうとは言えません。ペテロの手紙第一5:1には「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。」とあって、信徒は、教会の指導者の下に立つべきことが教えられています。そして、教会の指導者たちは、大牧者であるキリストの下に立つようにと、1-4節では教えられています。教会のかしらはただひとり、イエス・キリストのみです。教会につらなる私たちは皆、キリストのからだの手や足であって、決してかしら、頭ではありません。ところが、クリスチャンであっても、ほんとうの謙遜、神の下に立つ謙遜を忘れると、教会の中で「かしら」になりたがるのです。ヨハネの手紙第三に「彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。」(9節)とあります。デオテレペスという人は、教会の中で自分の立つべき場所から迷い出てしまたったひとりでした。
牧師が信徒に奉仕をお願いすると、「私のような者が、とてもそんなことはできません。」という答えが返ってくることがあります。もし、牧師がその言葉に同意して「そうですね。あなたは、この奉仕をするのにまだまだふさわしくありませんね。」と言おうものなら、その牧師は、きっとその信徒に恨まれてしまうことでしょう。「私はふさわしくありません。」という人の多くは、ほんとうにふさわしくないと思っているのではなく、体裁良く奉仕を断るためにそう言っているのかもしれません。あるいは、「いいえ、あなたほどふさわしい人はいません。ぜひお願いします。」と言ってもらえるとでも思っているのかも知れません。私に洗礼を授けてくれた牧師は、こういうことを指して、「それは謙遜的傲慢です。」と良く話していました。謙遜ぶることと、ほんとうに謙遜なこととは違います。「私ほど謙遜な人はいない。」と思っている人が一番傲慢な人なのかもしれません。
二、キリストの謙遜
では、「ほんとうの謙遜」とはどんなものなのでしょうか。新約聖書が書かれたギリシャ語では、「謙遜」ということばには「下に立つ」という意味があります。誰の下に立つのでしょうか。神と、主イエス・キリストの下に立つのです。神は、すべてのものの主です。ですから、すべて造られたものは神の下に立つべきものです。ところが、悪魔、サタンは、自分が神の下にあることを良しとせず、神と等しくなろうとしました。そこに罪が生じました。最初の罪が、「高慢」の罪だったのです。悪魔は、人間を自分の支配下に置こうとして、人間を同じ罪で誘惑しました。悪魔は、エバに「善悪を知る木」を取って食べるようそそのかし、こう言いました。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)「善悪を知る」というは、善と悪とをわきまえることができるようになるというよりも、ここでは、「何が善であり、何が悪であるかを決めることができる」という意味です。しかし、何が善であり、何が悪であるかを決定するのは神であり、人ではありません。人は、神から善悪を教えられ、それに従って生きる存在です。悪魔の誘惑は、「もう、これからは、神に聞く必要はない。人間は自分で善悪を決めることができるのだ。あなたがたも『神のように』なるのだ。」というものでした。悪魔は、人間に、神の下に立つという本来の立場を捨てさせ、神にそむかせ、また、神からさまよい出させたのです。この時以来、人間は自分で善悪を判断するものとなりましたが、その判断は、神の定めとは全く違ったものとなってしまい、間違った判断を積み重ねて、自分自身に、家族に、社会に惨めな結果をもたらすものになったのです。この人間の、神の前における高慢が解決されない限り、ほんとうの謙遜はないのです。
ほんとうの謙遜は、神の前に罪を悔い改め、へりくだることから始まりますが、人間は悔い改めるどころか、自分の正しさを主張し、へりくだるどころか、ますますおごり高ぶるようになりました。「破滅に先立つのは心の驕り。」とあるように、おごり高ぶる人間が歩んでいるのは、滅びの道であり、その行き着くところは神の裁きです。しかし、神は、そんな人間を愛して、イエス・キリストによって救いの道を開いてくださいました。高ぶる人間を救うため、神は、何者よりも高くおられた御子を、低く、貧しく、卑しい者とされました。自分を正しいと主張する人々のために、神はキリストにすべての罪を負わせ、罪人としました。滅びる人間を救うために、神は主イエスを十字架によって滅ぼしてしまわれたのです。ピリピ2:6-8に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(新共同訳)とある通りです。人間の罪は傲慢から始まりましたが、キリストは、そのへりくだり、謙遜によって、人間の傲慢を打ち砕き、人間をその罪から救ってくださったのです。ほんとうの謙遜は、キリストのへりくだりの究極である十字架のもとに来て、自分の一切の誇りを十字架の下に置き、十字架のもとにひれ伏すことによってもたらされるのです。
私は、アメリカに来て、何度かパッション・プレイ(受難劇)を見ましたが、パッション・プレイを見ていて、いつも感動するのが、百人隊長が「本当に、この人は神の子であった。」と告白する場面です。パッション・プレイでは、百人隊長は、そのヘルメットを脱いで、十字架のもとに跪きます。私たちも、自分の頭にかぶっている、さまざまな誇りや栄誉を、すべて十字架のもとに捧げようではありませんか。すべてをもぎ取られ裸にされた主イエスの前で、私たちは、どんな誇りの衣をまとうのでしょうか。茨の冠をかぶせられた主イエスの前で、なおも、自分の冠にしがみつくのでしょうか。
使徒ペテロは、キリストの一番弟子でした。彼は、他の弟子に先駆けて「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)と告白し、キリストの栄光を間近で目撃しています。しかし、ペテロは、主イエスを否認したことを、隠し立てしないで、正直に告白しています。マルコの福音書はマルコがペテロから聞いたことをもとに書かれたと言われていますが、ペテロは彼にとって全く不名誉なこと、本当なら隠しておきたいことを、人々の前で正直に語り、それが聖書に残されたのです。なぜペテロはそのことができたのでしょうか。ペテロは徹底してそのことを悔い改め、主イエスによってふたたび立ち上がらせていただいたからです。ペテロは6節で「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」と書いていますが、これは、ペテロ自身が体験したことであって、それだけに説得力があります。ペテロもまた、百人隊長とともに、自分の栄光のすべてをキリストの足下に置いた人でした。
使徒ペテロと共に、エルサレムで柱として重んじられていたヤコブは、主イエスの兄弟でした。ユダヤ人の間では、血筋や家柄というものが大変重んじられましたから、ヤコブは、主イエスの弟であることを誇っても良かったかもしれません。しかし、ヤコブは、主イエスが、血のつながりよりも、信仰のつながりを大切にされ、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:50新共同訳)と言われたことばをしっかりと守っていました。ヤコブは、その手紙の中で、彼が主イエスの弟であるということにはいっさい触れず、自分を「神と主イエス・キリストの僕」(ヤコブ1:1)と呼んでいます。ヤコブも、キリストの下に立った人でした。
使徒パウロは、使徒たちの中でおそらく一番大きな働きをした人でした。彼には、その血筋において、家柄において、教育において、また、経歴において誇ることのできるものがいくつもありました。しかし、パウロは、そうしたものも、キリストの前では「塵あくた」(ピリピ3:8)に過ぎないと言っています。「塵あくた」という言葉は「糞土」とも訳すことができます。彼の由緒正しい家柄も、最高の教育も、すこし汚い言葉になりますが、そんなものは「糞食らえ」だと、パウロは言って、すべてをキリストの足下に投げ出したのです。パウロは、自分を「使徒の中では最も小さい者」(コリント第一15:9)と言い、「すべて聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と言っています。そればかりか、「私はその罪人のかしらです。」(テモテ第一1:15)とさえ言っています。使徒たちや初代のクリスチャンたちは、このように、神の下に立つ謙遜を知っていた人たちでした。
三、身に着けるべき謙遜
ペテロは、ここで「皆互いに謙遜を身に着けなさい。」と勧めていますが、「身に着ける」というのは、アクセサリーとして飾りにする、急に寒くなった時にジャケットを羽織るというようなものでもありません。もし、そうなら、謙遜というのは、ほんとうの自分を隠すための手段になってしまいます。ペテロが「身に着けなさい」と言ったのは、謙遜を人に見られる時や、何か特別な時にあわてて着込むというのではなく、普段着のようにいつも身につけ、自分の一部になってしまうことを意味しています。それは、コロサイ3:9-10に「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」とあるようなことを意味しています。
コロサイ3:10に「造り主の姿に倣う」とありますが、人間は、もともと神のかたちに造られ、神に似たものだったのです。神が持っておられる、愛やあわれみ、真実や正義など、神の豊かなご性質を分け与えられていました。悪魔は、人間に「善悪を知る木から取って食べれば、神のようになることができる。」と言って誘惑しましたが、人間はすでに神に似たものであって、そのような誘惑に乗る必要はなかったのです。人間は、神の愛のご支配に逆らい、その結果、みずからの内にある神のかたちを損なってしまいました。神は、キリストによって、そんな私たちの罪を赦してくださったばかりか、私たちを再び、神に似たもの、つまり、キリストに似たものに造り変えてくださいます。「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」とは、そんな神のきよめのみわざをさしています。「謙遜を身に着ける」というのは、「新しい人を着る」ことの一部分であって、それは、人間の力でできることではありません。しかし、きよめられたいと願うこと、謙遜を身に着けたいと祈ることは、私たちに出来ることであり、しなければならないことなのです。それに関連して、ひとつのお話をしましょう。
南イタリヤの田舎に、地主の息子でマリオという少年と、アンセルモという、貧しい靴屋の息子がいました。二人は、境遇は違いましたが、大の仲良しでした。こどもの頃、誰もが話す話題ですが、アンセルモがマリオに、「将来何になりたいの?」と聞きました。マリオは「ぼくは、大勢の人々の前で話す、大説教家になりたい。」と、目を輝かせて話しました。マリオがアンセルモに、「君は?」と聞くと、アンセルモは、それには答えず、「ぼくは、君が大説教家になれるように祈るよ。」と言うだけでした。
やがて、マリオが修道院に入るために村を出て行く日がやってきました。家が貧しいために学校に行けなかったアンセルモは、村に残って、マリオのために祈っていましたが、数年してから、アンセルモも村を出て、マリオの修道院で召使いとして働くことになりました。
マリオが司祭になって、はじめて説教する日がやってきました。マリオは落ち着かず、廊下を行ったり来たりしていました。すると、召使いのアンセルモがそっと近づいてきて、「マリオ様、あなたのために祈っていますよ。」とささやいて、通り過ぎました。それから説教壇に立ったマリオは、気持ちを落ち着けるために、深呼吸をしてから、大勢の人々を見渡しました。すると、教会の柱のかげで、祈っているアンセルモの姿が見えました。マリオの説教は、この日、人々に大きな感動を与え、次第に、マリオは、名説教家として人々に知られるようになりました。そして、マリオが説教するところにはどこにでも、アンセルモもいて、目立たないところでマリオのために祈っていました。
こうしてマリオにローマの大聖堂で説教するという光栄が与えられました。幼い日から夢見たことがとうとう実現することになったのです。マリオは、今までしてきた名説教の中から、よりすぐりのものを選び、自信をもって、堂々と説教しました。マリオは、この日を境に、大説教家としての地位を不動のものにすることができると信じて疑いませんでした。
ところが、ローマの大聖堂での彼の説教は、弁舌はさわやかであっても、人々に何の感動も与えませんでした。マリオは自分の説教は完全に失敗だったと知りました。そして、その日、いつもいっしょにいるはずのアンセルモの姿が見えないことに気づきました。修道院長に尋ねると、アンセルモは、その日の朝、マリオのことを気遣いながら天に召されていったとのことでした。
数日後、修道院の片隅にあるアンセルモの粗末な墓に、マリオの姿がありました。マリオはそこで熱心に祈っていました。修道院長が、マリオを見つけ、「マリオ司祭、あなたは再び前のような名説教が出来るように祈っているのですか。」と聞きました。すると、マリオは振り返って、こう答えました。「いいえ、名説教家になりたいとは祈りませんでした。アンセルモのような謙遜さを身に着けたいと、祈っていたのです。」
神が私たちに求めておられるもの、また、私たちがまず求めなければならないもの、それは謙遜です。このように謙遜を祈り求めていくなら、神はかならず与えてくださいます。そしてそこから、私たちの人生が大きく変わっていくのを見ることができるでしょう。
(祈り)
父なる神さま、人間の高慢から始まった罪を解決するため、あなたは、キリストをへりくだった姿で、人間のもとにお送りになりました。私たちはキリストの謙遜によって救われています。私たちは、あなたの前にくりくだり、その救いを受け取ることができます。そして、その救いとともに、身につけるべきキリストの謙遜を受け取りました。キリストの謙遜によって救われた者たちが、謙遜を身に着けないでいて良いでしょうか。あなたが私たちに求められる、ほんとうの謙遜を、いよいよ追い求め、「みな互いに謙遜を身に着ける」私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
6/5/2005