5:1 そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。
5:2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
5:3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。
5:4 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
昨年から学んできた「ペテロの第一の手紙」も最後の章となりました。最後の章は、教会の指導者に対する勧めから始まっています。ここにはその「務め」、「態度」、そして「報い」という三つのことが教えられています。それらを順にみていきましょう。
一、務め
教会の指導者は、ここでは「長老」と呼ばれています。「長老」というのは、文字通りには「年長者」を指しますが、ユダヤの社会では、指導者たちは、そんなに年配でなくても「長老」と呼ばれました。初代教会は、ユダヤで始まり、その社会の影響を受けていましたので、教会でも、その指導者たちを「長老」と呼びました。
「長老」の努めは、「群れを牧する」ことです。「牧する」という言葉は「群れ」や「牧者」と同類の言葉で、家畜の所有者が家畜の群れを統制し、育てることを意味します。牧畜というと低い仕事のように思われますが、ユダヤの社会では、「王」が「牧者」と呼ばれ、「牧する」という言葉が「支配する」ことを意味しました。長老たちに与えられた「群れを卜する」というのは、王がその国を治めるほどの大きなものだったのです。
長老は、群れを「牧する」ので、「牧者」あるいは「牧師」と呼ばれました。聖書で教会の指導者は「監督」、「牧師」、「長老」など、様々な名前で呼ばれており、これらは、後の時代には別々の職務を表わす言葉として用いられるようになりましたが、初代教会では、これらは指導者としての働きのそれぞれの側面を言い表わすものとして用いられたようです。つまり、群れを見守る者としては「監督」、御言葉を教える者としては「牧師」また「教師」、群れを統率する者としては「長老」と呼ばれたのです。
ギリシャ語の「長老」という言葉はラテン語の “presbyter” になり、そこから英語の「祭司」(priest)という言葉が生まれました。このことから、教会の指導者には、その群れの監督や教師として人々に仕えるとともに、その群れの祭司として神に仕えるという役割が与えられていることが分かります。人々とともに神に礼拝をささげ、祈りをささげ、また、神のみこころを問うという霊的な働きが与えられているのです。
わたしたちは「万人祭司」を信じ、実践しています。「祭司」という言葉が「長老」という言葉が出たように、クリスチャンすべては「長老」でもあるのです。もちろん、「万人祭司」の教えは、専門の祭司、長老、牧師、監督といった職務を否定するものではありません。そうした人々は、群れの全体に対して祭司、また長老として働いているのですが、クリスチャンひとりびとりは、自分の置かれた場所で、祭司、また長老としての務めを果たすのです。たとえば、教会のスモール・グループのリーダやサンデースクールの教師は、そのグループやクラスのことにいつも気を配り、メンバーや生徒のためにいつも祈ります。また、家庭では、両親が、その家庭の祭司として、家族のために祈り、家族の長老としては、家族の信仰の成長に心を配るのです。
ですから、ここにある教会の長老たちへの教えは、教会の専門的な指導者ばかりでなく、すべてのクリスチャンに対する教えでもあるのです。そのことを心にとめながら、どのようにして、与えられた務めを果たしたらよいのか、奉仕の態度について次に学びましょう。
二、態度
2節と3節には、奉仕の「態度」として、三つのことが教えられています。第一は「しいられてでなく、進んで」、第二は「利得のためでなく、本心から」、第三は「権力をふるわず、模範によって」です。
第一の「しいられてでなく、進んで」というのは、奉仕の「基本」を教えています。奉仕を重苦しい「義務」としているだけなら、そこには何の喜びもありません。「進んでする」ときに喜びがやってきます。しかし、それは、奉仕が義務でないということではありません。奉仕は義務です。キリストから与えられた聖なる義務です。教会では、神がそれぞれに与えてくださった賜物やタラントを持ち寄って主に仕え、また互いに仕え合いますが、それは、自分の楽しみのためにしているのではありません。同好会なら、好きなことや、やりたいことだけをしていれば良いのでしょうが、教会では、教会の必要の欠けたところを、自分にできることで満たすためにするのです。ですから、時には、自分の得意でないことや、あまりしたくないことでも、しなければならないことがあります。多くの場合、奉仕は、割り当てられた義務として始まります。キリストのからだの欠けたところを補うのは、クリスチャンにとって義務なのですから、奉仕は義務であり続けるでしょう。しかし、その義務を「主によって与えられた尊い責任」として受け止め、それを進んでするなら、奉仕が重苦しい義務ではなく、喜ばしい義務となるのです。
第二の「利得のためでなく、本心から」というのは、奉仕の「目的」を教えています。教会の奉仕は、牧師や専門スタッフを除いてはみな無償の奉仕です。ですから、ふつうは奉仕を金銭のためにするということはありません。しかし、金銭以外の「利得」が目的になることがあります。そのひとつは人々から認められ、ほめられようとすることです。誰かの奉仕に対して、感謝することは良いことです。お互いに「ご苦労様」と労をねぎらいあうことは必要なことです。しかし、それ以上に自分への賞賛を求めてするなら、どんなに多くの人が拍手喝采しても、それは主が喜んでくださる奉仕ではありません。
多くの奉仕は人目につかないものです。実際のところ、神の国の働きは、そうした人目につかない多くの奉仕によって支えられています。誰からも認められない、感謝されない、いたわりの言葉もないというのは、寂しいことです。しかし、そんな時でも、「わたしは主にお仕えしている」という喜びと満足を心のうちに持っていたいと思います。
第三の「権力をふるわず、模範によって」というのは、教会の奉仕者に「権威」が無いということではありません。「長老」や「牧する」という言葉に、「治める者」や「治めること」という意味があるように、教会の指導者には、キリストから委ねられた権威が与えられています。しかし、その権威は、やたらとふりまわしてよいものではありません。指導者は、みずからがキリストの権威に服従し、その模範によって人々に仕えるよう教えられているのです。
これは、イエスご自身が教えられたことです。マルコ10:42-45にこうあります。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」この御言葉はアーモー兄弟が “Samurai Verse” と呼んでいる言葉で、それは、英語では “Servant Leadership” と言われるものです。「仕える」ことを知っている人がほんとうの指導者なのです。
シュヴァイツアー博士がアメリカに来て講演をしたあと、たくさんの質問が出ました。そのひとつに「子どもを教えるのに大切なことを、三つあげるとしたら、それは何ですか」という質問がありました。博士はそれに答えて、「子どもを教えるのに大切なことは第一は模範になること、第二も模範になること、そして第三も模範になることです」と言いました。「子どもたちは親の言うことは聞かないが、親のしていることは真似る」と、よく言われます。模範になるといっても、わたしたちは完全な模範になることはできません。しかし、不完全な者であっても、神に赦しを願いながら、完全な天の父を仰いでいくとき、そのような姿を見て、子どもたちも神に信頼するようになることでしょう。主の僕となり、主の模範に従うとき、わたしたちは子どもたちをよりよく導くことができると思います。
三、報い
さて、最後に奉仕への「報い」を見て終わりましょう。4節はこう言っています。「そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。」
クリスチャンひとりびとりは「大牧者」であるイエス・キリストによって、それぞれの場所、立場で「小牧者」とされました。ですから、クリスチャンは、その奉仕について、大牧者であるイエス・キリストに対して責任があるのです。そして、奉仕の評価も、人によってではなく、大牧者によってなされるのです。この世では、「あの牧師は立派だ」「この教会は栄えている」「あそこの家庭は祝福されている」などの評価を受けます。あるいは、それとは逆の評価を受けることもあります。しかし、そうしたことは人間の判断にすぎません。すべての奉仕の動機と結果を判定されるのはキリストです。わたしたちが目指すことは、キリストから授かった奉仕を、「愛」という動機で果たしていくことだけです。
ヨハネ21:15-17に主がペテロに「あなたはわたしを愛するか」と尋ねられたことが書かれています。イエスは救い主で、ペテロはこの救い主によって救われるべき者でした。イエスは師であり、ペテロはその弟子でした。そしてイエスは主であり、ペテロはそのしもべでした。ですから、イエスのペテロに対する問いは「わたしを信じるか」「わたしに従うか」であって良かったはずです。しかし、イエスは「わたしを愛するか」と仰って、「信じる」「従う」ということの根本にある「愛」を問われました。それは、主がペテロに主の「羊を養う」という務めを与えようとしておられたからです。「神の羊の群を牧する」ということは、たとえさまざまな霊的な賜物を持っていたとしても、それだけできることではありません。まして、人間的な能力でできることではありません。それは愛によってなされるべきものだからです。
イエスは「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。イエスが羊の群のためにしてくださったことは、それを愛するということでした。その愛のゆえにイエスはご自分の命を羊に与え、その命によって羊の群を養っておられるのです。ですから、神の羊の群れである教会に仕える者は、このキリストの愛によって愛されていることを知っている者、そして、その愛にこたえようとする者でなければならないのです。
「わたしを愛するか」という問いに、ペテロは「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えました。すると主は「わたしの羊を飼いなさい」と、ペテロにご自分の羊の群れへの奉仕を委ねられました。イエスが、わたしたちに奉仕をお任せくださる時も同じだと思います。主は、わたしたちのどんな奉仕においても、主は、わたしたちに「わたしを愛するか」と問われることでしょう。「わたしを愛するか」と問われるお方は、わたしたちを愛してくださったお方です。主がわたしたちに奉仕をお命じになるのは、わたしたちを信頼しておられるからです。主の愛にわたしたちも愛をもってこたえましょう。主の信頼に、わたしたちも信仰をもっておこたえしましょう。主イエスに愛され、主イエスを愛するという愛の関係、これにまさるものはありません。神の最高の贈り物は愛であり、人間だけができる最も崇高なことは愛することです。この愛の中で、与えられた奉仕を続けていきましょう。そのとき、奉仕の報いがわたしたちに届くのです。
大牧者であるキリストは、奉仕を全うした人に「しぼむことのない栄光の冠」をお与えくださいます。それは、確かにわたしたちが受ける栄誉のことでしょうが、それだけではなく、この「栄光」とはキリストの栄光だろうと思います。キリストの栄光のお姿を見て、主を礼拝する。そのこと自体がわたしたちにとって、何物にもかえることのできない、最も誉れあることだからです。わたしたちの小さな奉仕によってでも、今も、また、やがての日には、よりいっそう、主の栄光が表わされこと、そのことを願って、与えられた務めを果たしていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちは、主イエス・キリストから、それぞれに奉仕を授かっています。主イエス・キリストはどのように奉仕を果たすべきかをご自身の模範によって示され、その奉仕に手ずから報いてくださいます。大牧者である主イエス・キリストを見上げ、主と主の群れに仕えるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
9/10/2017