万物の終わり

ペテロ第一4:7

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4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

 一、万物の終わり

 私たちは、すべての物事には「始まり」があり、「終わり」があることを知っています。自然界では、小さな種から芽が出て育ち、大きな木になり、何百年間も葉を茂らせても、やがては枯れ、朽ちていくのを私たちは見ています。どんな生き物も、それぞれに寿命があり、時が来れば死を迎えます。個々の生き物が死を迎えるだけでなく、どんなに繁殖しても、その上限に達すると、徐々に数を減らし、やがて、種族ごと絶滅してしまうものがあります。過去には恐竜がそうでしたし、現在では絶滅危惧種と呼ばれるものがそうです。

 自然界には繰り返しや循環が見られます。海が太陽によって熱せられると水蒸気が起こり、それが雲になります。雲が風に乗って陸地に進み、山にぶつかり、そこで雨となって降ります。山の水は川となって地を潤し、再び、海に戻っていきます。陽が沈み、一日が終わりますが、再び陽が上り、また別の日が繰り返されます。月が満ち、月が欠け、一ヶ月が繰り返されます。春が来て、夏になり、夏が過ぎて秋となり、やがて冬を迎えます。そして、また春となって1年が繰り返されます。そうした繰り返しは永遠に続くように見えます。それで、物事は、巡り巡って、繰り返し、それが永遠に続くのだと思われてきましたが、物事が繰り返されるのは、何百年、何千年という短い範囲内でのことに過ぎません。永遠ではないのです。そうした繰り返しが止まってしまうときがやってきます。世界は終わりに向かって進んでいるのです。

 イエスは、「世の終わり」について教えられた中で、「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます」(マタイ24:29)と言われました。今日の科学では、天体にも、誕生の時があり、死の時があることが知られています。「世の終わり」には、人類が歴史の中で築きあげてきたものが崩れ去り、人間の営みが終わるだけでなく、今まで恒久のものだと思われてきた天体、太陽、月、星さえも崩れ去り、被造物全体が大きな変化を遂げるというのです。「世の終わり」とは、私たちが今見ているものすべてが終わりを迎える時、まさに、それは「万物の終わり」の時なのです。

 二、万物の終わりに備える

 そうした「万物の終わり」が近づいていることは、皆さんも感じていることでしょう。イエスは、世の終わりの「しるし」、「前兆」、「前触れ」について、こう言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」(マタイ24:4-7)ルカ21:11では「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり」とあって、「疫病」にも触れておられます。「偽キリスト」、「戦争」、「飢饉」、「地震」、「疫病」などが世の終わりの「しるし」として挙げられていますが、今日、そうしたもののすべてが揃っています。私たちは2019年のパンデミックを経験しました。ウクライナやパレスチナで戦争が続いています。日本では、今年の元日に大きな地震が起こり、同じ地域を今度は大雨が襲いました。アメリカは、今年、雨が少なく、各地で山火事が起こっている一方、ハリケーンで住宅地が水浸しになったところもあります。そうしたことを見聞きするとき、「世の終わりが近い」ことをより一層感じます。

 では、「世の終わりが近い」ことを感じ、また、知ったなら、私たちはそれにどう備えればいいのでしょうか。SF映画でよくあるように、何月何日に、大きな天体が地球に衝突して、ほとんどの人が生き残れなくなると知ったら、人々はどうするでしょうか。ある人たちは、絶望のあまりみずから死を選ぶかもしれません。また、やけっぱちになって、自分が今まで出来なかったことをやり尽くそうとして、犯罪でも何でもやってしまうかもしれません。世界が狂乱状態になるでしょう。

 でも、「世の終わり」の日は、誰にも知らされてはいません。ハロルド・キャンピングという人が聖書の年代を計算して2011年5月21日に「世の終わり」が来ると予言しました。でも、その日には何も起こりませんでした。彼は、自分の間違いを認めましたが、それは、クリスチャンの信仰の証しを傷つけるものとなりました。「世の終わり」については、私たちには知らされていないことが多いのです。それなのに、現代の政治情勢と聖書の言葉を結びつけ、「世の終わり」に至るスケジュールを事細かに描いている人たちも多くいます。そうしたことは、いたずらに不安を掻き立て、混乱を与えるだけで、聖書の大切な教えを見失わせる危険があります。イエスが「人に惑わされないように気をつけなさい。…気をつけて、うろたえないようにしなさい」と言われたように、そうしものに振り回されないよう注意しましょう。

 「世の終わり」は、「今こそ、その時だ」と誰もが分かるときではなく、むしろ、多くの人が「まだまだ大丈夫」と安心しきっているときに、突然のようにしてやってくるのでしょう。ノアの洪水のとき、ノアは箱舟を作ってそれに備えましたが、不信仰な人々は、「洪水などあるものか」と安心しきって「食べたり飲んだりして」いたと聖書は語っています。そこに突然、洪水が押し寄せ、すべての人をさらってしまいました。イエスは、ノアの洪水を例に引き、「世の終わり」は、それに備えていない人には、突然やってくると言われ、「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから」(マタイ24:42)と言われました。

 イエスはさらに、「悪いしもべ」の譬えも話されました。主人がしばらくの間留守をするので、しもべの一人に、自分の代わりに他のしもべの世話をするように命じました。ところが、そのしもべは、主人が留守なのをいいことに、他のしもべたちを乱暴に扱い、酒飲みたちと「食べたり飲んだり」していました。ところが、主人が予定より早く、突然帰ってきました。この「悪いしもべ」は、悪事を働いたばかりでなく、主人の信頼を裏切ったため、厳しい刑罰を受けました(マタイ24:48-51)。

 ノアの洪水の話と「悪いしもべ」の話の、どちらにも「食べたり飲んだり」という言葉があります。これは必要な飲食のことではありません。贅沢な食べ物を揃え、酒をあおって、宴会騒ぎをすることを意味しています。中国の言葉に「酒池肉林」(しゅちにくりん)という言葉があります。司馬遷の『史記』に、「酒をもって池と為し、肉を縣けて林と為し」とあるところからとられたもので、度を過ごした酒宴のことを言います。俗に「ドンチャン騒ぎ」というものです。イエスは、「食べたり飲んだり」という言葉で、この世のものに溺れ、それに酔いつぶれていてはいけない。目を覚ましていなければならないと言われたのです。

 使徒パウロも、同じことを教えました。テサロニケ第一4:4-6にこうあります。「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」パウロもまた、「目を覚まし、身を慎んでいましょう」と教えています。

 そして、ペテロも、きょうの箇所で、パウロが使ったのと同じ「身を慎む」という言葉を使って「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と教えています。ここで、「心を整える」という言葉には、「正気である」、「しらふである」という意味があります。酒に酔っていない、正常な状態であることを言っています。これには、「思慮深い」、「慎み深い」という意味があり、「身を慎む」とほとんど同じ意味です。同じ意味の言葉を重ねることによって、神の前に、正しい心の状態、また、生活を保つべきことを強調しているのです。「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」とあるように、いつでも、心が神に向いていて、神に語り、神に聴く準備ができているようにと教えているのです。酒に酔いつぶれたり、それと似たような状態で、私たちは祈ることができるでしょうか。神に祈ることができなくて、どうして正しい生活ができるでしょうか。「万物の終わり」、「世の終わり」に臨んで、私たちに一番必要なことは、「目を覚まして祈る」こと、「祈りのために、心を整え身を慎む」ことなのです。

 三、永遠の始まり

 けれども、「身を慎む」と言われると、なんとなく窮屈さを感じるかもしれません。また、「世の終わり」、「万物の終わり」などと言われると、暗い気持ちになるかもしれませんが、それは、「世の終わり」が「神の国の始まり」であることを忘れているからです。「万物」の中にも、終わらないものがあるのです。確かに、すべて始まりのあるものには終わりがあります。しかし、始まりのないもの、永遠のものには終わりはありません。イザヤ40:8に「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」とあるように、神のことばは、永遠のものです。その約束、希望、力は永遠に続きます。イエスは「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35)と言われました。また、コリント第一13:13に、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」とあるように、信仰、希望、愛は万物とともに滅びません。永遠に続くのです。

 この世のものしか追い求めていない人にとっては、「世の終わり」は、その人の願望や目標の「終わり」なのでしょうが、信仰を持つ者には、「世の終わり」は、信じ、祈り求めていたことが成就し、実現する時です。それは、「この世」の苦しみ、悲しみ、憎しみ、孤独、病気、罪と死が「終わる」時で、それらに代わって、義と平和と喜びが支配する神の国が始まるのです。「世の終わり」や「万物の終わり」は、信仰の目で見れば、「終わり」ではなく、「始まり」です。一時的なものにすぎない「この世」が終わり、永遠の「神の国」が始まるときです。イエスを信じる私たちは、イエスの十字架によって罪を赦され、神のものとされました。イエスの復活によって永遠の命を与えられています。塵から造られ、塵に帰る者であったのに、「永遠のもの」にされたのです。私たちは「万物の終わり」とともに終わってしまうのでなく、永遠の国で、永遠の神とともに永遠を生きるのです。

 永遠の国がどんなものか、今は、すべてが明らかではありません。しかし、それが私たちの想像を超えて素晴らしいものであり、大きな恵みであることは確かです。ペテロ第一1:13に、「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と言っているように、その日は「イエス・キリストが現れる日」です。ですから、「身を慎む」とは、「万物の終わり」を恐れて、どこかに閉じこもるような消極的なことではありません。もっと積極的に、喜びにあふれて、イエスにお会いする日をワクワクしながら待ち望むことなのです。私たちは今はイエスを見ていませんが、イエスを信じ、受け入れて喜びのうちにいます。今でさえ、喜びに満たされているのですから、その日には、その喜びは頂点を迎えます。私たちはイエスにお会いし、イエスは私たちを永遠の御国に受け入れてくださいます。この希望に生きること、それが「心を整え身を慎む」ことなのです。

 (祈り)

 父なる神さま、きょうは、「世の終わり」に臨んでいる私たちに求められていること、「目を覚まし、心を整え、身を慎むこと」について学びました。この週、そうしたことについてさらに教え、導いてください。そして、私たちを御国に迎えるために再び来られるイエスを待ち焦がれる思いをもって、教えられたことを実行できますよう、助けてください。やがて、再び、栄光のうちに来られるイエス・キリストのお名前で祈ります。

11/10/2024