4:7 万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
4:8 何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。
4:9 不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。
4:10 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
4:11 語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。
一、賜物
日本で、一時、「カリスマ」という言葉が盛んに使われたことがあり、「カリスマ美容師」とか「カリスマ・シェフ」などと言われる人々が登場しました。その場合の「カリスマ」という言葉は、普通の人以上の能力や、人を惹きつける魅力という意味で使われていました。
しかし、「カリスマ」というのは、もともとは聖書の言葉で、ギリシャ語で「カリス」は「恵み」、「カリスマ」は「恵みの賜物」という意味です。「カリスマ」あるいは「賜物」というのは、神が、イエス・キリストを信じて、聖霊を受けた人々に、キリストの証人になるため、また、キリストのからだである教会を建て上げるためにお与えくださるものを言います。それは、一般に誤解されているように、決して超人的な能力や神がかったような状態をさすのではありません。
賜物はすべて聖霊を通して与えられるもの、つまり「聖霊の賜物」ですから、賜物を受けるには、まず、聖霊を賜物として受けていなければなりません。使徒2:38に「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」とあります。ここで言われている「聖霊の賜物」とは、新改訳聖書が「賜物としての聖霊」と訳しているように、神が信じる者に聖霊をギフトとしてくださるという意味です。イエス・キリストを信じ、聖霊を受けてはじめて、奉仕のための聖霊の賜物が与えられます。したがって、世の中でどんなに「カリスマ的」と呼ばれる人であっても、聖霊を持たない人は、聖書が言う「カリスマ」(賜物)を持っていません。しかし、イエス・キリストを信じる者は、ペテロ第一4:10に「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、…」とあるように、かならず、何らかの霊的、信仰的賜物が与えられています。そういう意味では、キリスト者は、また、キリスト者こそが、「カリスマ的」(な人)だということができます。
また、聖書でいう「賜物」は、生まれつきの才能や能力とは違います。才能や能力も、神から与えられたものですが、それは、その人自身に属します。ですから、人は、自分の才能を磨き、能力を発揮し、それを自分のために使ったり、社会のために役立てて、自己実現を図るのです。しかし、才能や能力だけでは、キリストの証人になることも、教会を建て上げることもできません。ボランティア活動はできても、神に仕える、ほんとうの奉仕はできないのです。
人は、賜物を受けて、はじめて、奉仕ができるようになります。賜物はその人の才能や能力とは別のものとして与えられます。才能や能力はその人自身のものですから、それをどう使うかはその人の自由に任せられています。しかし、賜物は神のものですから、キリスト者はそれを自分の思いどおりにすることは許されていません。10節に「神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである」とあるように、キリスト者は賜物の所有者ではなく管理者、それを用い、また、発展させていくスチュワードなのです。
聖書にある「賜物」とか「奉仕」という言葉を、一般に使われている意味で理解し、また使ったりしていると、大切な真理を見失ってしまいます。聖書の言葉は、聖書に書かれている通りに、きちんと理解し、使いたいと思います。
二、賜物のリスト
神が聖霊によって信仰者に与えてくださる賜物、それがどんなものであるかを知るために、賜物の具体的なリストを見てみましょう。
最初はコリント第一12:28です。「そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。」「使徒」、「預言者」、「教師」というのは、教会の中での職務のことですが、同時に、それはそれらの職務を果たす「賜物」をも意味します。つまり、「使徒の賜物」、「預言者の賜物」、「教師」の賜物があるということです。「奇蹟」や「いやし」の多くは使徒たちによって行われましたが、新約聖書の時代には、それ以外の人々にもそうした賜物が与えられていたようです。「補助者」、「管理者」というのも、教会の中での役割で、「補助」、「管理」という賜物もありました。最後に「異言」の賜物があげられおり、これは教会や個人の信仰の励ましのために用いられました。
コリント第一12章には八つの賜物があげられていましたが、ローマ12章には、もっと多くの賜物が挙げられています。ローマ12:6-8にこうあります。「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。」ここには、「預言」、「奉仕」、「教え」、「勧め」、「寄附」、「指導」、「慈善」という七つの賜物がありますが、これらは、使徒、預言者、教師といった特定の職務に結びついたものというよりは、教会のメンバーがそれぞれに自分の置かれた立場の中で、人を教えたり、導いたり、助けたりすることを言っています。聖霊の賜物は、「奇蹟」や「いやし」など、特別なことの中に表われるだけではなく、「補助」や「管理」、また「慈善」といった日常的なものの中にも表われるのです。
さらにもうひとつの賜物のリストは、イザヤ11:1-2にあります。「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」これは救い主に与えられる賜物を預言したものですが、救い主キリストに従う者たちも、与えられる賜物です。ここにある「知恵と悟り」「深慮と才能」「主を知る知識と主を恐れる霊」の六つに「主への愛」(Piety)が加えられたものは、「聖霊の七つの賜物」と呼ばれて、歴史を通して大切にされてきました。この箇所からは、聖霊の賜物が、教会の様々な働きや務めの中に働くだけではなく、信仰者の内面を強めて、奉仕をより良く果たさせるものでもあることが分かります。
聖霊の賜物のいくつかは御霊の実と重なっています。「愛」は、「御霊の実」の一番はじめにあげられているものですが、コリント第一13章では、「賜物」の中で最もすぐれたもの、キリスト者が追い求めるべきものであるとされています。現代は、目に見えるものだけに心を奪われやすい時代ですので、信仰者の内面に働く賜物も忘れないようにし、そうしたものをも熱心に祈り求めていきたいと思います。
三、賜物と奉仕
ペテロ第一4:11もある意味で、賜物のリストです。「語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。」ここでは、様々な賜物を、御言葉にかかわる賜物と、それを支える奉仕を果たす賜物のふたつにまとめています。
御言葉は霊的なものですから、御言葉にかかわる奉仕が聖霊の賜物によってなされることは、良く分かります。では、それ以外の奉仕は、聖霊の賜物によらなくてもできるのでしょうか。また、御言葉の学びや信仰の訓練は、そのような奉仕のためには不必要なのでしょうか。決してそうではありません。
使徒6章に、やもめたちへの配給のことで教会にトラブルが起こったとき、使徒たちは、「御言葉の奉仕」に専念するため、「食卓の奉仕」にたずさわる七人の人々を選ばせました。やもたちへの配給をきちんとするだけなら、事務処理の能力のすぐれた人を選べばよかったでしょう。ヘブル語を話す人たちとギリシャ語を話す人たちのコミュニケーションを改善するだけなら、両方の言葉に長けている人を選べばそれで済んだのかもしれません。しかし、この七人に求められたのは、「聖霊と知恵と信仰とに満ちていること」(使徒6:3, 5)でした。「食卓の奉仕」であっても、教会の霊的な問題を見極める知恵、そのために祈り、聖霊の導きを受けて働くことのできる信仰が求められたのです。それは、今日の私たちの教会でも同じです。
よく、社会的地位のある人が、教会でも指導的な立場に立てばよいと考えられがちですが、わたしの経験では、その人に社会的地位があるからとか、能力があるからというだけで、教会でも良い働きができたということは、あまりありませんでした。学校の先生だから、サンデースクールでも良い教師になれるとはかぎりませんでした。もちろん、社会的立場のある人が聖霊の賜物を豊かに与えられていたなら、それは素晴らしいことです。そういう例も見てきましたが、多くの場合は、ごく普通の人たちが、立派に教会の執事の奉仕をしてきたのを見てきました。その多くは、奉仕を通してさらに豊かな賜物を与えられ、より良い奉仕へと導かれて行きました。
聖霊は生きておられるお方です。聖霊の賜物は決して固定したものではありません。聖霊は奉仕を通して与えられた賜物を成長させてくださいます。ひとつの奉仕をやり遂げたなら、次の奉仕のために、さらに豊かな賜物を与えてくださいます。賜物をもって奉仕し、奉仕を通して賜物を受けるのです。信仰をもって賜物を求めましょう。
わたしは、教会が、賜物豊かなところとなるように願っています。しかし、それは、才能豊かな人、能力のある人が教会に多く集まるようにということではありません。教会の奉仕の目的は、イエス・キリストを宣べ伝え、教会をキリストのからだとして築きあげていくことです。たとえ、それが直接御言葉を語ることでなくても、どの奉仕も霊的なこと、信仰のことがらです。それらは決して人間的なものでできるものではありません。もし、人間的なものでやろうとしたら、そこには人間のレベルのものしか生まれません。教会の働きは、世の中の仕事のように才能や能力でなされるものではなく、賜物によってなされるものです。どの奉仕にあずかる人も、御言葉を学び、信仰を養い、その奉仕を、信仰と賜物によって果たしていかなければならないのです。
もし、教会の働きが人間の能力や才能でなされるとしたら、そこには、人間の誇りや自己満足が入り込んできます。「奉仕の場が与えられないから」といって教会を転々としていた人がいました。その人と話しているうちに、その人が、主に仕え、教会の必要を満たすためにではなくて、自分の才能を発揮する場を求めていたことが分かってきました。その人にとって、教会はたんなる活動の場、自己実現の場でしかなかったのです。神の働きを才能や能力でしようとした場合、表面的には何かをしているように見えますが、それは、決して神の目的につながってはいきません。ほんとうの奉仕は、それがどんなにちいさいと思える奉仕であっても、賜物を求め、信仰と賜物によってなされるのでなければ、決して実を結ぶことはありません。
きょうの箇所は厳かな言葉で結ばれています。「それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。」どんな賜物も、奉仕も、すべは神の栄光のためにあります。モーセやイザヤ、ペテロやパウロなど、賜物を与えれ、奉仕に召された人々はみな、神の栄光に出会い、神の栄光を追い求めました。わたしたちも、そのようでありたいと思います。与えられた賜物をもって主に栄光をお返し、奉仕をささげたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、すべてのキリスト者に、一人残らず、賜物をお与えくださいました。どうぞ、わたしたちをあなたの賜物の忠実な管理者としてください。そして、どんな奉仕においても、自分のためにではなく、神の栄光のために務めるものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/23/2017