創造者への信仰

ペテロ第一4:17-19

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4:17 さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。
4:18 「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」
4:19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。

 一、創造者である神

 新島 襄といえば、のちに同志社大学となる同志社英学校の創立者として知られているです。彼は、ペリーが率いるアメリカの船団が浦賀にや来て、日本に開港と通商を迫った、あの「黒船到来」(1853年6月3日)を契機にアメリカに興味を持つようになりました。そして、アメリカ人の信仰の拠り所となっている聖書を読みたいと思い、漢語の聖書を手に入れました。新島は、その冒頭、創世記1章1節の「元始めに神、天と地を創造りたまえり」という言葉に衝撃を受けました。日本では、人々は山や森、木や石、また動物などを神々としてあがめてきました。ところが、聖書は、それらは神ではなく、神に造られたものに過ぎないと言っているのです。それまで造られたものを神々としてきた新島は、聖書によって、すべてのものの創造者である神を知るようになりました。

 日本の主神は「天照大神」で、太陽ですが、太陽や天体を神とするのは、日本だけではありません。聖書に関わり深い古代のエジプトやバビロニアでもそうでした。中国では星が国家や個人の命運を司るとされてきました。ところが、聖書は天体について、「神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせた」(創世記1:17)と書いています。まるで壁に額を飾るように、天に太陽、月、星を配置されたというのです。創世記は、こうした表現によって、神の知恵、力を描いているのです。

 創世記には、「経緯」、あるいは「系図」(口語訳)という言葉が繰り返し出ていて、それが、創世記の区分となっています。「トールドット」というヘブライ語ですが、それが最初に出てくるのが創世記2:4です。「これは、天と地が創造されたときの経緯である」とあります。次が創世記5:1で、「これはアダムの歴史の記録である」とあって、新改訳では「系図」の代わりに「歴史」と訳されています。アダム以降、「ノアの歴史」、「テラの歴史」、「イサクの歴史」、「ヤコブの歴史」などと続きます。ところが創世記一章は、創世記2:4の「創造の経緯」の中にではなく、その外側に置かれています。それは、創世記一章がこの世界がどのようにして造られ、今日のような姿になったかについて、事細かな「経緯」を伝え、説明するためというよりは、世界を造られた神の知恵や力、また、神の世界に対するいつくしみを伝えるために書かれたことを示しています。

 また創世記一章は二章以降とは違った文体、詩の文体で書かれています。「創造」そのものより「創造者」である神に焦点を合わせ、神の偉大な栄光をほめたたえる賛歌として書かれたと言って良いでしょう。それは、詩篇と共通したものです。詩篇19は「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」と歌い、「神は天に太陽のために幕屋を設けられた」と歌っています。詩篇33には、「主のことばによって 天は造られた。天の万象もすべて御口の息吹によって」とあり、創世記一章は詩篇と同じように、世界を造られた神をほめたたえているのです。

 二、創造者の知恵

 聖書は科学の教科書ではありませんから、「花婿のように 太陽は部屋から出て、勇士のように走路を喜び走る。天の果てからそれは昇り、天の果てまでそれは巡る。その熱から隠れ得るものは何もない」(詩篇19:5-6)と詩篇に書かれているから「聖書は天動説を教えているから間違っている」などと言う人は誰もいません。地上から見ると太陽が動いているように見えますが、本当は地球のほうが太陽を回っています。しかし、日常では「日が昇り」、「日が沈む」と表現します。ですから、聖書を読むときには、科学の記述と文学の表現は違っていることをわきまえる必要があります。

 では、創世記の創造の記事は、科学的な根拠が全くないものでしょうか。そうではありません。むしろ、科学の発達によって、創世記がたんなる古代の「起源物語」のひとつではないことが分かるようになりました。どこの国にも「起源物語」があって、どのようにして世界ができたか、民族が生まれたかという神話があります。日本にはイザナギ、イザナミの「国産み」と「神産み」の神話があります。他の国々には神々が争い、妬み、殺し合って、殺した神々の体や血から世界や人間ができたという神話があります。そうした神話では、世界は無秩序で偶然にできたものと考えられています。ところが聖書は、さまざまな神話が信じられていた時代に、世界は神が、その知恵と力によって秩序をもって造られたと語っているのです。そして、科学は、この世界にある秩序と法則を発見してそれを数式で表し、多くの人がそれを利用することができるようにしてきたのです。もし、世界が、神話が言うようにして出来たものなら、今日の科学は生まれなかったのです。

 創世記は「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった」と言い、詩篇33:6には、「主のことばによって 天は造られた。天の万象もすべて 御口の息吹によって」とあります。神は「ことば」によって世界を創造されたと言っています。これは現代の科学にみごとに一致します。私はすこしばかりコンピュータのプログラミングをしますが、コンピュータは、プログラムによって動いています。コンピュタにはキーボードがあり、ディスプレーがあります。キーボードの下には計算装置や記憶装置、表示装置などが基盤のうえに所狭しと取り付けられています。こうしたものをハードウェアといいます。しかし、ハードウェアが正常に動作しても、コンピュータはどんな働きもしないのです。ハードウェアに命令を与えて、はじめて、コンピュータは結果を出すのです。

 その命令を作る作業をプログラミングといいます。コンピュータが理解できるのは、 “On” か “OFF”、あるいは「1」か「0」かの信号でしかありません。その信号の組み合わせでプログラムを書くことは不可能ですので、人間が見て分かるようなプログラムの書き方が生まれました。それを「プログラミング言語」と言うのですが、それは「言語」ですから、語彙があり文法があり、書式があるのです。私は最初に「C 言語」を習いましたが、今おもに使っているのは Perl や Python という「プログラミング言語」です。ハードウェアであるコンピュータを動かしているのはプログラミングされたソフトウェアです。そしてそのプログラムは「プログラミング言語」という「ことば」で造られているのです。IT (Information Technology) にかかわる人であれば、だれでも、世界が神の「ことば」で造られたことに頷くことができると思います。

 コンピュータのプログラミングをするときには、最初に大きな枠組みをつくり、それからそれぞれの枠組みを満たしていくものを作っていきます。創世記は、じつは、神もまた、そうした手法で世界を創造されたと教えています。創世記は神が六日の間に世界を造られたと言っていますが、じつは、最初の三日と残りの三日には見事な対比があります。表にしてみましょう。

第一日 光とやみ   第四日 太陽・月・星
第二日 空と海    第五日 鳥と水性生物
第三日 地と植物   第六日 家畜・野性生物・人間
最初の三日に枠組みがつくられ、残りの三日に、それを満たすものが、それぞれに対応して造られているのです。

 枠組みが先につくられるのは、建築でも同じです。家を建てるときは、まず設計図が作られます。次にそれにしたがって、フレームを作ります。それから外装、内装へと進み、家具などが運び込まれ、最後にそこで人が住んだり、働いたりするのです。

 こうしたことから分かることは、世界が決して偶然に、無秩序にできたものではないということです。それは神によって、目的をもって設計されたものです。科学は、私たちにこの世界がどんなに緻密に設計されたものであるかを教えてくれます。多くの科学者は、神の創造の見事さをたたえています。アインシュタインは「私が信じてるのは、この宇宙がとてつもなく素晴らしいということだ。こんなものを創れるのは神しかいない」と言いました。

 実際に宇宙に出て地球を見た人たちは、それによって人生観が変わったと言っています。アポロ15号の飛行士だったジム・アーウィンはこう言っています。「宇宙飛行までは、私の信仰は人並み程度のものでした。それと同時に、神の存在に人並み程度の疑念も持っていました。しかし宇宙飛行によって、それらの懐疑は吹き飛びました。神がそこにいるということが如実に分かるのです。こんな精神的な内的変化に私自身も驚きました。…神がそこに在るのが分かり、パーソナルな関係の中で語り合ったのです。…姿が見えないことの方がおかしくて、私は振り返って神のすがたを探したほどでした。」

 日本の宇宙飛行士油井亀美也さんも「私は特定の宗教を信じない、典型的な日本人ですが、宇宙から地球を見たときに、その美しさに、神様というのはいるのかもしれないと思ったほどです」と言っています。確かに、造られたものは造り主を証ししているのです。創造の秩序は科学で探求できすが、しかし、創造が伝える神のみこころは科学の力で聞くことはできません。それは信仰によるしかないのです。

 三、創造者への信頼

 聖書は、いたるところで、この世界が神によって造られたこと、神が創造者であることを教えています。そして、「神は世界の創造者であるから人を守り、導き、救うことができる。この神に信頼せよ」と呼びかけています。特に苦しみにあった時に、神が創造者であることを覚えることは、心強いことです。国を失い絶望のどん底にあったイスラエルの人々に神は、イザヤの口を通してこう言われました。「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。』」(イザヤ書43:1)神は創造者であるからこそ、私たちの贖い主、また救い主であることができるのです。

 ペテロはその手紙で迫り来る迫害を預言し、キリスト者に勧めました。「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」この勧めの言葉はペテロの実際の体験に基づいています。ペテロは最初に受けた迫害で、ユダヤの議会に引き出され、尋問を受け、強迫されました。ペテロは釈放された後、弟子たちが集まっているところに行き、事の次第を報告しました。すると一同は「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です」(使徒4:24)と、心を一つにし、声を上げて祈りはじめました。この祈りは、「私たちは創造者である神を信じます。被造物を恐れません」との祈りでした。神が創造者であるなら、神以外のものは、すべて被造物です。そして、被造物は創造者である神に対して、なんの力もないのです。パウロがこう言っている通りです。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)

 「私は天と地の創造者を信じ、このお方に信頼します。」この信仰によって、私たちは、困難や苦しみをも乗り越えてこの世を生きることができるのです。

 (祈り)

 天と地の創造者、イエス・キリストの父なる神さま。天地はまことにあなたの作品です。その作品が証しするものでさえ、私たちの目をあなたに向けさせ、私たちを励ますとしたら、あなたの直接のおことばは、私たちに、あなたが創造者であることと、被造物である私たちに対して持っておられるみこころをどんなに確かに知らせてくれることでしょうか。あなたのおことばによって、みこころを知り、あなたを拠り所とし、自らをあなたに委ねることができるよう、導き、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/20/2019