委ねる幸い

ペテロ第一4:17-19

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4:17 さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
4:18 また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
4:19 だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。

 ペテロの手紙第一は、試練の中にあるクリスチャンを励ますために書かれました。4:12-13では、キリストのために苦しむk苦しみは、キリストとともに苦しむ苦しみなのだから、それを喜びなさいと教えられていました。続く4:14-16ではキリストの名のゆえに、また「クリスチャン」という名のゆえに苦しむことは、幸いなことなのだから、それによって「神をあがめなさい」と教えられていました。では、きょうの箇所、17-19節は、苦しみの意味について何を教え、信仰者が苦しみにあうとき、どうすれば良いと教えているのでしょうか。

 一、裁きと救い

 きょうの箇所、4:17-19は「裁き」という言葉ではじまっています。信仰者が受ける苦しみは神の「裁き」だというのです。しかし、ここでいう「裁き」は、「刑罰」という意味ではありません。ここでいわれている「裁き」は、神が混乱した世界をただし、「みこころが天で行われるように地でもおこなわれる」世界へと造りかえてくださる御業を指します。そのために、神は、罪や悪など、人と世界の害となるものを取り除かれます。それが「裁き」ですが、それは、罪や悪に苦しめられている人には「救い」となるのです。テサロニケ第二1:6-7に「すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さる」とある通りです。聖書は、「裁き」は救いの一部分であって、「裁き」がなければ「救い」は無く、「救い」なしには「裁き」は無いと教えています。

 考えて見てください。「救い」というのは、人が受けている苦しみから助け出されることなのですが、そのためには、人を苦しめているものが「裁かれ」なければなりません。苦しめられている者の「救い」のためには、苦しめている者への「裁き」がかならず伴うのです。日本の時代劇には、悪代官が悪徳商人と結託して庶民を苦しめるという物語があります。しかし、そこに、水戸黄門や大岡越前などが現われて、悪代官や悪徳商人が懲らしめられ、庶民が救われるというものです。現実には、小説やドラマのように悪者がやっつけられることはあまりありませんので、人々は、せめてドラマの世界だけでも、悪者がやっつけられるのを見届けてほっとするのです。このように、苦しめる者が裁かれて、はじめて苦しめられている者は救いを得るのです。「裁き」がなければ「救い」は無いということを分かっていただけたと思います。

 では、「救い」なしには「裁き」は無いというのはどういうことでしょうか。罪ある人間は、神の正義に照らせば、審判を受けても、何の申立てをする権利もありません。しかし、神は、人を愛して、「裁き」の前に「救い」を提供してくださいました。神は、イエスを審判者としてではなく、まず、救い主として世に遣わしてくださいました。神は、ひとりも滅びず、救われるよう願っておられ、救いのメッセージ、「福音」を与えてくださいました。神は、人への愛と、この世界へのあわれみのゆえに、最終的な「裁き」の時を伸ばしに、伸ばして、今も「救い」の道を示し続けておられるのです(ペテロ第二3:9)。「救い」なしに「裁き」は無いというのは、神が人間に救いを提供なさらないで、裁かれることはないという意味です。人が「裁かれ」「滅びる」ことがあるなら、それは、神によってというよりは、備えられている「救い」を選ばす、自ら「裁き」を選び、「滅び」を選んだといっても良いのです。

 こんな話があります。大雨の時に増水する川のそばに自分の家を建てた一人の男がいました。彼は、川が増水すれば家は洪水にあうという警告を知っていてそうしました。「わたしの家だけは大丈夫」と考えたのです。ある日雨が降りました。その川は水かさが増し彼の家は洪水にあいました。ボートが通りかかり、ボートを漕いでいる人が、彼を岸に連れていってあげると申し出ました。しかし、彼は「まだ大丈夫」と言って、その申し出に答えませんでした。その後、彼は家の屋根の上に登りました。モーターボートが通りかかり、それを運転している人が助けてあげようと言ってくれました。しかし、彼は「まだ大丈夫」と言って、その救助を受けいれませんでした。水かさが高くなり、彼は煙突に登りました。ヘリコプターのパイロットが頭上を旋回しながら、下にいる彼に屋根から彼を吊り上げてあげようと申し出ました。彼は答えました。「まだ大丈夫です。」救助を拒んだ彼は、水に飲まれてしまいました。

 この男に、ボート、モーターボートそしてヘリコプターなどの救助の手がさしのばされたように、神は、すべての人に、さまざまな方法で、救いの手を差し伸ばしておられるのです。わたしたちは、自分で自分を救うことができないのですから、神が備えてくださった「救い」にすがるしかないのです。川の側に家をたてた男は、警告を無視し、救助を拒んで自滅しましたが、わたしたちも、神の警告を無視したり、愛の招きを拒んだり、救いの手を斥けるようなことがないようにしたいと思います。差し伸ばしてくださっている救いの手に、わたしたちも手を差し伸ばしましょう。

 二、裁きとクリスチャン

 さて、17節は「さばきが神の家から始められる」と言っていますが、これはどういう意味でしょうか。この箇所の「神の家」は「教会」のこと、また、その構成員である「クリスチャン」のことです。「さばきが神の家から始められる」というのは、イエス・キリストを信じる者であっても、最後の審判のとき罪に定められる可能性があるということでしょうか。もし、そうなら、それは「彼(イエス・キリスト)を信じる者は、さばかれない」(ヨハネ3:18)という言葉と矛盾します。ここでいわれている「裁き」は、最終的な審判のことではなく、神が、信仰者をみこころにかなったものに造りかえ、世界を回復させるための御業をさしています。神が、この世界を回復されるのに、まず、ご自分の家、ご自分の民からはじめるのは当然です。神は、主イエスが宮きよめをなさったように、教会からこの世のものを追い払い、クリスチャンをキリストの姿に似たものとするため、不要なものを削り落とそうとされます。それによって、教会はきよめられ、クリスチャンが整えられるのです。そして、教会がきよめられ、クリスチャンが信仰を強められるとき、福音がよりいっそう力強く宣べ伝えられ、それが世界の救いとなるのです。

 神は教会をきよめ、信仰者を整えるために、試練をお用いになります。それは、ペテロの時代も、今もかわりません。初代の教会にあのような迫害の試練が必要だったとしたら、今の時代はもっとそうかもしれません。初代教会の信仰は今にいたるまで引き継がれており、真実にイエス・キリストを信じ、従う人々は、いつの時代にも絶えることがありませんでした。しかし、世の終わりには、「神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者」(テモテ第二3:4-5)などが増えると預言されています。21世紀に入って、多くの教会がイエス・キリストが望んでおられる姿とは違ったものになり、多くのクリスチャンがキリストの姿とは違った者になっているように思います。しかし、神は教会を見捨てず、クリスチャンをいつしんでくださっています。そんな時代であっても、いや、そんな時代だからこそ、教会をきよめ、クリスチャンを整えようとしておられます。教会が本来の教会の姿に立ち返ろうとするとき、かならず困難にぶつかり、クリスチャンが本気でキリストに従おうとすると、思わぬ試練に出会うことでしょう。しかし、その試練によって、教会もクリスチャンも神のみこころにそったものになることができるのです。

 試練は、教会がきよめられ、信仰者が整えられるために必要なものです。しかし、神が試練をお与えになるのがお好きで、やたらめったそれをお与えになると考えてはなりません。神が信仰者に試練をお与えになるときは、神ご自身もまた、痛みを感じ、苦しみを覚えておられるのだということを知っていてください。神は、それなしには、信仰者がきよめられ、整えられることがないときに限り、信仰者とともに苦しむ覚悟をもって試練をお与えになるのです。「裁き」や「試練」といった言葉の中にも神の深い愛が含まれています。そのとき、わたしたちは、試練の痛みや苦しみがかならず、喜びにかわり、栄光にかわると信じることができるようになるのです。

 三、裁きと信頼

 では、試練の中で、信仰者はどうしたら良いのでしょうか。ここには、ふたつのことが教えられています。ひとつは、「真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねる」こと、もうひとつは、「善を行う」ことです。

 「委ねる」というのは、信頼のうちに身を任せることです。それが「救い」になるのだと分かっていても、神からの試練が、自分への「裁き」のように厳しく感じられるとき、人は、「もうだめだ。もっと悪いことが起こる。わたしはこれに耐えられない」などと、絶望したり、不満を言ったり、自暴自棄になったりするものです。あるいは、苦しみから逃れようと、自分の力でジタバタして、結局、エネルギーを使い果たし、疲れ果てて落ち込んでしまうこともあります。

 試練を受けたとき、わたしたちがしなければならないことは、試練をお与えになる神に背を向けるのでなく、むしろ、そのふところに飛び込んで、神に身を任せるということです。聖書にも、歴史にも、そのようにして試練を乗り越えた信仰者たちが大勢いて、その模範に倣うことができます。しかし、それらの模範以上に素晴らしいのは、主イエスご自身の模範です。ペテロ第一2:22-23にこうあります。「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」主イエスが父なる神にすべてを委ねられたように、わたしたちも試練の時には、「真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだね」たいと思います。

 そして、たとえ試練の時であっても「善を行う」ことをやめないようにしたいと思います。人は、社会から差別されたり、疎外されたりするとき、社会をうとましく思ったり、社会に背を向けたりすることがあります。人々のために一所懸命やってきたのに、それに報われないどころか、かえって痛い目にあわされたりすると、それが怒りや恨みとなって、反社会的な行動に走ってしまうことがあります。また、それがそれが大きな失望となってみずから命を絶ってしまうこともあります。若い人の中にも、ある程度の年齢になった人の中でも、そういうことが、なんと多くあることでしょうか。

 しかし、信仰者は、たとえ社会から、あるいは親族、家族、また特定のグループから排斥され、苦しめられたとしても、なお、隣人を愛し、自分の置かれたところで責任を果たし、神が行なうようにとお与えくださった善を行い続けていきます。詩篇37:3に「主に信頼して善を行え」と教えられているからです。「主に信頼して善を行え。」これはいつの時代、どんな状況にあるクリスチャンに対しても、神が望んでおられることです。これは、試練の痛み、苦しみの中にあっても、忘れてはならないことだと思います。こうした日常の一歩一歩の歩みによって、信仰者の苦しみは喜びになり、試練が栄光にかわのです。そして、それが人々に救い主を証しし、世界の救いへとつながっていくのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたがみこころに従ってお与えくださる苦しみを、正しく受け止める信仰をわたしたちにお与えください。その中で、あなたに信頼し、この世に善を与え続けることができるわたしたちとしてください。苦難の中ですべてをあなたにお委ねになった主イエスのお名前で祈ります。

8/20/2017