4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
4:13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
4:14 もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
“The Day After Tomorrow” という映画があります。人々が地球温暖化を心配していた時、突如としてアメリカが大寒波に襲われるというものです。それを予測した気象学者の息子と何人かが図書館に逃げ込み、本を燃やして暖をとるシーンがあります。聖書を燃やそうとしたら、そこにいた一人が「聖書だけは燃やさないでくれ」と言い出し、こう続けました。「自分は信仰心はないが、聖書は人類の文明の基礎であり、アメリカの拠り所だから、大切にしたいのだ。」
確かに、クリスチャンであるなしにかかわらず、誰もが聖書を「人類史上最高の書物」と考えています。それは歴史資料として最も信頼できるものですし、文学としても優れたもので、聖書からどんなに多くの文学作品が生まれ、絵画や彫像、映像などの芸術作品が作られてきたかは言うまでもありません。聖書はあらゆる学問に基礎を与えるものであり、今日の社会は聖書の教えによって築かれ、保たれてきました。
けれども、私たちがふだん聖書を読むのは、学問のためでも、芸術のためでも、社会のためにでもありません。聖書から励し、慰め、癒やし、力を得、毎日の生活の中で出会うさまざまな問題に対して知恵や導きを得るためです。今月は、使徒ペテロが書いた手紙、「ペテロの手紙第一」が扱っているいくつかの主題をとりあげることにしていますが、まず初めに「苦しみ」についてとりあげます。といいますのは、この手紙は信仰ゆえに苦しみに遭っているクリスチャンを励ますために書かれたもので、第1章から第5章のすべてに苦しむ人への慰めや励ましの言葉が繰り返されているからです。
一、人生の苦しみ
「苦しみ」、それはどの時代のどんな人にも共通した課題で、「苦しみ」に関して、様々な教えが生まれました。釈尊は人生には苦しみがつきもので、誰にも「生」、「老」、「病」、「死」の四つ苦しみがあると教えました。生まれるも苦、老いるも苦、病むも苦、死も苦ということです。それに加えて「愛別離苦(あいべつりく)」、「怨憎会苦(おんぞうえく)」、「求不得苦(ぐふとっく)」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の苦しみもあります。「愛別離苦」と「怨憎会苦」は、愛する人と別れる苦しみと憎らしい人と出会う苦しみのことです。「求不得苦」と「五蘊盛苦」は、求めても得られない苦しみと多くの物を持ちすぎる苦しみのことを言っています。最初の四つの苦しみに、もう四つの苦しみが加わって、人生には八つの苦しみがあるというのです。ここから、「四苦八苦」という言葉が生まれました。こうした苦しみは「煩悩」と呼ばれる執着心から生まれます。だから、それを捨てて、正しい物の考え方と正しい生活に励まなければならないというのが、仏教の教えです。
仏教はインドで生まれ、中国、韓国をへて日本に伝えられました。日本では仏教は先祖崇拝と結びついて、死者を葬り、先祖を供養するものになってしまいましたが、それでも、仏教的な考え方は人々の心に根深く残っています。「だんな様」、「坊っちゃん」、「普請」、「玄関」、「蒲団」、「縁起」、「因果」、「迷惑」、「愚痴」、「安心」、「有頂天」、「未曾有」など数多くの仏教用語を、知らず知らずのうちに使い、私たちは仏教的な考え方、生き方をしてきました。
仏教の出発点は「苦しみ」です。ですから、日本人に信仰の話をするときには、「苦しみ」の問題から話しはじめるとよいと言われていますが、日本人にかぎらず、どの国のどんな人でも、苦しみのない人など誰もいないわけですから、なぜ世の中には苦しみがあるのか、正しい人さえ苦しむのはなぜなのか、どうしたら苦しみから救われるのかを一緒に考えることから、人々にイエス・キリストを証しすることができると思います。
さまざまな宗教や思想がそれぞれの仕方で苦しみについて説明してはいますが、苦しみからの救いや、苦しみの中での助けは与えてはくれません。仏教の教えでは、結局のところ、自分自身の悟りや努力によって、自分で自分を救わなければならないのです。つまり、苦しみについての「解説」はあっても、そこからの「解決」はないのです。
先月フロリダに上陸したハリケーンによって、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア、テネシーなどで大きな被害が出ました。亡くなられた方は数百人になるだろうと言われています。愛する人を亡くし、住む家を奪われ、水も電気もない日々を送っている人に対し、なぜ、こんな大きな被害が出たのかを分析し、解説しても何の救いにもなりません。それで苦しみが和らぐわけではありません。苦しむ人に必要なのは、苦しみについての「解説」ではなく、「解決」です。聖書は、人生の苦しみがどこから来て、どんな目的があるのかを教えていますが、重点はそこにはありません。聖書は苦しみについての「解説」ではなく、その「解決」を教え、示すものです。
二、苦しみの解決
では、聖書が示す「解決」は「どこ」にあるのでしょうか。正確に言えば「誰」にあるのでしょうか。人は「理論」によっては苦しみから救われませんし、「方法」によっても救われません。こうしたらよい、ああしたらよいと言われてもそれができないので余計に苦しむのです。苦しむ人に必要なのは、その苦しみを理解してくれる人、その苦しみを共に苦しんでくれる人、そして、苦しみから救い出してくれる人です。その人とは、イエス・キリストです。
日本では、2011年、東日本大震災以来、災害ボランティア活動が組織的に行われるようになりました。石川県能登半島は1月の地震に続いて、9月には水害に見舞われましたが、ボランティアの人々が、浸水した家から家具を運び出し、泥を掻き出すなどの作業をしていました。地方に行くほど高齢者が多くなり、高齢の人たちにそんな重労働ができるわけがありません。ボランティアが、泥まみれになりならがらも、被災者に代わって働いている姿や、その働きに被災者が感謝している様子が、ニュースで映し出されていました。
私はそれを見て、イエスを思いました。イエス・キリストも同じように、いや、人間のボランティア以上に、泥まみれ、血まみれになって、苦しむ者の救いのために働いてくださったのです。イエスは「苦しみ」について教えるためにではなく、苦しむ者と共に苦しむために来られ、苦しむ者に寄り添ってくださいます。しかし、同情だけでは、人は苦しみから救われることはありません。苦しみの背後には罪とその結果である死があります。イエスはたんなる「同情者」としてでなく、罪と死を解決するために、私たちが受けなければならなかったもっと大きな苦しみを、私たちに代わって受ける、罪のための犠牲、贖いとなるため、世に来てくださいました。
それがイエスの十字架です。イエスが十字架にかけられたとき、人々は嘲って言いました。「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27:40)確かに、イエスは、十字架から降りて、自分を救うことができました。しかし、イエスは、この世で最も残酷な十字架刑の苦しみを最後まで、死に至るまで受けてくださいました。それは、私たちに代わって罪の刑罰を受け、私たちを罪と死から救うためでした。イエスは自ら苦しまれることによって私たちをあらゆる苦しみから救い出すお方となられたのです。
ペテロの手紙第一2:22-25には、そのことが次のように書かれています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」私たちのために死なれたお方だけが、私たちを生かすことができます。私たちのために傷を受けたお方だけが、私たちを癒やすのです。私たちのために苦しまれたお方だけが私たちを苦しみから救ってくださるのです。苦しみからの救い、苦しみの解決は、このお方、イエス・キリストにあります。
誰でも、この救い主を呼び求める者は救われます。難しい理論をマスターすることでも、悟りを開くことでも、修行に励むことでも、善行を積むことによってでもありません。ただ「救ってください」、「助けてください」と、救い主を呼ぶことによってです。今では、船舶や航空機に緊急事態が発生したときには “Mayday” と言って助けを求めますが、かつては、“SOS” でした。モールス信号で「トントントン・ツーツーツー・トントントン」です。SOS は “Save Our Souls” の略です。「私たちのたましいを救ってください」という意味です。私たちは、さまざまな苦しみから救われる以前に、たましいの救いを得ていなければなりません。神から離れて罪ある者となった、その罪が赦され、再び「たましいの牧者」である神のものとに帰る必要があります。
神は、そうした者たちに約束しておられます。「彼がわたしを呼び求めれば/わたしは彼に答える。/わたしは苦しみのときに彼とともにいて/彼を救い 彼に誉れを与える。」(詩篇91:15)そして、「この苦しむ者が呼ぶと 主は聞かれ/すべての苦難から救ってくださった」(詩篇34:6)との証しが聖書にあります。主が助けを求めて呼ぶ者に答えてくださることをしっかり覚えていましょう。苦しみの日には、そのことを思い出して、主に救いを呼び求めましょう。
三、苦しみから栄光へ
たいてい、苦しみは突然やってきます。一番つらいものは愛する者を失くすことでしょう。健康を損ねたり、経済的に困窮すること、また、犯罪に巻き込まれたり、自然災害にあったりといった苦しみも大きなもので、それらは、思いがけないときにやってきます。そんなとき、私たちは慌ててしまい、もっと悪いことが起こるのではないかと不安になります。「なぜこんなことが起こったのだろう。神は私を見捨てられたのだろうか」などと、神の愛を見失ってしまうことがあるかもしれません。それで12節ではこう言われています。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」慌ててはいけない、恐れてはいけない、疑ってはいけないと言われています。慌て、恐れ、疑うことによって苦しみが何倍にもなるからです。
続く13節では「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです」と言われています。苦しみは苦しみで終わらない、やがて「キリストの栄光」が苦しみにとって代わるようになる。「苦難」と「栄光」、「悲しみ」と「喜び」は正反対のものですが、神は「苦しみ」を逆転して「栄光」に変えてくださると、ここで約束されているのです。
しかも、その約束は将来、天で成就するだけでなく、今、この地上でも、聖霊によって体験できるのです。14節にこうあります。「もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」ここで、聖霊は「栄光の御霊」と呼ばれています。それは、聖霊が私たちを苦難から栄光へと導いてくださるという意味です。ペテロの手紙で言われている「苦しみ」は信仰者たちが受けた迫害による苦しみのことですが、それ以外の、どんな苦しみであっても、神は、神に頼る者に、同じように聖霊による助けを体験させてくださいます。
苦しみの日には、ひたすらに救いを祈り求めましょう。苦しみの日に、すぐに救いと助けを願い求め、それを受け取ることができるよう、日々に神により頼み、備えていたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、恵み深いあなたは、私たちの「苦しみ」に目をとめ、御子イエス・キリストを救い主として世に送ってくださいました。イエスが十字架の苦しみから復活の栄光へと進まれたように、私たちの苦しみもまた、栄光に変わると約束してくださいました。あなたはさらに聖霊を私たちの助け主として遣わしてくださいました。御霊の助けにより、苦しみの中でもあなたの栄光を仰ぎ見て、喜びを取り戻すことができるよう、私たちを助けてください。主イエスのお名前で祈ります。
10/6/2024