御名をあがめる

ペテロ第一4:12-16

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4:12 愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
4:14 キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。
4:15 あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
4:16 しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。

 きょうは「主の祈り」の第一の願い、「御名をあがめさせたまえ」について学びます。「あがめさせたまえ」と訳されている言葉には「聖とする」という言葉が使われています。英語では "Hallowed be Thy name" と言いますが、"hallow" というのは「聖とする」という意味の言葉です。「聖人」(saint)に対してこの言葉が使われ、11月1日の "All Saints Day" は "Hallowmas" と呼ばれました。10月31日は Hallowmas の Eve なので、"Halloween" と呼ばれるようになったのです。日本の正教会では、「主の祈り」を「天主経(てんしゅけい)」と呼び、この部分を「願(ねがはく)は爾(なんぢ)の名(な)は聖(せい)とせられ」と祈ります。言葉は難しいですが、原語に忠実な訳です。

 しかし、神の名はもとから聖なるものです。それを「聖とする」とは、どういうことなのでしょうか。それは、そう祈っているこのわたしが、神の名を汚すことなく、神の名をもっともっとあがめることができますようにという祈りなのです。

 一、人生によって

 神の名を汚すのは、神を信じない人たちだけではありません。神の子とされた者たちもそうなのです。いや、神の子と呼ばれている人たちが、それにふさわしくない生き方をするとき、父なる神の名はかえって辱められてしまうのです。ですから、神は、「神の民」と呼ばれたイスラエルに対して「あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である」(レビ記22:32)とお命じになったのです。

 「名を汚す」というのは、日本人、韓国人、中国人には分かりやすい概念だと思います。こうした国々では「家」を大事にし、「家名」を大事にしてきました。たとえば、「山川家」という由緒ある家に生まれた者が、何かの不祥事を起こすと、その人は「家名を汚した」というので、制裁を受けることになります。現代では、会社、企業、団体の名前やブランドが大切にされます。大企業になればなるほど、会社の名前やブランド名は大切で、その評判や信用を落とさないようにと、頑張っているのです。

 人の名前や会社の名前さえ、そんなに大切なら、神の名はどんなに尊ばれなければならないものでしょうか。信仰者たちは、神の名を汚すことがないようにと祈りながら歩んできました。聖書にこんな祈りがあります。

わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。(箴言30:7-9)
「貧しくもなく、富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」というのは、とても慎ましい祈りです。金持ちになって悪いわけではありません。わたしは「億万長者にしてください」と祈って、それがかなえられた人を知っています。しかし、その人は自分のために億万長者になったのではなく、神のためでした。その人はその財産で教会を建てました。金持ちになることではなく、神の御名をあがめることがその人の人生のゴールだったので、その祈りは聞かれたのです。

 しかし、「貧しくもなく、また富みもせず」との祈りを捧げた人は、自分の弱さを知っていました。大金持ちになったら神に頼らず、自分の財産に頼ってしまうだろうという信仰の浅さを認め、生活に困るほど貧しくなったら、盗みさえしかねかないという罪深さをわきまえていたのです。それで、この人は、億万長者になるよりも、神の御名をあがめる道を願いました。この祈りは、貧乏になって自分の名前が辱められないことを願っているのではなく、「神の名を汚すことのない」ことを、神の御名があがめられることを願っているのです。

 この人は「わたしの死なないうちに、これをかなえてください」と祈りましたが、この祈りは、そのとおりに聞かれ、この人は、この祈りの通り、うそ、偽りのない誠実な人生を、また、必要な物をすべて備えられ、神の御名をあがめて生きる人生を送ることができたに違いありません。「御名をあがめさせたまえ」という祈り、神の御名を尊び、第一にする祈りは必ず聞かれる祈りです。「御名があがめられる」ことを人生のゴールとするとき、わたしたちは、それによって、神の御名をより聖なるものとするのです。

 二、行いによって

 聖書は、御名を汚さない、辱めないという消極的な面からだけでなく、もっと積極的に、良い行いによって神の御名があがめられるようにしなさいと教えています。主イエスは、「あなたがたは、世の光である。…あなたがたの光を人々の前に輝かし、…人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言われました。良い行いを、自分に向けさせるためではなく、神に目を向けさせるためにするなら、その行いによって天の父がさらにあがめられるようになると教えられたのです。

 神を知らない人、神に頼らない人にとって、一番大切なのは、「神の御名」ではなく、おそらく「自分の名前」でしょう。そして自分の名前が人々に知られることを心の底では願っています。だから「有名な人」が好きで、そういう人のところにワッと集まります。使いもしないのに有名なブランド品を買い集めている人もいます。良いことで有名になれなかったら、悪いことをしてでも有名になろうとする人たちさえます。実際そんなことをした人たちのことがニュースでとりあげられたりします。もちろん、そんな極端な人はごくわずかでしょうが、多くの人は「あの人は何でもよく出来る人」、あるいは「他の人とうまくやっていけるよく出来た人」と自分を褒めてもらい、認めてもらおうと必死なのです。世界的に有名になるのは大変なことですから、自分に関係のある人たちの間で、自分の名前をキラキラと輝かせたいと願っているのです。しかし、神の民は自分の名よりも神の御名を、神の子どもは自分の名よりも天の父の名が輝くことを願うのです。

 アメリカでは何かの賞を受け、人々から拍手が送られたとき、天を指差すしぐさをすることがあります。それは「わたしがこうした賞を受けられたのは、すべて神の恵みです。神に栄光をお返しします」という意味です。神を信じる者は本心から、「天にいます父」があがめられることを願ってものごとを行うのです。

 わたしたちが人々の前で輝かせる光はなにも大きな光である必要はありません。小さな光でも良いのです。ヘブル6:10に「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」とあります。小さな助け、優しい言葉、ちょっとした親切、励ましが人を生かし、神の愛と恵みを届けるのです。隠れたところでとりなし祈る祈りは、たとえ人に知られなくても、それが人々を守り、支え、助けています。教会のため、人々のために熱心に祈っている人は、教会を愛し、人々を愛している人です。祈りこそは、報いを求めない純粋な愛の行為と言えるでしょう。わたしたちは心で祈り、言葉で祈るだけでなく、行いでも祈ることができます。わたしたちは「御名があがめられますように」という祈りを、言葉だけでなく、御名のためにする良い行いによっても祈ることができます。そのようにして、この祈りを祈りたいと思います。

 三、証しによって

 新約聖書では、神の御名だけでなく、「イエス・キリストの名」があがめられることが強調されています。新約時代の神の民は、「クリスチャン」、つまり「キリストの者」と呼ばれ、キリストの名をその身に帯びているからです。クリスチャンは「キリストの名」を恥じることなく、この名を証しすることによって神をあがめるのです。

 今朝の御言葉は、迫害の時代に書かれました。信仰のゆえに差別されたり、悪く言われたり、のけものにされたり、財産を奪われたり、追放されたりしていた人々を励ますための言葉です。16節に「しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい」とあるように、聖書は、迫害の時代であっても、自分が「クリスチャン」であることを恥じてはいけない。キリストの名があがめられるようにしなさいと教えています。

 アメリカでは「クリスチャン」であるからといって引け目を感じるようなことはありません。わたしたちは自由に神を礼拝し、キリストを証しできる恵まれた環境にいます。なのに、わたしたちは、キリストの名を証しする機会を、みすみす見逃してしまうことが何と多いことでしょう。

 たとえば、皆さんは人から「教会に行っているんですか」と尋ねられたらどう答えますか。「はい、教会に行っていますよ。教会は、楽しくて、良いところですよ」と答えることが多いと思います。その答えは間違ってはいませんが、もし、「はい、わたしはイエス・キリストを信じて、教会で礼拝をささげています」と言うことができたら、そこから、イエス・キリストご自身について話す機会が生まれます。「クリスチャンですか」と訊かれて、「ええ、いちおう…」などと言うより、「はい。イエス・キリストを救い主として受け入れ、バプテスマを受けました」と答えたほうがよほど良い答えになります。教会での催しの話だけで終わるのではなく、「わたしとキリスト」との関係を語ることができたらどんなに良いでしょうか。「わたしとキリストとの関係」を語ること、「わたしにとってのキリスト」を伝えることこそが、証しなのです。

 わたしたちにそうした証しが欠けているとしたら、それは、私たちがキリストとの親しい関係の中に生きていない、イエス・キリストについて語ることができる信仰の知識を蓄えていない、キリストの御名を恥じる思いを心のどこかに持っている、のいずれかだと思います。多くのクリスチャンが持っているキリストの御名を恥じる思いというのは、キリストご自身を恥じるというよりも、自分のような弱くて小さな者が「クリスチャンです」「イエス・キリストを信じています」ということを恥ずかしくて言えないということだろうと思います。しかし、聖書は、そのような思いを克服し、「イエス・キリストの名」を証しするようにと教えています。同じペテロ第一にこうあります。「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。」(ペテロ第一3:15)この言葉のとおり、「キリストを主」とする確かな信仰が、「キリストにあって営んでいる良い生活」が、私たちから恐れを取り除きます。そして、「やさしく、慎み深く、明らかな良心」をもってする証しの言葉を生み出してくれるのです。

 「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。」神の御名を第一にする人生によって、神の御名のためにする良い行いによって、そして、イエス・キリストの御名を証しすることによって、これからも、この祈りをささげていこうではありませんか。

 (祈り)

 神さま、わたしたちは、あなたの子どもとして、あなたの御名を帯び、キリストを信じる者としてキリストの名をいただいています。それはなんと尊いことでしょう。しかし、同時に、重い責任も感じます。しかし、あなたの御名がわたしたちを支え、わたしたちを御名をあがめる人生へと導き、御名をあがめる言葉と行いを与えてくださいます。そのことを信じて、日々に「御名をあがめさせたまえ」と祈るわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/26/2015