証しと召しと祝福

ペテロ第一3:8-12

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3:8 最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
3:9 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
3:10 「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、
3:11 悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。
3:12 主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈りにかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう。」

 一、証しとしての人間関係

 今年1月からペテロの第一の手紙を学びはじめ、やっと前半の最後までやってきました。今年は、きょうの箇所でペテロの手紙の学びを一応終えます。主のみこころであれば、来年、後半を学びたいと思っています。

 きょうの箇所は、2:13から始まった人間関係に関する教えの最後の部分です。この機会に、ペテロの手紙では、人間関係がどのように教えられているかを、おさらいしておきましょう。

 ペテロの第一の手紙は、イエス・キリストを信じる信仰に反対する人々の中で苦しめられていたクリスチャンに宛てて書かれました。クリスチャンは、自分たちの信じていることを、人々に、言葉で説明する責任があります。しかし、それと同時に、態度で、行いで、生活で信仰を示す必要もあります。言葉に行いが伴わなければ、それは説得力を持たなくなるからです。

 たとえば、自分が言ったことに責任を持たず、約束を守ろうとしない人が、「神は真実です。信仰は素晴らしいです」などと言っても、それを聞いた人は「本当にそうだ」とは思えないでしょう。聖書で使われている「信仰」という言葉は「真実」というのと同じ言葉が使われています。信仰とは、「神のご真実に、人間の側でも精一杯の真実でおこたえしていくこと」なのです。ですから、信仰者にとって、神に対しても人に対しても誠実であることは、当然なこと、また、基本的なことがらなのです。いつも不平不満ばかりの人が「絶えず祈りましょう。いつも喜んでいましょう。すべてのことを感謝しましょう」などと言っても、「なるほどそれはいいことだけど、そんなことは実際にできはしないでよう」と言われてしまうかもしれません。

 聖書に「神の教えを飾る」(テトス2:10)という言葉があります。これは、クリスチャンが神の教えに喜んで従い、それに生きるとき、神の教えの素晴らしさがいっそう明らかになるということを言っているものです。神は、ご自分の教えを聖書にはっきりと示しておられますが、それを誰の目にも見えるようにクリスチャンの行いを用いてくださるのです。ペテロは、この手紙で、かなりのスペースを割いて人間関係のことを書いていますが、それは、クリスチャンが人間関係においても、神の教えを飾るものとなるためです。人々が人間関係を大切にするのは、相手のためよりも、自分の利益のためであることが多いのですが、クリスチャンは、正しい人間関係を持つことによって、神の恵みをあかししようとするのです。

 二、神の召しと人間関係

 さて、この手紙には四つの人間関係が記されています。第一は、2:13-17で、自由人、市民としてのクリスチャンと政治や行政の権威を持つ人々との関係が書かれています。第二は、2:17-29で、奴隷あるいは召使いとしてのクリスチャンとその主人との関係が教えられています。第三は3:1-7にある夫と妻との関係です。第四が3:8-12で、信仰者の間の人間関係と、ひろく一般の人間関係についてです。そして、これらの箇所のどれもが、「神の召し」に基づいています。

 日本語の「召す」という言葉は、尊敬語として、じつにさまざまな使い方をします。「何を召し上がりますか」というと、「何を食べますか、飲みますか」という意味になります。「どれをお召しになりますか」という場合は「どの着物を着ますか」ということです。「お年を召す」とか「お風邪を召す」などとも言います。何かを受け取る動作を表わす丁寧な言い方になります。

 しかし、「召す」という言葉のもともとの意味は、権威ある者が、何らかの使命を授けるために誰かを呼び出すことを指します。国会や裁判所に人を呼び出し、意見を述べさせたり、証言させたりすることを、「召喚する」と言いますが、そこには「召す」という言葉が入っています。

 聖書では、「召す」は、神が人をご自分のもとに呼び寄せ、使命を与えることを意味します。パウロは、自分のことを「召されてキリスト・イエスの使徒となった」(コリント第一1:1)と言っています。神のしもべたちは、みな神に召されてその務めを与えられましたが、それは、使徒たちや預言者たちに限りません。すべてのクリスチャンは召されて、神からの使命を与えられているのです。「救われた」ということは「召された」ということなのです。「救い」は、罪と滅びから引きあげられることですが、「召し」は義と光へと進むことです。神の救いは、「〜からの救い」で終わるものではなく「〜への救い」なのです。

 ですから、クリスチャンの政治・行政の権威に対する関係が、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」(ペテロ第一2:9)とある「神の召し」に基づいて教えられているのです。救われて「神の民」とされたクリスチャンは、たんにその国の市民やその町の住民としてだけでなく、神の民としての使命に生きるのです。暗闇から光へと救われたクリスチャンは、自分がその光を楽しむだけで終わらず、自分の身に起こった神の救いを人々に伝え、まだ闇の中にある人々に光をとどけるようにと召されているのです。クリスチャンにとって神の国こそ、本国です。しかし、地上に住む間は、そこは神の召しにこたえるところ、使命を果たす場所となるのです。

 続く、しもべたちへの教えは「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(ペテロ第一2:21)という、「神の召し」に基づいています。すべてのクリスチャンは、キリストの模範に倣うように「召されて」いるのです。

 夫と妻との関係については、「いのちの恵みを共どもに受け継ぐ」(ペテロ第一3:7)という言葉に示されている、「神の召し」に基づいています。「いのちの恵み」という言葉は、子孫の繁栄ということばかりでなく、霊的な命のことも意味しています。クリスチャンはキリストの復活の命に生きるようにとの「召し」を受けているのです。

 聖書は、この「神の召し」をとても大切なものとして教えています。「信仰生活」、「教会生活」と呼ばれるものは、この「神の召し」にこたえていく生活なのです。クリスチャンにとって毎週の礼拝は「神の召し」を再確認して、それにこたえる時です。特別な使命を与えられた人々のために「派遣式」が行われることがよくあります。たとえば、災害時に救援隊が送り出されるときなどです。クリスチャンにとって礼拝は「派遣式」です。クリスチャンは、ここから、神の愛を知らせ、光を届けるために、世に派遣されていくのです。毎週の礼拝が、神の召しを知り、それにこたえて一週間を歩み出す時となるよう、心から願っています。

 三、祝福を分かちあう人間関係

 さて、きょうの箇所は「最後に言う」という言葉ではじまっています。ところが、手紙はまだまだ続きます。「これはどういうことだろう」と不思議に思った人があるかもしれませんが、この「最後」というのは、人間関係の教えの中での「最後」という意味だと考えて良いと思います。そうすれば、つじつまが合います。きょうの箇所はペテロの第一の手紙の人間関係についての教えのしめくくりなのです。

 3:8には、信仰の仲間たちの間の人間関係のことが教えられています。「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」これは、信仰者の人間関係が、真実に「キリストにあって」のものであり、それぞれが聖霊に導かれて歩んでいるのであれば、そんなに難しいことではありません。家族が互いにいたわりあうように、信仰の家族の間でも同じように思いやり、祈り合うことができるからです。

 しかし、人間関係がさらにひろがって、世の中に出ていくとき、そこに、いつも良好な人間関係があるとは限りません。クリスチャンに悪意を抱き、悪い言葉を浴びせかける人もいるからです。しかし、そんなときも、クリスチャンは、人々に祝福を分け与え続けます。3:9に「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」とある通りです。

 これは、悪いことをされてもただ我慢し、侮辱されても忍耐するというだけのことではありません。それは愛によって悪に勝つことです。呪いを祝福に変えていく、力強く、積極的な生き方です。ひどい目にあったら仕返してやりたい、悪口を言われたら言い返したいと思うのが、生まれつきの人間の性質であり、悪に悪をもって返すことによって、自分もまた罪に陥ってしまうのが普通です。しかし、神を信じる者は、自分の罪にも、他の人の罪にも打ち勝つ力を与えられています。人間の力を超えた力で、悪に対して悪をもって報いず、祝福をもって報いることができる恵みを与えられているのです。それは、人々に神の祝福を分け与え、みずからも祝福を受け継ぐようにとの「神の召し」を受けているからです。

 アブラハムは「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:2)との言葉を与えられ、自分の故郷から約束の地へと「召され」ました。「祝福の基となる。」それがアブラハムの使命でした。クリスチャンにとってアブラハムは信仰の父であって、クリスチャンもまた、神の祝福を人々と分かち合うために召されているのです。

 旧約の聖徒たちも、新約のクリスチャンも、「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いる」という恵みの中に生きました。アブラハムは甥のロトがアブラハムから離れていくときも、彼にとって良いと思える土地を先に選ばせています。アブラハムの子イサクは約束の地で先住民と争うことなく、自分たちの掘った井戸を譲り渡しました。ダビデはサウルからしつこく追い回されましたが、自分からサウルに危害を加えることはありませんでした。

 しかし、「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報い」ることを、完全になさったのは、イエス・キリスト、ただおひとりです。聖書では十字架は「呪いの木」です。十字架にかけられたイエスは、ありとあらゆる侮辱を受け、呪われた者となられました。しかし、十字架の上で語られた言葉は、どれも、人々に祝福を分け与えるものでした。イエスは悪をもって悪に報いず、かえって祝福を与えることによって、呪いの木を祝福の木に変えてしまわれたのです。

 クリスチャンは、このキリストに倣うように召されています。キリストに倣うとは、苦しみを耐えるということだけではなく、その中でも、他の人びとに祝福を分け与えるということなのです。ステパノをはじめとして、殉教者たちはみな、キリストにならって「この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と、自分を殺そうとしている人々のために祈りました。キリストの足跡に従い通して、人々に祝福を分かち与えた人たちは、天の大きな祝福を受け継いだのです。

 神は、わたしたちひとりひとりをこの「祝福」へと「召し」てくださっています。この祝福は、天で受け継ぐだけでなく、地上でもその実りを見ることができます。わたしは多くの教会で祖父母と両親、子どもの三世代が並んで礼拝をささげる姿を見てきました。信仰が親から子へ、子から孫へと引き継がれていくことは、素晴らしい祝福の実のひとつです。「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」どんな人間関係の中でも、この言葉を覚えて歩むとき、それは祝福に変えられていくのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが、わたしたちを祝福へと召していてくださることを感謝いたします。あなたの召しにこたえることによって、その祝福の中に生きることができるよう、導き、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/30/2016