3:7 夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。
一、愛の源泉
前回は、1-6節より「妻たち」への教えを学びました。きょうは続いて「夫たち」への教えを学びます。しかし、この礼拝には「夫たち」よりも「妻たち」、独身の人、まだ結婚していない人たちのほうが多いので、夫たちだけにかぎらず、広く人間関係のことに照らして、この箇所から、いくつかのことを考えてみたいと思ます。
最初に注目したいのは、「同じように」という言葉です。これは、妻が夫に仕えるのと同じように、夫も妻に仕えなさいということです。妻たちにも「同じように、妻たる者よ」と言われており、妻たちには「しもべたち」が主人に仕えるのと「同じように」夫に仕えなさいと教えられていした。そして「しもべたち」にはキリストの模範に倣うように、つまりキリストと「同じように」と教えられていました。夫は妻と同じように、妻はしもべと同じように、そしてしもべはキリストと同じようにというわけです。どの人間関係においても、最終的にはキリストがわたしたちに仕えてくださったことに帰っていくのです。「同じように」という言葉は、キリストがわたしたちに仕えてくださったように他に仕えるべきことを教えています。
夫と妻の関係についてはエペソ5:22-33に詳しく教えられています。そこには妻に「主に仕えるように自分の夫に仕えなさい」(エペソ5:22)と命じていますが、夫には、「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」と命じています。妻が「主に仕えるように」夫に仕えることは、信仰がなしにはできることではありません。しかし、「キリストがご自身をささげられたように」妻を愛するのには、もっと、信仰が必要です。しかも、その「信仰」は、キリストが教会のためにご自身をささげられたことを信じる信仰です。キリストの贖いを理解し、その贖いの愛によって生きる信仰です。しもべが主人に仕えるのも、妻が夫に仕えるのも、また夫が妻を愛し、互いに仕え合うのも、みな、イエス・キリストが人を罪から救うため、十字架でご自分をささげられた「贖い」に基づいているのです。
夫と妻との関係がイエス・キリストの十字架に基づいて教えられているように、「十字架」は聖書の教えの中心です。救いを告げ知らせる「福音」は「十字架の言葉」と呼ばれ、教会は「十字架」を宣べ伝え、主の晩餐で「十字架」を覚え続けてきました。それは、「十字架」のうちに、わたしたちの救いのすべてがあるからです。
こどもの歌に「広い、深い、泉が流れる。広い、深い、泉は主イエスの血。罪のために泉が流れる」という歌があります。これは、ゼカリヤ13:1に「その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる」とある言葉に基づいた歌です。わたしたちに必要な赦し、恵み、命のすべては十字架から流れ出るのです。
ここに十字架かから流れ出る水を飲む鹿の絵があります。この絵は、十字架こそが渇いたたましいをいやすものであることをよく表わしています。さまざまな人間関係で悩むときや問題を抱えるときには、ここに、十字架のもとに来ましょう。ここでいやしを受けましょう。
二、信仰の知識
次に注目したいのは、今朝の箇所に、「夫たる者よ…知識に従って妻と共に住み…なさい」とあることです。この「知識」とは、この世の知識や学問のことではありません。イエス・キリストを信じる信仰の知識のことです。「信仰の知識」とは「はい、分かりました。覚えました」ということではなく、キリストを人格的に知り、キリストを通して働く神の力を体験的に知るということです。人間関係に限らず、わたしたちが直面するさまざまな問題は、理性でも、感情でも、またからだででも、神を知るという生きた信仰の知識によって解決できるのです。
以前、英国の John Gray という人が “Men from Mars, Women from Venus” という本を書いて、それがベストセラーになったことがあります。『男は火星人、女は金星人』というタイトルで日本語にも訳されています。この本には男女には異星人ほどの違いがある。だから、互いを理解しないと結婚はうまくいかないといったことが書かれています。こういった種類の本は他にもたくさんあり、役に立つものもあるのですが、聖書がわたしたちに求めている「知識」は、夫婦の関係を良くし、家庭を円満にするための知恵、知識、テクニックではなく、信仰の知識なのです。
聖書によれば、クリスチャンの結婚はキリストとキリストによって贖われた教会の結びつきを表わすものです。つまり、人と人との結びつきは、それによって、神と人との結びつきを表わすためのものだということです。聖書が教えるクリスチャンの結婚は、好きな人といっしょに生活するためや、やすらぎの場を得るためなどといったこと以上のものです。それはキリストが教会を愛された愛を深く知るためのものです。そして、聖書は、そのキリストの愛を知って、それによって家庭を、また、人間関係を築いていくようにと教えているのです。
アメリカでも日本でも、二組のうち一組の夫婦が離婚の危機に直面しています。そんな中で、夫婦が仕えあっていくためには、キリストの愛をほんとうに知っている必要があります。ほんらいは教会がキリストに仕えるべきなのに、キリストが教会に仕えてくださり、ご自身をささげられました。キリストが教会を愛してご自身をささげられた以上の愛はこの世にはありません。「これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)という愛に支えられた人間関係は、たとえいったん壊れかかったとして、この信仰の知識に従って祈り、忍耐し、努力していくことによって、何度でも回復することができるのです。
三、弱さをかばう
最後に、「女は自分よりも弱い器であることを認めて…尊びなさい」という言葉にある、「弱さ」ということを考えておきましょう。他の人の弱さも含めて人を受け入れること、それは、どの人間関係においてもとても大切なことだからです。
どの人にも「強さ」と「弱さ」とがあり、それがおりあわさって、その人の人となりを作ります。「強さ」しかなくて「弱さ」を持たない人というのは、ある意味で魅力のない人です。「弱さ」を持つ人は、神の恵みが分かる人です。ですから、そういう人は、高慢にならないで、神の恵みに感謝します。自分に「弱さ」があるからこそ、人は、他の人の痛みや苦しみを感じ取って、そうした人たちに寄り添うことができるのです。
「弱さ」と「罪」とは違います。もちろん、あらゆる「罪」を人間の「弱さ」にすりかえ、「罪」を「病気」のせいにしたり、「遺伝子」のせいにしてしまうことは間違っています。けれども、「罪」ではない「弱さ」までも非難するのは間違っています。大きな「罪」を犯す人は、たいてい強い人です。「弱さ」は「悪」ではありません。ですから、それは責められるべきものではなく、かばわれるべきものです。
聖書が書かれた時代の女性は、さまざまな面で「弱い立場」に置かれていました。だからこそ、夫には、妻のそうした立場を理解して、それを責めるのではなく、かばう愛が求められたのです。しばしば「強い人」、「能力のある人」は、そうでない人を見て、「こんなこともできないのか」「こんなことも分からないのか」と責めることがあります。そんなふうに言われたとき、かえって「なにくそ」と奮発する人もあれば、そうした言葉に深く傷つき、学校や職場をやめたりする人もあります。人を愛し、尊ぶとは、その人の弱さも含めてなのだということを心に留めていたいと思います。
わたしたちがはじめてアメリカに来たとき、こどもたちが学校になじめるかどうか心配でした。でも、先生たちは、こどもの弱いところを責めるのでなく、良いところをほめて指導してくれました。それでこどもたちはすぐにアメリカの学校になじむことができました。日本の学校では、その逆でしたので、わたしは、能力主義のアメリカで、弱さも含めて人を受け入れる暖かさを見て、少なからず驚きましたが、それもまたキリストの愛から来ていることに気づいて、感謝しました。
アメリカは何もかもが良い理想の国ではありません。しかし、アメリカにキリストの愛を知る人が多くいて、その愛が様々なところで実践され、ひとりひとりが大切にされ、この国が支えられていることも事実です。たんなる「博愛」の心だけでは、わたしたちはほんとうには愛しあうことができません。わたしたちには、キリストの愛が必要です。キリストが罪人のために、神に敵対する者のためにもご自分を投げ出された愛が必要です。ローマ5:6-8の御言葉が迫ります。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」
この愛の源泉に立ち帰りましょう。この愛を心に刻みましょう。家庭でも、職場でも、さまざまな人間関係の中でも、それを実践していきましょう。
(祈り)
父なる神さま、人と人とが愛しあい、いたわりあい、仕え合うことが忘れられている現代です。そんな時代にあっても、あなたからいただいたキリストの愛で、人間関係を築くことができるよう、わたしたちを助けてください。わたしたちがキリストの愛によってあなたに受け入れられていることを忘れず、他の人を受け入れることを教えてください。わたしたちの築く人間関係がキリストの愛を表わすものとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。
10/23/2016