3:13 そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
3:14 しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
3:16 しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。
3:17 善をおこなって苦しむことは――それが神の御旨であれば――悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。
一、信仰者の苦しみ
この手紙は「離散し寄留している人たち」に宛てて書かれました。この人たちは、信仰のために故郷を追われ、やむなく外国に移り住まなければならなくなった人たちでした。その中には土地や財産を奪われ、難民となった人たちもありました。この手紙はそうした苦しみの中にある信仰者を励ますために書かれました。使徒ペテロは、信仰者たちに「今しばらくのあいだは、さまざまな試練でなやまねがならない」(1:6)と言いました。使徒パウロも「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」(使徒14:22)と言っています。人が信仰を持ちたいと思うのは、苦しみや悩みから救われたいからですし、イエス・キリストを信じる者は、苦しみから救われるのに、信仰者が苦しみを体験しなければならないというのは、どういうことなのでしょうか。
苦しみの根本は罪にあります。どんなにつらい目に遇っても、みずからにやましいところがなければそれに耐えることができます。胸を張って、誇りをもって生きていくことができます。しかし、真理の光に照らされるとき、人は自分の罪が人をも自分をも傷つけ、苦しめているということに気付きます。そして、罪の重さを知るのです。社会が悪い、周りの人が問題だ、相手に落ち度があると、自分の罪を他の人のせいにすれば、自分の罪から目をそらすことができるかもしれませんが、そこには何の解決もありません。ほんとうの問題は自分にあるのだということに気付き、罪を認めて悔い改め、赦しを受けるまでは、人のたましいには、本物の喜びも平安をも味わうことができないのです。
人は自分で自分の罪を取り除くことはできません。それができるのは、人の罪を、その苦しみとともに引き受け、人のために罪の赦しを勝ち取ってくださったイエス・キリストだけです。このお方のもとに来て、その赦しを受けるとき、わたしたちは飛び上がるばかりの喜びがやってきます。死刑囚に、恩赦を知らせるとき、その死刑囚にあらかじめ精神安定剤を与えてから恩赦と通知することがあると聞きました。せっかく命が助かるのに、恩赦の知らせに驚いてショック死してしまうということがないようにするためだそうです。イエス・キリストによる罪の赦しの福音を聞くということは、死刑囚が恩赦の知らせを聞くのと同じくらいの、いやそれ以上のことなのです。この福音を受け入れ、イエス・キリストを信じる者は、神の子どもとして受け入れられ、罪赦された喜びとともに、神に愛され受け入れられているという平安で心が満たされるのです。
ですから、信仰者は自分のことでは、もはや苦しむことはありません。けれども、この世には、なお罪があり悪があります。「曲がった世」をまっすぐに生きるのは簡単なことではありません。罪赦された者も、絶えず罪の力に晒されますから、罪と闘い、それに打ち勝つ力を日々に受けていかなければなりません。この世で、神を信じ、イエス・キリストに従おうとするとき、そこには何らかの摩擦が起こり、痛みが生じるのは当然といえば当然です。しかし、そこから生じる苦しみは、自分の罪のが生み出した重い苦しみではありません。それによって自らがきよめられ、神の愛とイエス・キリストの恵みを人々に知らせるための苦しみです。そこから良いものが生まれてくる、「産みの苦しみ」です。
イエス・キリストは、十字架の上で、人の罪を贖うため極限の苦しみを味わってくださいました。その贖いの苦しみに、人間は何一つ加えることはできません。わたしたちが自分の罪のためにどんなに苦しんだとしても、その苦しみで自分の罪を贖うことはできません。それをしてくだるはキリストだけです。新生讃美歌297で “Jesus Paid It All” と歌われている通りです。しかし、信仰者は、この贖いの愛に生き、それを証ししていくための苦しみにはあずかることができます。
パウロは「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」(ガラテヤ4:19)、また、「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」(コロサイ1:24)と言っています。主イエスは、贖いのため苦しまれたばかりでなく、今も、教会のため、この世のために、今も「産みの苦しみ」をしてくださっています。ですから、キリストにつながる者たちも、この苦しみにあずかるのです。そして、この苦しみは、苦しみで終わりません。それはあふれる喜びとなるのです。ペテロ第一4:13に「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」とある通りです。
二、信仰の弁護
初代の信仰者たちは、いわれのないことで非難されたり、中傷されました。人々は、偶像を拝まず、皇帝礼拝をしなかったキリスト者を「無神論者」と呼びました。また、互いを兄弟姉妹と呼び合い、キリストにあって愛しあっていたキリスト者を「近親相姦している」と言って非難しました。また、晩餐式でパンを「キリストのからだ」、ぶどう酒を「キリストの血」として食べ、飲むことを「人肉を食べ、血をすすっている」といって忌み嫌いました。さらに、キリスト者たちが人々とともに羽目を外し、度を越した遊興に加わらなかったので、「彼らは社会と人類を憎んでいる」と言って攻撃したのです。こうしたことは、まったくいわれのないことで、単なる誤解というよりは、悪意のある攻撃ですが、キリスト者たちは、そうしたことで訴えられ、裁判にかけられたとき、こうした非難に答え、信仰を弁護し、証ししなければなりませんでした。キリスト者たちは迫害を受けた時、ただされるがままになったのではなく、弁明の機会が与えられたなら、それをキリストを証しする機会として用いたのです。
そのため信仰者たちは、教会で信仰の真理を学び、自分たちの信じていることをはっきりと語ることができるための訓練を受けていました。15節に「また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」とあるように、キリスト者は、ふだんからそのことに備えていました。信仰的な心構えとともに、知識の面においても、反対者たちにひけをとらないものを身に着けていました。
現代のキリスト者は、古代のキリスト者に向けられたのと同じ非難を受けることや、あからさまに攻撃されることはないと思いますが、別のことで誤解されたり、弁明を必要とする状況が起こらないとは限りません。みなさんは、「今から二千年前の人物が現代のわれわれとどんな関わりがあるのか」、「信じる心が純粋であれば、どの宗教でも人は救われるのではないか」、「キリスト教は愛の宗教だと言うが、それならなぜキリスト教の国が戦争をするのか」などと言われたとき、それにどう答えるでしょうか。人に答える前に、自分自身がそのことに対する答えを持っているでしょうか。そして、それを相手に分かるように話すことができる言葉を持っているでしょうか。
また、こうした議論を持ちかけてくる人は、それに対する答えが欲しいのではなく、多くの場合は心に隠されている、もっとパーソナルで、具体的な人生の問題を抱えていることがありますので、それに答えてあげられる知識や、相手に対する愛も必要です。キリスト者がする「弁明」は、けっして議論に勝つためのものではありません。議論に勝っても、キリストを証しできなければ意味がありません。信仰の「弁護」、「弁明」は決して自分のためではなく、相手のためです。それは、人々のたましいの疑問に神の言葉をもって答えてあげたいという愛から出たものでなければならないのです。
わたしたちに、そのような愛があるでしょうか。願いや祈りがあるでしょうか。そうであるなら、そのために自らを備えていたいと思いませんか。わたしは、そうした方々と「弁明の準備」のための学びをし、知識においても、愛においても、ご一緒に訓練を受けたいと心から願っています。
三、生活の証し
信仰の弁護のためには、知的な訓練や信仰に至っていない人々に対する愛や忍耐が必要ですが、最も効果のある弁護は、キリスト者の正しく、善良な生活です。13節に「そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか」とあり、また16-17節には「そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。善をおこなって苦しむことは――それが神の御旨であれば――悪をおこなって苦しむよりも、まさっている」とある通りです。
キリスト者は、人々からのいわれのない非難に、きちんとした言葉で答える必要があります。初代教会の指導者たちはそのことをしました。殉教者ユスティノス(Justin Martyr)やテルトゥリアヌス(Tertullianus)などといった人々は、「弁証家」(Apologist)あるいは「護教家」として知られていますが、そうした人々は、教会を代表して、ローマ皇帝に対してさえ、キリスト者迫害の悪法を正すようにと物申しています。しかし、もし、それが学問上の議論や政治的なかけひきだけであったらなら、教会は迫害に勝利することはなかったでしょう。信仰の弁護、弁明は、信仰者たちの正しく、善良な生活に裏打ちされていたので、力があったのです。
起元165年、6人の同志とともに殉教したユスティノスは、若いころ、真理を求めてギリシャ哲学の各派に学び、最後はプラトン派に学びましたが、答えを得ることができませんでした。しかし、長い求道の後、ひとりのキリスト者の老人との出会い、信仰に導かれました。ユスティノスを回心に導いたのは、キリスト者の高い水準の道徳的な生活でした。主イエスが「木はその実によって分かる」(マタイ12:33)と言われたように、正しい教えは正しい生活を生み出し、真理は真実な生き方をもたらし、それが真理を証しするのです。もちろん、キリスト者といえども、完全ではありません。弱さを持ち、失敗もします。しかし、そうした中でも、常により高いもの、より聖なるものを目指した生き方が、ユスティノスをはじめ、多くの人々の心をとらえたのです。
三代将軍家光の時代、キリシタンへの迫害がいっそう強くなり、1629年から「踏み絵」が使われるようになりました。その年の1月12日、米沢(山形)で53名のキリシタンが処刑されました。その刑場で奉行がこう言いました。「皆の者、ここにおる人たちは、信仰のためにこのようなことになった。皆、この人たちに向かって土下座してくれ。この人たちが何をして来たかは、われらが一番良く知っておる。らい患者を世話し、子どもや年寄りのために尽くし、米沢の領内で無くてならぬ人たちである。しかし、今、時代の流れはこの人たちがキリストを信じることを許さない。だが、われらにとってみたら、この人たちはまるで仏様みたいな人たちなのだ。だから、皆、土下座してくれ。」この言葉のとおり、人々は、処刑される人々を惜しみ、米沢藩のために尽くした、なんの罪もない善良な人々を、幕府の圧力によって処刑しなければならない悔しさに、涙したのでした。キリシタン禁教の時代に、キリシタンは、言葉では伝道も証しもできませんでした。しかし、その善良な生活によって、その生き様によって、キリストを証ししていたのです。
正しい人たちが不利益をこうむり、悪をなす者がほしいままに権力をふるう。そんな現実は、昔も今も変わりません。わたしたちの多くは、そのことに腹立ちを覚えたり、あきらめを感じたり、そこから逃げ出したくなることもあります。しかし、聖書は「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え」(詩篇37:3新改訳)と教えます。キリストにある善い生活が最大、最高の信仰の弁護、弁明であることを覚え、そのことに励み、イエス・キリストを証ししていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、真理の光が曖昧なものにされているこの時代、イエス・キリストを証しするための知恵、知識、言葉を、わたしたちにお与えてください。また、それを裏打ちするキリストにある善き生活をお与えください。それは、いつの時代にも力ある証しです。このふたつのことを熱心に、また誠実に追い求めるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/2/2017