3:1 同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、
3:2 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。
3:3 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
3:4 かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。
3:5 むかし、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。
3:6 たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。
一、なぜ妻は夫に仕えるのか
ペテロの手紙第一には、しもべたちへの教えに続いて、妻たちへの教えが書かれています。それは「夫に従いなさい」という教えです。この手紙が書かれた時代には、「夫」は、一家のかしらとして、とても大きな権限を持っていました。妻といえども、夫を「主」と呼んで、しもべのようにして仕えたのです。日本語では、今も、夫のことを「主人」と呼びますが、それはそうした時代の名残りです。今は、夫も、妻も対等の時代になりました。では、ここに書かれていることは、もう、時代遅れの教えなのでしょうか。いいえ、そうではありません。ここには、時代が変っても変わらない真理が記されています。それは、イエス・キリストを信じる者は、他に仕える生き方へと招かれているという真理です。
妻たちへの教えは「同じように」という言葉で始まっています。何と「同じように」なのでしょうか。まずは、「しもべたち」と同じようにということです。しもべたちがその主人に仕えるように、妻たちも夫に仕えるのです。しもべたちへの教えと妻たちへの教えには、共通したものがあります。しもべたちには、「善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも」心から仕えることが求められていますが(ペテロ第一2:18)、妻たちにも「御言に従わない夫」にも、心から仕えるようにと、教えられています。妻は夫のしもべではありませんが、「仕える」という態度においては、しもべが主人に仕えるようでありなさいと教えられているのです。
「同じように」という言葉は、次に、「イエス・キリストと同じように」ということを教えています。イエス・キリストは、あらゆるものの上に立つ主権者です。人々から仕えられて当然のお方なのに、自らすすんでしもべとなり、罪あるわたしたちに仕えてくださいました。マルコ10:45に「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」とある通りです。聖書が、妻たちに、夫に仕えるようにと教えているのは、その時代の社会がそれを要求していたからだけではありません。クリスチャンが他の人に仕えることは、社会においても、家庭においても、変わることのない神のみこころだからです。わたしたちの主であるお方みずからが、わたしたちに仕えてくださったのだから、わたしたちもまた、他に仕えて生きるのです。
二、どのように妻は夫に仕えるのか
しかし、人は、仕えることよりも、仕えられることを好みます。ものごとが自分を中心に回っていないと気が済まないのです。それが昂じると、神に対してさえ注文をつけるようになり、神を自分の願いを叶える道具にしてしまうのです。ここに、神が主権者であることを否定する人間の罪があります。
誰に気遣うこともなく、自分の好きなように振る舞い、自分の好きなことだけをして日を過ごすことができたら、さぞ満足だろうと、多くの人は考えています。しかし、ほんとうにそうでしょうか。人のたましいはそれによっては、決して満たされないのです。それは、人が「神のかたち」に造られていて、自分のうちにある「神のかたち」に従って生きることなしには、たましいの底からの満足を得ることができないからです。
人は神のかたちに造られましたが、罪のために「神のかたち」を失ってしまいました。そのままでは、人は永久に滅びたままになってしまいます。それで、神は、人を救うため、イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。完全な「神のかたち」であるイエス・キリストが、わたしたちが「神のかたち」を取り戻すことができるため、みずから「人のかたち」を取り、世に来られたのです。聖書はこのことを、次のように言っています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」(ピリピ2:6-7)
ここで注意したいのは、キリストが「人間の姿」だけでなく、「しもべのかたち」をとられたということです。人は、イエス・キリストによって「神のかたち」を取り戻すのですが、その「神のかたち」には、イエス・キリストがとられた「しもべのかたち」が含まれているのです。わたしたちがイエス・キリストから受け取る「神のかたち」は「しもべのかたち」そのものだと言っても良いでしょう。神のしもべとなり、イエス・キリストに従い、他の人に仕える、その中に「神のかたち」があり、それによってわたしたちは本来の自分を取り戻すのです。
そして、この「しもべのかたち」こそが、聖書が勧める「こころの飾り」なのです。聖書は妻たちに「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである」(3-4節)と教えています。これは、お化粧をやおしゃれを禁じているものではありません。女性でも男性でも、身だしなみは大切です。身なりをきちんとすることによって、気持ちも引き締まるものです。これは、「外見を整えるように、内面をも整えなさい。外面を飾るのなら、内面も飾りなさい」との教えです。
詩篇96:9に「聖なる装いをして主を拝め」とあります。「聖なる装い」という言葉は、英語では “Beauty of Holiness” と訳され、実際の服装とともに、礼拝を捧げる人の内面の「きよさ」や「美しさ」を指しています。そして、人が身に着けることができる最も美しい姿は、「しもべのかたち」です。「しもべのかたち」こそ、神がわたしたちに求めておられる内面の飾りです。
イザヤ53:2は、イエス・キリストについて、「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」と言っています。イエス・キリストの十字架の意味が分からない人たちには、十字架で苦しむイエスの姿は、目をそむけたくなる、醜いもの、むごたらしいものでしかないでしょう。しかし、救われた者にとっては、苦難のイエスほど美しいお方はなく、十字架以上に美しいものはないのです。イエスの頭には金の飾りではなく、茨の冠がかぶせられましたが、それは、どんな飾りよりも神の愛を輝かしているのです。聖書は、妻たちばかりでなく夫たちにも、女性ばかりでなく男性にも、すべてイエス・キリストを信じる者たちに、自分を中心に据え、第一にしようとする「金の飾り」ではなく、主イエスが身に着けられた「しもべのかたち」を内面の飾りとするよう教えているのです。
三、仕えることにはどんな力があるのか
しかし、多くの人は、「しもべとなって人に仕えるだけでは、状況を少しも変えることができない」と考えています。イエスは「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)と言われましたが、もし、暴力をふるう夫に対しても妻がそうしなければならないとしたら、ドメスティック・ヴァイオレンスがひどくなるだけだと反論する人もいるでしょう。主イエスが言われたことは、個々のケースに対する解決策ではなく、原則です。「やられたらやりかえす」という報復の連鎖が限りなくつながっていくことを断ち切るようにとの教えです。現代社会の個々の問題については、主イエスが与えてくださった原則に基づいて、ひとつひとつの事例ごとに考えていく必要があります。
けれども、どんな状況の中でも、「仕える」という姿勢が必要です。「仕える」ことは、決して弱々しい態度ではなく、それこそが状況を変えていく力です。ガンジーはヒンドゥー教徒でしたが、イエスの教えから学んで、非暴力によってインドの独立を勝ち取りました。マルチン・ルター・キング牧師は、ガンジーのことを知って、ヒンドゥー教徒でさえ、イエスの教えに従ったのなら、クリスチャンはなおのことではないかと考えました。公民権運動が暴力に訴えるという過激な方向に走っていったときも、キング牧師は非暴力を貫き通しました。
日本では、戦前に、救世軍の人たちが、売春のため売られた女性の救出のため働きました。そのため、いつもヤクザと衝突しました。ヤクザはクリスチャンが抵抗しないことを知っていて、殴る、蹴るの暴行を加えました。それでも、クリスチャンは我慢をし、警官が来るのを待ちました。日本のクリスチャンもまた、徹底して人に仕えることによって、多くの人を救い、イエス・キリストを証ししたのです。これらの人たちは決して弱々しい人たちではありませんでした。最も勇敢な人たちでした。だからこそ、人に仕えるという姿勢を貫き通すことができたのです。それによって、悪と闘い、勝利したのです。人に仕えることが出来る人は心に神の力を持った人なのです。
きょうの箇所は、妻たちにこう勧めています。「たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。」(2-3節)「御言葉に従わない夫」とは、まだクリスチャンでない夫のことです。クリスチャンでない夫がみな乱暴だったとはかぎりません。優しい夫もいたでしょう。それでも、クリスチャンの妻たちは、優しい夫からも、信仰のことでいろいろ批判めいたことを言われただろうと思います。しかし、そんなときも、妻たちが、夫から言われたことに言葉でやり返すことをしないで、行いによって夫に仕えるなら、夫は、妻の信じるものが本物であることが分かり、やがて御言葉に従うようになる、その約束がここにあります。
これは夫がクリスチャンで妻がまだクリスチャンでない場合も、子どもがクリスチャンで親がまだクリスチャンでない場合も同じです。妻の無言の行いが夫を救いに導き、夫の無言の行いが妻をイエス・キリストに導いたという証しは、わたしたちの身の回りに数えきれないほどあります。夫婦や親子が互いに自己主張しあっていたら、そこは争いの絶えない、暗い、みじめな場所になります。もし、家庭がみじめな場所になってしまったら、社会的にどんなに成功しようとも、ほんとうの幸せは訪れません。しかし、互いに「仕える」ことができたら、その家庭はしあわせなところとなります。家庭は、ほうっておいても自然には良くはなりません。互いに「仕える」心を養い、それを実行しようと努力することによって家庭はしあわせな場所となるのです。
しかし、家族や他の人に、進んで「仕える」ことは、自分の力ではできません。イエス・キリストを信じる信仰によって「仕える」心と「仕える」力をいただかなければ、そうすることはできません。「仕える」ことは、キリストの力によるのです。それがキリストの力であるから、「仕える」ことには大きな力があり、それは人を救いに導き、家庭を変え、社会を変えていくことができるのです。わたしたちも、もっと「仕える」ことの力を体験し、それによって、イエス・キリストを証ししていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、主イエスがあなたに従い、罪ある人間にさえも仕えてくださったことによって、わたしたちは救われ、変えられました。わたしたちが主イエスの模範にならって、「仕える」ことを学び実践するとき、わたしたちの家庭に救いが訪れることを信じます。そのために「しもべのかたち」を内面の飾りとして身に着けるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
10/16/2016