2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
一、闇の中に
南米のチリは、地下資源が豊富で、銅は世界シェアの35%、電池に使われているリチウムでは生産量は世界一だそうです。どの鉱山も古い歴史を持っていますが、それだけに、安全性に問題があり、数々の事故が起こり、多くの鉱山作業員が亡くなっています。
コピアポのサンホセ鉱山も、安全上の問題があって、政府は一時、操業停止と閉山を決めたのですが、安全対策に何の改善もないまま2009年に操業再開が認められました。そして、2010年8月5日、大事故が、起こるべくして起こりました。入り口から螺旋状に地下深く降りていく坑道が崩れ、33名の作業員が地下700メートルの待避所に閉じ込められました。
地上では、作業員の生存は絶望視されていましたが、待避所まで直径8センチの穴を掘りました。事故から17日経ってからドリルを引き上げてみると、「われわれ33名は無事だ」とのメッセージがくくりつけられていました。33名の生存を知った地上では救出作業を始めました。
幸いにもへの通風口がつながっており、空気はなんとか確保できましたが、問題は食料と水でした。待避所にあったものは2〜3日分に過ぎませんでしたので、食べ物は2日ごとにスプーンで1さじか2さじしか食べられませんでした。水は、穴を掘って湧き出てきたものを使いました。やがて、地上から掘られた小さな穴を通って栄養剤や薬が届けられるようになり、地上の家族との連絡もできるようになりました。それとは別に、酸素を送り込むための穴も掘られました。しかし、実際の救出までは、2ヶ月以上も必要でした。33人は69日、およそ70日間、地底700メートルに閉じ込められていたのです。
そんな中で、誰か1人でも精神的に混乱し、結束が乱れると、救出は不可能になります。それで、ルイス・ウルスアさんが全体のリーダーになり、最年長のマリオ・ゴメスさんが、人々の宗教的、精神的なケアにあたりました。他にも医療係や、ビデオ係など、それぞれが役割を与えられ、皆が自分たちで決めた規則を守って、統率のとれた状態を保ちました。神への信仰が人々を支え、一つに結びつけたことが、全員の救出につながったと言われています。
数々の困難がありましたが、作業員を地上に引き上げるカプセルが通る穴ができました。1人がやっと入れるだけのカプセルに乗って、1人づつ順に地上に引き上げられるのですが、カプセルに乗り込む人たちには、キャンパス・クルセードが作ったTシャツが与えられました。その左腕には〝JESUS〟、正面に〝Thank You, Lord〟、背中には、〝地の深みは御手のうちにあり/山々の頂も主のものである〟との詩篇95:4の言葉が書かれていました。
地下でもわずかな光はありましたが、地底の闇の中から、急に地上の光を浴び、紫外線を受けると目に危険なので、救出作業は夜行われ、夜にもかかわらず、皆がサングラスをつけていました。翌朝、日の光を見た人たちは、どんなに、それを感謝したことかと思います。
二、闇から光へ
この人たちは閉じ込められた地底から引き上げられ、闇から光へと移されたのですが、実は、私たちも、同じように闇から光へ移された者たちなのです。きょうの箇所に、「あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方」とある通りです。「ご自分の驚くべき光」とありますが、それはどんな光なのでしょうか。太陽の光や電灯の光ではありません。「ご自分の光」とあるように、神から出る光、霊的な光のことです。
聖書は、神は光であると教えています。ヤコブ1:17に、「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです」とあります。「光を造られた父」と訳されているところは、原語では「光の父」です。「父」という言葉はそこから、あらゆるものが生み出されてくる「みなもと」を意味しますから、「光の父」とは、神ご自身が光であり、光のみなもとであることを意味しています。ヤコブ1:17の後半には、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」とあって、神ご自身が、消えることも、陰ることもない完全な光であると言っています。これは神が栄光に満ちたお方であり、すべての善いものとあらゆる祝福が神から来ることを教えています。ですから、神が、創造の第一日目に、「光、あれ」と言われ、光を造られたのは、物理的な光を造られたというだけなく、神が創造されたすべてのものに、ご自分の栄光を行き渡らせたということでもあったのです。
そして、神が光であるとともに、イエス・キリストも光です。ヨハネ1:4に、「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあり、ヨハネ1:9では、イエスは「すべての人を照らすまことの光」であるとあります。イエスは父の御子、父から「生まれた」お方です。ニカイア信条では、イエスが、ラテン語で〝Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero〟(神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神)と言われています。
ところが、この光であるお方が、暗闇の世界に降りてこられました。それは、罪と死の暗闇に閉じ込められている人々を救うためでした。イエスは、「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われ、人々に光を届けてくださいました。人々は、いままでぼんやりとしか分からなかった神を、はっきりと知るようになりました。光であるイエスによって光である神を見たのです。イエスのうちに光を見た人々は、イエスを信じ、イエスに従いました。
しかし、光を憎む人々がありました。彼らは、イエスから光を消し去ろうとしました。彼らは、イエスを捕まえ、縛り上げ、ローマ兵に引き渡し、ローマ兵はイエスの姿かたちが変わるほどに容赦なくイエスを鞭打ちました。しかし、イエスの光を消すことはできませんでした。イエスが十字架にかけれたとき、正午から午後3時まで、あたりが暗闇で覆われました。それはまるで、罪の暗闇がイエスの光に勝ち、光をかき消してしまったかのように見えました。しかし、ヨハネ1:5にあるように、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」のです。金曜日に墓に葬られたイエスは、三日目の日曜日に復活されました。イエスはご自分の死によって死を滅ぼされたのです。イエスは、ご自分を低くし、十字架にまで従い、陰府にまで降られましたが、それは、霊的に死んでいた私たちを、ご自分の復活ともに、よみがえらせ、私たちを、闇から光へと引き上げるためだったのです。
サンホセ鉱山の地底にいた人たちを救うために地上からカプセルが降ろされたように、神は、罪と死に閉じ込められていた私たちの救いのために天からイエスを下されたのです。鉱山の地底に閉じ込められていた人たちが、カプセルに乗って地上に引き上げられたように、私たちも、イエス・キリストを信じ、受け入れることによって、イエスによって、死から命へ引き上げられたのです。罪と死の暗闇から、神の栄光と命の光へと移されたのです。
三、光に移されて
では、闇から光へと移された私たちは、どのような者になったのでしょう。きょうの箇所は、こう言っています。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」「選ばれた種族」、これは、私たちの救いが、自分の努力や功績によるものではなく、神の恵みによることを教えています。「王である祭司」については、あとでお話しします。「聖なる国民」とは、罪を赦され、この世の悪から聖められたことを言っています。
そして、「神のものとされた民」とは、私たちがもはや、闇に支配される者ではなく、私たちを苦しめる者の奴隷でもなく、「神のもの」とされたことを言っています。コロサイ1:13に、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」とあります。私たちは今、「神のもの」であり、「キリストのもの」です。そうであるなら、誰も、私たちを神の手から奪い、キリストから引き離すことはできません。「神のもの」である私たちは完全に守られています。
さらに、ここで「神のもの」とあるのは、私たちが「神のもの」であるばかりでなく、神も「私たちのもの」であることを表しています。エレミヤ30:22に「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」とある通りです。私たちが神を信じ、「私はあなたのものです」と、自分を神に任せるとき、神もまた「わたしはあなたの神である」と言って、私たちにご自分をお任せになるのです。「私はあなたのもの、あなたはわたしのもの」――全能の主、聖なるお方に向かって、そんなふうに言ってよいのだろうか、あまりにも畏れ多いことでは…とさえ思ってしまいますが、神ご自身がこう言われるのです。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」(イザヤ57:15)聖なる、いと高いお方が、低い私たちと交わってくださることが書かれています。「神のものとされた民」、短く言えば、「神の民」という言葉が示している神との親しい交わりを、もっと感謝し、喜び、さらに深めたいと思います。
さて、ここで、「王である祭司」に戻ります。これは、イエス・キリストによって救われ、神の民となった者に与えられた努めについて教えています。その努めは、イエス・キリストが果たし、今もなさっておられるのと同じものです。「イエス・キリスト」の「キリスト」には、「油注がれた者」という意味があります。旧約時代、「油注ぎ」、つまり、神からの特別な任命を受けたのは、「預言者」と「祭司」と「王」でした。イエスは、預言者として、人々に神のみこころを解き明かし、今も、福音を伝える人々を通して語り続けておられます。また、祭司が人々の罪の赦しのために祭壇で犠牲を献げたように、イエスは、十字架という祭壇で、ご自分を犠牲として献げ、私たちのために罪の赦しを勝ち取ってくださいました。祭司たちが人々のために絶えずとりなしの祈りを捧げたように、イエスも父なる神の右の座で、全世界のためにとりなしておられます。王の役割は、国民を守り、導き、養い、育てることですが、イエスは、ご自分を信じる人々を、地上におられたときも、天に帰られた今も、守り、導き、養い、育ておられました。「王なる祭司」とは、じつにイエス・キリストのことなのです。そして、このキリストによって救われた私たちもまた、キリストとともに、「預言者」、「祭司」、「王」としての努めを地上で果たすのです。ここには「預言者」という言葉はありませんが、「それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」とあって、「告げ知らせる」という言葉の中に預言者の働きが記されています。
私たちはかつては闇でした。しかし、神の光に照らされて「光の子」となりました(エペソ5:8)。キリストが「世の光」であるように、私たちも「世の光」とされたのです。キリストが「預言者」として福音を宣べ伝えられたように、私たちも「小さな預言者」となって、自分自身の証しとともに神の言葉を人々と分かち合うのです。キリストが「大祭司」として、全世界のためにとりなし祈っておられるように、私たちそれぞれも、「家族の祭司」、「職場の祭司」、「身近な人々の祭司」となって、とりなしの祈りを続けましょう。キリストが「王」として私たちを守り、支えておられるように、私たちもまた、「王のしもべ」となって、人々に仕えたいと思います。
こうしたことは、どれも、自分の力で、頑張ってできることではありません。神の大きな救いの恵み、あわれみを知って、はじめて、イエスのお働きにあずかりたいととの願いが生まれ、ともに働いてくださるキリストの力に信頼してできることなのです。私たちを闇から光へ移し、神のものとしてくださった、神のあわれみ、キリストの恵みを、礼拝で深く心に刻みましょう。それによって、光の子としての使命を一つひとつ果たしていきましょう。
(祈り)
光の父である神さま、「光、あれ」と言われたあなたは、私たちをご自分の光で照らし、かつて闇であった者を「光の子ども」としてくださいました。それは、私たちが、この時代の光となって、あなたの深いあわれみ、大きな恵みを人々に証しするためです。私たちができることは小さなことかもしれませんが、あなたが用いてくださるなら、必ず、実を結び、結果をもたらします。そのことを信じて、この週も、具体的な一つのことから始めることができますよう助けてください。主イエスのお名前で祈ります。
11/3/2024