神の選び

ペテロ第一2:7-10

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2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。

 「選ばれる」というのは名誉なことです。学生であれば奨学生や交換留学生に選ばれたら、どんなにうれしいことでしょう。映画であればアカデミー賞を、レストランであれば三星を獲得すれば、大きな栄誉になります。日本では、いろいろな町や地域が、世界遺産に選ばれるようにと、懸命に運動しています。

 しかし、それらは人からの栄誉にすぎません。聖書は、イエス・キリストを信じる者は、すでに神から選ばれている、栄誉を与えられていると教えています。今朝の箇所は、信仰者が何ゆえ選ばれたのか、何に選ばれたのか、そして、何のために選ばれたのかについて教えています。

 一、選びの理由

 最初に「何ゆえ選ばれたのか」について考えましょう。イエス・キリストを信じる者たちは皆、神の言葉を聞き、自分が罪人であることが分かり、イエス・キリストが罪を赦し、罪からきよめるために十字架で死に、復活されたことを知りました。それを知識として知っただけでなく、心から罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、また主として信じ受け入れました。別の言い方をすれば、わたしたちが主を「選んだ」のです。

 ところが、主イエスはこう言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」(ヨハネ15:16)わたしたちがイエス・キリストを選ぶ以前に、主イエスがわたしたちを選んでいてくださったというのです。これは、わたしたちが信仰に導かれた背後に、神の導きがあり、支えがあったということを意味しています。もし、わたしたちが主イエスの手を握っているだけなら、自分の力が弱くなって、その手を離してしまうかもしれません。しかし、主イエスがわたしたちの手を握っていてくださるなら、たとえ、自分の力が弱くなっても、主イエスから離れることはありません。主の手を握り直すことができます。主が選んでくださった。これ以上の安心はありません。これが「選び」の恵みです。

 しかし、主イエスを信じる者が「選ばれている」というのは、何ゆえなのでしょうか。選ばれるに値するような立派なものがあったからでしょうか。そうではありません。ペテロは、自分の身を守るために、「わたしはイエスなんか知らない」と、自分の主を否定した人です。パウロに至っては、主イエスを信じる者たちを捕まえては投獄する迫害者でした。しかし、ふたりとも、主イエスの弟子としてばかりでなく、キリストの「使徒」として選ばれています。それは、神の選びが恵みとあわれみに基づいているからでした。パウロは「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(コリント第一15:10)「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである」(テモテ第一1:13)といって、神の恵みとあわれみをほめたたえています。

 すべての信仰者は神の恵み、あわれみにより選ばれています。7節にこうあります。「この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、また『つまずきの石、妨げの岩』である。」ここには、人々が、救い主イエス・キリストを受け入れなかった。いや、それどころか、この救い主を斥け、捨て去ったということが書かれています。8節には「しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである」とあります。「そうなるように定められている」というのは、たいへん厳しい言葉ですが、これは、イエス・キリストを信じるなら救われるという「福音」を聞いてもそれを受け入れなかったら、救いはないという意味です。唯一の救いの道を、自ら閉ざしたなら、そこに救いがないのは当然のことです。

 ところが、神は、神の言葉に心を閉ざしていた者たち、救い主を選ばなかった人々にも、御言葉を語り続け、信仰へと招き続けてくださいました。人が神を選ばずとも、神は人を選んでくださるのです。これが神の恵み、あわれみです。10節に「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」とあって、「選び」が神のあわれみによることが、はっきりと書かれています。この言葉はホセア1章からの引用です。預言者ホセアは、神の命令に従って、彼のふたりの子供に、それぞれ「ロ・ルハマ」、「ロ・アミ」と名付けました(ホセア1:6-9)。「ロ・ルハマ」とは「愛されない」、「ロ・アミ」というのは「わたしの民ではない」という意味です。これは、神からのメッセージでした。イスラエルは、神の民として神の特別な顧みを受けていたのに、神に背き、実質は神の民でなくなっていました。神は、預言者ホセアの家族を通して、そのような神の民に悔い改めを迫られたのです。

 そして、神は、悔い改める者に、こう約束されました。「しかしイスラエルの人々の数は海の砂のように量ることも、数えることもできないほどになって、さきに彼らが『あなたがたは、わたしの民ではない』と言われたそのところで、『あなたがたは生ける神の子である』と言われるようになる。」(ホセア1:10)旧約聖書でホセア書ほど見事に神のあわれみを描いた書物はないと言われます。ペテロはそのホセア書から引用することによって、神に逆らい、自らを滅びに定めてる人々に、神のあわれみが人を悔い改めに導き、神に立ち返らせ、救いを与えるということを教えているのです。

 なぜ、神はわたしたちを選んでくださったのか、わたしたちには完全に理解することはできません。しかし、はっきり言えることがあります。それは、神の選びが神の恵みとあわれみに基づいているということです。したがって、神のあわれみを求める者は、選びからもれることはなのです。神の選びが恵みとあわれみに基づいているからこそ、それは、信じる者の確かなよりどころとなるのです。

 二、選びの特権

 次に、「何に選ばれたのか」、つまり、どんな者になるために選ばれたのかを見ましょう。9節に「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である」とあります。ここに神の民が四つの名前で呼ばれています。それは「選ばれた種族」、「祭司の国」、「聖なる国民」、「神につける民」です。これらの名前は、神の選びがもたらす特権や約束、使命や役割を表わしています。順に見てみましょう。

 第一は「選ばれた種族」です。この「種族」という言葉には、「生み出されたもの」という意味があります。クリスチャンは、旧約の神の民にかわって神が生み出してくださった、新約の神の民ですが、旧約時代のように血筋によってではありません。どこの国の、どんな人であれ、イエス・キリストを信じ、聖霊によって新しく生まれた者が、神の民となるのです。ペテロ第一1:3に「神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせ」とあるとおりです。人は自分の力で神の民になることはできません。イエス・キリストを信じることにより、また、聖霊がもたらす「新生」によってはじめて、人は神の民となるのです。

 第二は「祭司の国」です。クリスチャンが祭司であることは、2:5にしるされていました。「聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえをささげなさい。」祭司には、神に近づく特権が与えられていますが、同時に、人々を神に近づけるという義務も与えられています。祭司は神と人との仲介者です。人々に神の言葉を伝えることによって神の代理者となり、人々に代わって神に祈ることによって人々の代理人となります。神の民であるということは特権だけではなく、義務でもあるのです。

 第三は「聖なる国民」です。神は、正しいお方、善いお方、また、愛に満ちておられるお方です。神は人を「神のかたち」に造り、ご自分の性質を人にお与えになりました。しかし、神が人間にご自分の性質をお与えになったとはいえ、それで人間は神と同じレベルに立ったわけではありません。神は完全で、不変で、永遠のお方ですが、人間にはさまざまな限界があります。神が「聖なる神」と呼ばれるとき、それは、神が人間とは区別された存在であることを表しています。「聖」とは、どんな混じりけもなく、純粋で、いっさいの汚れからまったく切り離されていることを意味する言葉ですが、それは神だけが持っておられるものです。

 人間にも義や善や愛がありますが、人の「義」は、どうかすれば、自分の正義を振りかざすだけのものになりかねません。また、人の「善」も、「独善」という言葉があるように、ひとりよがりなものになりやすいものです。そして、人は「愛」さえも歪めてしまいました。「愛」という言葉を使いさえすれば、何をしてもかまわないと言って、愛を身勝手なものや偏ったものにしてしまいました。人の義も、善も、愛も、不完全でゆがめられやすいものなのです。しかし、神の「義」は聖なる「義」、神の「善」は聖なる「善」、神の「愛」は聖なる「愛」です。神を人間や他のどんな被造物とも区別しているのが、神の「聖」というご性質なのです。

 聖なるお方は神おひとりであり、聖であることは神にのみ属することなのですが、神は、イエス・キリストを信じる者たちを「聖なる国民」としてくださいました。罪と汚れからきよめ、そのきよさが、その人の内側に成長していくようにしてくださったのです。ですから、クリスチャンは「聖徒」、「聖なるものたち」と呼ばれ、その思いにおいて、言葉において、また、行動において、さらに聖なる者になるようにと召されているのです。1:15に「あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」とある通りです。「聖なる者となる」、これは神の民に求められるものの中で一番大切なものです。

 第四は「神につける民」です。これは、「神のもの」「神の所有の民」という意味です。イエス・キリストを信じる人々は紀元40年までに「クリスチャン」と呼ばれるようになりましたが、「クリスチャン」と言う呼び名には「キリストのもの」という意味があります。キリストを信じる者は、「キリストのもの」となることによって、「神のもの」、「神の民」となるのです。

 三、選びの目的

 さて、神の選びについて、「何のゆえに選ばれたのか」と、「何に選ばれたのか」について考えてきました。最後に「何のために選ばれたのか」について考えてみたいのですが、その答えは、「何のゆえに選ばれたのか」、「何に選ばれたのか」ということの中に、すでにありました。神がクリスチャンを選ばれたのは、恵みのゆえ、あわれみのゆえですが、クリスチャンは、その神の恵みやあわれみを人々に示す者「あわれみの器」(ローマ9:22-24)として選ばれているのです。

 また、クリスチャンは「選ばれた種族」、「祭司の国」、「聖なる国民」、「神につける民」として召されました。これらの言葉は、クリスチャンが、自分たちだけが救われるためではなく、それによって、さらに多くの人が救われるために選ばれているということを教えています。クリスチャンは、神の選びが広がっていくために、先に選ばれたのです。クリスチャンは、自分たちが神に近づくだけでなく、人々を神に近づけるために選ばれているのです。9節に「それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」とある通りです。

 もし、クリスチャンが、この使命を忘れてしまうなら、「暗闇から光へ」、「死からいのちへ」と導き入れられた恵みを正しく理解することができず、その恵みを十分に受け取ることはできないでしょう。神の恵みは、それを他の人に伝えることによって最もよく受け取ることができるからです。

 韓国のある牧師は、「人は三度生まれる必要がある」と教えています。一度目は両親から生まれることです。二度目は、イエス・キリストを信じて神から生まれることです。三度目の誕生とは、クリスチャンとなってから、自分の使命を知って、その使命に生きるようになること、使命に生まれることです。わたしたちも「使命における誕生」を体験したいと思います。神の民として選ばれている者に与えられている使命を知り、それを実践し、神の選びの素晴らしさを証ししていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、イエス・キリストを信じる者を、 「選ばれた者」、「祭司」、「聖徒」、そして「キリストの者」としてくださいました。それは先に選ばれたものが、やがて選ばれる人々のためにイエス・キリストのことを語り伝えるためです。どうぞ、その使命に目覚め、それに生きることができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/26/2016