2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
2:25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
一、聖書の主題、イエス・キリスト
東京の台東区根岸に「金太郎飴本店」という飴屋さんがあります。そこで作られている「金太郎飴」は「東京名物」として親しまれているそうですが、わたしのこどものころはどこででも売っていました。長い棒になった飴で、ポキンと折ると、折ったところに「金太郎」の顔が現れるのです。今では「金太郎」だけでなく、様々な模様のものが作られており、ハロウィーン用のものまであるそうです。
聖書は、時代も場所も違ったところで書かれた66の書物から成り立っています。そこには歴史書、詩歌、手紙、預言書などさまざまな形の文書があります。ところが、聖書にはみごとな統一があります。それは、聖書の主題が、一貫してイエス・キリストであり、聖書のどの部分もイエス・キリストを指し示しているからです。「金太郎飴」と同じで、どこを開いても、そこにイエス・キリストが描かれているのです。
いま、わたしたちはペテロの手紙第一から「しもべたち」への教えを学んでいます。このあとには「妻たち」、「夫たち」への教えが続いています。ここは道徳や倫理、人間関係を教えているところなのですが、聖書の教える道徳や倫理、また、生活の指針は、たんに「こうしなさい」「ああしましょう」という教えや勧めではありません。それはイエス・キリストがどのようなお方であり、わたしたちのために何をしてくださったかに基づいた教えです。聖書では、イエス・キリストがどのようなお方であるかに基づいて、わたしたちがどうあるべきかが教えられ、イエス・キリストがわたしたちのために何をしてくださったかに基づいて、わたしたちが何をすべきかが教えられているのです。
たとえば、聖書は、わたしたちに「互いにゆるし合いなさい」と教えていますが、それは、たんに人の失敗を大目にみてあげましょう、互いに寛容でありましょうという教えではありません。聖書は、「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい」(エペソ4:32)と言って、人の「ゆるし」でなく、キリストの「ゆるし」を教えています。わたしたちがゆるすのは、わたしたち自身がキリストの「ゆるし」にあずかっているからです。キリストの「ゆるし」を願い求め、それを体験し、その恵みの中に生き続けることによってはじめて、わたしたちはお互いの間でキリストの「ゆるし」を実行することができるのです。
聖書の主題は、じつにイエス・キリストです。聖書が教えるどんな道徳、倫理も、すべてキリストに根ざしています。それが、この世の教えと違うところです。キリストから離れては、聖書のどの教えも正しく理解することができませんし、それを実行することもできません。聖書を読み、学ぶとき、そこに描かれているイエス・キリストを見落とすことがないようにしたいと思います。
二、苦難のしもべ、イエス・キリスト
使徒ペテロは、しもべたちへの教えをイエス・キリストの救いのみわざに基づいて教えています。しもべたちに、イエス・キリストを指し示しています。しかも、十字架の苦しみを受けたイエス・キリストを指し示しています。
ペテロ第一2:21 には「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(ペテロ第一2:21)とあって、「キリストは苦しみを受け…」と言っています。ここで「イエスは苦しみを受け…」ではなく、「キリストは苦しみを受け…」といわれていることは、とても意味があります。もし、この部分が「イエス・キリストが耐え忍ばれた十字架の苦しみに比べれば、あなたがたの苦しみはまだ小さいのだから、我慢しなさい」ということを教えようとしているのなら、「キリストは苦しみを受け…」というよりは、「イエスは苦しみを受け…」といったほうがよいでしょう。ペテロは、もっと別のことを教えるために、ここで、「キリストは苦しみを受け…」という言葉を使ったのです。
「キリスト」とは、聖書に預言され、人々が長い間待ち望んできた「救い主」をあらわす言葉です。救い主が世に来られた最大の目的は、人を罪から救い出すことなのですが、人々はそれがどうやってなされるのかを理解していませんでした。しかし、聖書は、旧約の時代にも、救い主がご自分を犠牲にすることによって、人を罪から救い出してくださるのだということを預言していました。罪人の身代わりとなって苦しみ、死んでいくことを、聖書の言葉で「贖い」と言います。自分の命を代価として差し出すことによって、罪のもとに売られてた者を買い戻すという意味です。聖書は、救い主キリストが、罪人の「贖い主」になってくださり、罪人のために苦しみを通られることを預言していました。ですから、「キリストは苦しみを受け…」というときには、たんなる苦しみではなく、それによって罪人であるわたしたちが贖われ、救われる苦しみが意味されているのです。
キリストのこの「贖いの苦しみ」を、最もよく預言しているのは、なんといっても、イザヤ53:5-9の「苦難のしもべ」と呼ばれている箇所でしょう。今朝の箇所(ペテロ第一2:22-25)と、イザヤ書53章はみごとに一致しています。最初にイザヤ書53章を、次にペテロ第一を読みますので、比べてみてください。
イザヤ53:9 「彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。」ペテロは旧約で預言されていた「苦難のしもべ」がイエス・キリストであると言っているのです。
ペテロ第一2:22 「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
イザヤ53:7 「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」
ペテロ第一2:23 「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」
イザヤ53:5 「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」
ペテロ第一2:24 「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」
イザヤ53:6 「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」
ペテロ第一2:25 「あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。」
イエスほど、不当な苦しみを受けた人はなく、あれほどの苦しみをあじわった人は他にありません。イエスが受けた苦しみに比べれば、たしかにわたしたちの受ける苦しみは小さいものです。しかし、ペテロはここで、苦しみの大小のことを言っているのではなく、イエスが受けた苦しみが「キリストの苦しみ」、わたしたち罪人を救うための苦しみであったということを言っているのです。不当な扱いを受けたら、それを何倍にしても返してやりたい、雇い主が不当なことをするなら、こちらも少々の不正をしてもかまわないなどというのは、みな、罪から来る考え方です。ペテロはしもべたちに、「イエス・キリストは、その罪から救うために苦しみを受けたのだ。だから、罪から来る考え方によってではなく、贖われ、救われた者として行動しなさい。とくに苦しむときは、イエス・キリストの苦しみが誰のためであり、何のためであったかを考えなさい」と教えているのです。
三、神の小羊、イエス・キリスト
ペテロは、イエス・キリストを「贖い主」、また「苦難のしもべ」として描き、しもべたちに、この「キリストの苦しみ」によって、贖われ、いやされていることをいつも覚えているようにと教えました。それは、軽んじられ、苦しめられることの多かったしもべたちに大きな励ましの言葉となりました。そして、この言葉は、紀元一世紀のしもべたちばかりでなく、現代のわたしたちにも、導きとなり力となっています。昔も今も、世の中は、不公平なことや不当なことで満ち溢れています。自分の失敗でも過ちでもないのに、非難されたり、不利益を被ることが多くあると思います。今までそういうことがなかったとしても、予期しない問題や苦しみにいつ直面するかわかりません。そんなとき、わたしたちが目を向けなければならないのは、イエス・キリストです。「キリストの苦しみ」が、わたしたちを罪から救う、「贖いの苦しみ」であることが分かるとき、わたしたちは、理不尽な出来事に苦しめられたとしても、それを乗り越えることができるのです。
イエス・キリストは、ご自分の死が、じつに「贖いの死」であることを覚え続けるようにと、「主の晩餐」を定めてくださいました。そして、教会はそれを守り続けてきました。古代には、晩餐式のとき、パンとぶどう酒がテーブルに準備される間、「世の罪を取り除く神の小羊、われらをあわれみたまえ」と歌い、祈りました。準備が終わると「世の罪を取り除く神の小羊よ、われらに平和をたまえ」の言葉で、祈りを終えました。わたしたちの讃美歌では、226番にこの祈りの歌があります。
罪なききよき み神の小羊
十字架の上に ほふられたまいぬ
われらの罪負い いのちを捨てし
ああ、主よ憐れみたまえや
罪なききよき み神の小羊
十字架の上に ほふられたまいぬ
われらの罪負い いのちを捨てし
ああ、主よ平和をたまえや
今朝の箇所には、「罪なききよきみ神の小羊」が指ししめされています。「その傷によって、あなたがたは、いやされた」とあるように、贖い主イエス・キリストは、ご自分が受けた傷によってわたしたちの傷をいやしてくださるのです。イエス・キリストの十字架と復活によってわたしたちは「たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、立ち帰った」のです。人生で何の問題にも出会わない人は誰もいません。どんな傷をも負わないで人生を送ることができる人も誰もいません。わたしたちはそれぞれに、さまざまな問題を抱え、その内面に傷を持っています。しかし、そのすべては、「傷つけられたいやし主」であるイエス・キリストによっていやされるのです。どんな問題も、わたしたちのたましいの牧者であるイエス・キリストのもとに帰るとき、このお方によって解決があるのです。神の小羊が示しておられる「あわれみ」を、これから行う晩餐式の中で見め、その苦しみを通して勝ち取ってくださった「平和」を味わいましょう。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちの目を開いて、聖書と聖晩餐によって示されているイエス・キリストを、あざやかに見せてください。イエス・キリストによって与えられるあわれみと平和を求めさせてください。わたしたちの贖い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/2/2016