自由な奴隷

ペテロ第一2:16-17

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2:16 自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。
2:17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。

 1517年10月31日、アウグスティヌス会修道士で、ウィッテンベルグ大学教授であったマルチン・ルターが、『95箇条の提題』を、教会の扉に貼り出しました。ルターはそれをラテン語で学問上の討論のために書いたのですが、たちまちドイツ語に訳され、印刷され、配布されました。それは多くの人の共感を呼び、そこから「宗教改革」が始まりました。その3年後、ルターは『キリスト教界の改善について』、『教会のバビロン捕囚について』、『キリスト者の自由について』の3つの著作を相次いで発表し、これらは、「宗教改革3大文書」と呼ばれるようになりました。

 その中で最もよく読まれているのは『キリスト者の自由について』でしょう。ルターは、その中でこう言っています。「キリスト者は、あらゆるものの中で、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。キリスト者は、あらゆるものの中で、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している。」最初の文と次の文と矛盾しているように見えますが、じつはそこに聖書の教える真理があるのです。

 一、罪の奴隷

 イエスは、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)と言われました。エペソ2:1-2には、「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」とあります。さらに、ヘブル2:14-15には、「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」とあります。私たちは、イエスを信じて救われるまで、罪と死に縛られ、その奴隷であったと教えられています。

 けれども、自分が罪に縛られていたことは、罪から救われるまでは分かりませんでした。救われた後で、はじめて分かりました。それまでは、自分に自由がなかったことさえも分からなかったのです。それは、独裁国家で生まれ育ち、情報が遮断され、自分たちの国のことしか知らない人が、自分たちが権力者の奴隷になっていることに気づいていないのと同じです。どの独裁国家も、人々をわざと貧しくしておき、人々を政府の援助に頼らせ、国民をコントロールしようとします。そんな国が現代も、この地球上にあるのですから、ほんとうにひどい話です。そんな国の人が、自由で豊かな国に行ったら、その人は、自分たちが国家の権力者奴隷にされていたことに気づき、自由がどんなに素晴らしいものかが身にしみて分かるようになるでしょう。

 アメリカは、世界に先駆けて自由を掲げた国です。アメリカでは、憲法修正第1条にある、信仰の自由、言論の自由、出版の自由、集会の自由、政府に請願する権利が保証されています。

 けれども、こうした自由は、人々が道徳的に正しい生活をしていることが前提になっています。正しい生活がくずれたら、自由は成り立たなくなります。アルコールやドラッグなど、さまざまな依存症の人々が、そうしたものに縛られ、その奴隷になっている現実がアメリカにあります。人々がそうしたものに手を出すのは、孤独や不安を解消しようとしてのことなのですが、薬物によってかえって情緒が不安定になり、普通の生活ができなくなるばかりか、人を傷つけたり、自分を傷つけたりするようになるのです。自由な国にいながら、依存物に縛られ、奴隷となっている。豊かな国にいながら、薬物のためにお金を失い、仕事を失っている。どんな人も分け隔てなく暮らすことができる国にいながら、社会生活ができなくなっている。独裁国家だけなく、また、過去の時代だけでなく、今のアメリカに様々なものに縛られ、その奴隷となっている人が大勢いる。それは、聖書がいう「罪の奴隷」が目に見える形で表れたものの一つであろうと思います。

 二、罪からの解放

 そのように、罪の奴隷だった私たちでしたが、イエスを信じることによって、罪の奴隷から解放され、自由な者とされました。イエスはそのことを二つのことによって成し遂げてくださいました。

 その第一は、イエスご自身が神のしもべ、奴隷となることによってです。私たちは、毎週、「使徒信条」でそのことを言い表しています。使徒信条は、父なる神、子なる神、そして、聖霊なる神への信仰を、それぞれに告白していますが、その中心は御子イエス・キリストへの信仰です。使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」ではじまりますが、じつは、次の「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」の前に、原文では、「そして」という言葉が入っています。父「と」御子を信じる。それは、御子イエスが全能の父なる神と等しいお方、どんな造られた物とも区別され、それよりも高く、偉大な主権者であり、栄光の内におられる神であることを言っています。

 ところが、その神であるお方が、「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」、人となられました。人々から仕えられるためではなく、人々に仕えるために、しもべとなられました。イエスご自身がこう言っておられる通りです。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)

 イエスは罪のないお方、完全にきよいお方なのに、罪人の友となってくださいました。当時、最も汚れた者とされていたらい病の人たちに手で触れて癒やし、全身できもので覆われた人を抱きしめて癒やされました。イエスは悪霊に憑かれた人を解放するために、その人がいた外国の地、その人が住んでいた墓場にさえ行かれました。それは皆、罪の奴隷となっている者を救うためでした。水に溺れている人を救うには自分も水に飛び込まなければなりません。泥にまみれている人を救うのも同じです。服が濡れるから、汚れるからなどと言ってられません。イエスは、私たち罪人と同じ立場にまで低くなり、泥まみれになって、私たちを罪の泥沼から救ってくださいました。

 もう一つのことは、使徒信条が「十字架につけられ」と言い、イエスが「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために」と言われたように、ご自分の命を与えることによってです。奴隷は、人格を認められず、商品のように金銭で売り買いされました。奴隷から解放され、自由人になるには、「贖い金」を支払う必要がありました。奴隷が自分でそのお金を貯めることもありましたが、それができたのは限られた人たちだけでした。「贖い金」が貯まる前に生涯を終えてしまう奴隷も多かったのです。しかし、誰かが、自分のために「贖い金」を支払ってくれれば話は別です。その奴隷は、晴れて自由の身になれるのです。

 イエスがその「誰か」です。実際の奴隷の場合はお金で解決できましたが、罪と死の奴隷が解放されるためには、それ以上のものが必要です。そのためにイエスは、十字架の上で、自らを罪のためのいけにえとし、血を、つまり命をささげてくださったのです。ペテロは、こう言っています。「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(第一ペテロ1:18-19)

 私たちは、イエスの贖いによって罪と死の奴隷から解放されました。ルターが「キリスト者は、あらゆるものの中で、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない」と言ったのはこのことなのです。

 三、キリストのしもべ

 私たちは自由にされました。どんなものにも縛られず、自分の意志の通りに行い、自分が選ぶ通りのことを行うことができるようになりました。では、私たちは、何者にも束縛されずに、好きなように振る舞えばよいのでしようか。もし、そんなことをすれば、自己中心で、勝手きままな振る舞いをし、またもや、罪の奴隷になってしまいます。ですから、聖書は、こう教えています。「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。…以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。」(ローマ6:17-19)「罪」の反対は「義」です。罪と義の間に中間点などありません。「罪の奴隷」であるか「義の奴隷」であるかのどちらかです。罪からの自由とは、罪から義に移されることです。

 出エジプト記21:5-6に「耳を刺し通された奴隷」の規定があります。奴隷が、自由の身になっても、主人の家にとどまりたいと申し出たなら、主人はその人を家の柱のところに連れていき、きりで彼の耳を刺し通すのです。そうすると、彼は、自分の意志で主人に仕える者となって、その家にとどまることができます。これはクリスチャンの姿を表しているように思います。イエスが私たちの罪の負い目のすべてを支払って、私たちを贖ってくださったので、私たちは自由になりました。けれども、自由になったからといって、誰がイエスのもとから離れたいと思うでしょう。私を自由にしてくださったお方のもとにいて、このお方に仕えたいと願うのは当然のことです。私たちは自由な身となり、その自由によって、キリストのしもべとなることを選んだのです。

 キリストのしもべとなった私たちは、キリストが私たちのしもべとなって私たちに仕えてくださったように、人々のしもべとなって仕えます。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)とあるように、キリストによって与えられた自由を用いる最善の方法は「愛をもって互いに仕え合う」ことです。パウロはそう教えただけでなく、自ら、そのことを実践して、自分の権利を主張することなく、進んで人々に仕えました。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました」(コリント第一9:19)と言っている通りです。ルターが「キリスト者は、あらゆるものの中で、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している」と言ったのはそのことです。

 ペテロも、きょうの箇所で同じことを教えています。「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」「しもべ」となって神に従う。そこに本当の自由があります。神のしもべは、「すべての人を敬い」、「兄弟たちを愛し」、「神を恐れ」、「王を敬い」ます。「神を恐れる」ことは、信じる者にとって、ある意味では容易いことです。神は、じつに、私たちが恐れ、うやまうべきお方だからです。しかし「すべての人を敬う」といっても、その中には、自分に敵対する人や、不誠実な人だっているわけで、そういった人も「敬う」のは難しいことです。「兄弟たち」、つまり信仰の仲間にも、自分と意見の違う人や、しっくりこないタイプの人もいるわけで、「愛しなさい」と言われても、簡単ではないこともあるでしょう。「王」は、現代では、地位や立場のある人たちに置き換えていいと思います。たとえ、その人自身を好きになれなくても、その地位や立場のゆえに、それにふさわしい敬意を払うことは必要なことでしょう。けれども、どれも簡単なことではありません。それを実行するためには、キリストがどのようにして「神のしもべ」となられたかをよく考え、私たちの思いが、しもべとなられたイエスの思いと一つになり、キリストに倣う歩みができるようになる必要があります。そうして、これらのことが実行できるようになるのです。

 宗教改革から500年、ともすれば、「自由」だけが強調され、行き過ぎている現代、また、アメリカですが、聖書が教えるように、キリストにある自由は、神と人とに仕えることによって最も有効に用いられることを、常に教えられたいと思います。そして、イエスからの力をいただき、それを実行したいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちを罪の奴隷から解放し、あなたの子どもとし、自由な者としてくださいました。そして、それとともに自由を守り、生かす道が、あなたの「しもべ」となって生きることにあるのだと、教えてくださいました。私たちにはすでに、イエスの模範があり、使徒たちの実例があり、私たちの身の回りにも、あなたのしもべとして人々に仕えている多くの人々がいます。そうした人々に目を向け、良い模範に倣う者としてください。私たちの主でありしもべであるイエス・キリストのお名前で祈ります。

10/27/2024