2:13 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
2:14 あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
2:15 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
2:16 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
2:17 すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
わたしたちは、ペテロの第一の手紙2章から、イエス・キリストを信じる者が神の民であることと、神の民が、この世にある間どのように生きるべきかを学んでいます。きょうの箇所には、「自由人にふさわしく行動しなさい」(16節)とあって、神の民が「自由人」と呼ばれています。神の民に与えられた「自由」とはどのようなものなのか、それは、どのように与えられるのか、そして、それをどう用いるべきかをご一緒に考えてみましょう。
一、神の民の自由
最初に、神の民が「自由人」と呼ばれていることから学びましょう。古代には「自由人」と「奴隷」の二種類の身分がありました。戦争に勝った国の人々が「自由人」となり、負けた国の人々が「奴隷」となったのです。負けた国の人たちは、たとえ王族、貴族であったとしても、その身分がはぎとられ、奴隷にされたのです。
新約聖書の時代、イエス・キリストの福音はローマ帝国のあらゆるところに宣べ伝えられ、自由人も奴隷もイエス・キリストを信じました。教会には自由人も、奴隷の身分の人もいましたが、聖書は、16節で「自由人にふさわしく行動しなさい」と言って、クリスチャンすべてを「自由人」と呼んでいます。なぜでしょう。それは、イエス・キリストを信じる者は、その社会的な身分にかかわらず、すべて自由な神の民だからです。コリント第一7:22に「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである」とある通りです。イエス・キリストにある者は、たとえ身分は奴隷であっても、そうしたことに縛られず、その精神においても、人としての生き方においても、自由な者とされたからです。また、たとえ自由人であったとしても、イエス・キリストこそすべての主であると信じ、キリストに忠誠と服従を誓う者は、キリストの奴隷なのです。
旧約時代、神がイスラエルをご自分の民とされたとき、イスラエルはエジプトで奴隷でした。神は、ご自分の民が奴隷のままでいることをお望みにならず、ご自身の大きな力でエジプトを懲らしめ、イスラエルをエジプトから解放し、自由な民とされました。同じように 新約時代の神の民もまた、イエス・キリストの救いによって、罪と死の奴隷から解放され、自由人とされたのです。救われるということは、束縛から解放され、自由を得ることです。イエス・キリストを信じる者は罪から解放され、自由を得たのです。神の民とされるということは自由人になるということなのです。
二、信仰による自由
では、わたしたちはこの自由は、どのようにして自分のものとすることができるのでしょうか。それは、人は罪の奴隷であり、自分の力ではそこから抜け出すことができないということを知ることからはじまります。
主イエスはユダヤの人々に「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)と言われました。すると、ユダヤの人々は、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない」(ヨハネ8:33)と言って、イエスに反論しました。しかし、実際は、アブラハムの子孫、イスラエルはエジプトで奴隷でした。エジプトから救われた人々はやがて国を作りましたが、その国も、アッシリヤやバビロンに滅ぼされ、人々はバビロンの捕虜となっています。その後、ユダヤはペルシャやシリアの属州のひとつとなり、イエスの時代にはローマの属国となっていました。「人の奴隷になったことなどは、一度もない」というのはほんとうではなかったのです。ユダヤの人々は、自分たちのほんとうの姿を見たくないために、自分の国の歴史まで歪めてしまったのです。
「自分たちは奴隷ではない」と言い張る人々にイエスは言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」(ヨハネ8:34)多くの人は、クリスチャンでさえ、聖書が教える「罪」と向かい合うのを避けようとします。しかし、それを避けていてはほんとうの救いはありません。神の御子が人を罪の奴隷から解放するために捧げてくださった犠牲が無駄になってしまうのです。
人が「罪の奴隷である」というのは、なにも、テロリストになるとか、薬物に溺れしまうなどということばかりではありません。たとえ、善良な人であっても、社会的な立場のある人でも、時としてとんでもない犯罪を犯してしまうことがあります。人の内面には罪の性質があり、その力が働いていて、ふとしたときにその性質が外に表れたり、その力に負けたりして、そのような犯罪になるのです。聖書がいう罪とは「犯罪」のことだけではありません。たとえ犯罪となって表れなくても、また、口にすることがなく、態度で示したこともなく、実際に行ったことでなくても、それは罪です。聖書は、人の内面の中にある罪の性質とその力を指して「罪」と呼んでいます。
パウロは、道徳的、宗教的に何の問題もない人でした。しかし、彼は、真理の光に照らされたとき、自分の内面にある罪に気づいて、こう言いました。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。…わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ローマ7:15, 18, 19, 24)皆さんも、神の言葉を聞き、聖なる神を知るなら、パウロのこの葛藤が分かるはずです。パウロのような葛藤がないとしたら、その人はまだ自分の罪に気づいていないのです。そして自分の罪に気づかなければ、同じ罪を繰り返し犯してしまいます。無意識に犯す罪は、悔い改めることができませんから、その人は知らず知らずのうちに罪の奴隷になってしまうのです。
多くの人は、自分は完全ではないにしても、全く無力な者だとは考えていません。すこし短気なところを改善すれば、忍耐の足らないところを補えば、なんとかやっていけると信じています。そして、神を信じるということは、そうした自分の弱点を補ってもらうこと、欠点を正してもらうことだと考えています。したがって信仰とは、ほとんどの部分を自分の力で行い、なお足らないところを神に補ってもらうということになってしまいます。しかし、そのようにして救われた人、罪から自由になった人は誰もありません。人は、すこしばかりの努力を加えたところで、とうてい神の栄光には届かないところにいるのです。人は自分で自分を救うことはできません。自分で自分を解放することはできません。救い主が必要なのです。その救い主こそイエス・キリストです。自分の罪と無力を認め、全面的にイエス・キリストに信頼するとき、わたしたちは、ほんとうの自由、罪からの自由を得るのです。
三、自由の用い方
最後に、信じる者に与えられた自由の用い方について学びましょう。いつの時代も「自由」がはき違えられ、自分の好きにすることが「自由」だと誤解されてきましたが、今の時代がいちばんそうかもしれません。アメリカは「自由」を求めた人々によって作られた国ですが、建国の父祖たちが求めた「自由」は決してわがままな自由ではありませんでした。それは聖書が教える自由でした。聖書は、「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と教えています。神の民に与えられた自由は「罪からの自由」であって、「罪を犯す自由」でないことは、言うまでもありません。神の民に与えられた自由とは、罪から離れ、神に向かっていく自由です。信仰者に与えられた自由は、キリストを主と呼んで、キリストに従い、キリストに仕える自由なのです。クリスチャンは、神から与えられたこの自由を正しく用いることによって、キリストがくださる、ほんとうの自由を証ししていきたいと思います。
イエス・キリストを信じる者は、天の国民で、この世では「旅人」です。しかし、この世で「旅人」であるからといって「旅の恥はかき捨て」のような生き方はしません。クリスチャンに与えられた自由はそんな自由ではないからです。クリスチャンは、それが神に逆らうものでない限り、その国の権威に従い、義務を果たします。いや、それ以上に、自分の国を愛し、そのために祈ります。今朝の箇所に「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい」(13-14節)と教えられている通りです。
これは、今の時代にも通用する教えです。教会で教えることや、礼拝の内容は、神によって定められるものであって、政治や行政が介入すべきものではありません。しかし、教会の建物は建築コードにかなっていなければなりませんし、教会の会計は州の法律に従って適正に運用されなければなりません。また、保険や著作権の規則にも従う必要があります。「教会だから適当でいいじゃないか」というのでなく、教会だからこそきちんとルールを守らなければならないのです。
日本でのことですが、わたしは、牧師が急に辞めた教会で、次の牧師が来るまでの間、臨時牧師として働いたことがあります。わたしたちがその教会に行って幾日もたたない時、隣の家の奥さんが教会にどなりこんできました。その家の人と教会との間には長い間、地境の問題があって、対処してくれるように何度も話したのに、教会から誠意のある返事をもらえなかったということでした。その他にも、15年間も持ち続けていた様々な苦情を申し立ててきました。隣の奥さんがどなりこんで来たとき、私は留守をしていましたので、家内が応対しました。家内はその人の話をよく聞いて、迷惑をかけていたことをお詫びしました。それ以来、隣の奥さんと家内は親しくなり、いっしょにお茶をいただく間柄になりました。それからは、わたしたちにいろいろ良くしてくださり、その人たちが引越すときには、家具を、何でもいいからもらってくださいと言われ、教会のために応接セットをいただきました。しかし、一番うれしかったことは、この人たちが教会に対する誤解をときほぐされて引っ越していかれたことです。わたしと家内は「間に合って良かったね」と言って、感謝しました。
これは、ちいさな証しにすぎませんが、わたしたちはどこの教会で奉仕しても、同じようなことを数多く体験してきました。神を信じ、神に従うこと、神の国の国民として生きることは、同時に良き市民として生きること、ノンクリスチャンの隣人を大切にして良いかかわりを持つことでもあるのです。そのようにして信仰者たちは、神にも喜ばれ、人にも喜ばれるものになり、それを通してイエス・キリストの福音を伝えていくことができるのです。
「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。」(16-17節)今朝の聖書は、とても具体的な教えです。皆さんがもうすでに実践していることです。しかし、ほんとうの意味でこの御言葉を実行していくことは、自分の力ではできません。人を罪から解放するイエス・キリストの救いの力が必要です。「神のしもべにふさわしく行動しなさい」の「しもべ」は原語では「奴隷」という言葉が使われていますが、神に信頼し、服従する「しもべ」となることによって、真に「自由」な者になることができることを忘れずに、歩みたいと思います。
(祈り)
主なる神さま、あなたは、かつては罪の奴隷であった、わたしたちを、御子イエス・キリストの救いによって、あなたの民、あなたの子どもとしてくださいました。あなたの民として自由にあなたに近づくことができ、あなたの子どもとして、あなたの愛を注いでいただいている幸いを感謝します。わたしたちに、なおも、この自由を正しく用いる道を教えてください。そして、それによって神の民としての使命を果たしていくことができるよう、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/10/2016