2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。
2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
2:14 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
2:15 というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
2:16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
2:17 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
きょうは 4th of July, Independence Day です。この日が日曜日になるのは何年に一度しかなく、この前は2004年でした。そのとき「6年後の2010年には、フラッグセレモニーもできたらいいかなと思っています。」と話したのですが、実現しませんでした。私が考えていた「フラッグセレモニー」というのは、こどもたちに国旗を掲げて入場してもらい、みんなで Pledge of Allegiance を唱えるというものでした。国旗への忠誠のことばは、きょうの礼拝プログラムにはさんでおきました。学校で唱えるので、みなさんのこどもたちのほうが良く知っているかと思います。
その下に書かれているのは、クリスチャン・フラッグへの忠誠のことばです。テキサスにいたころ、初めてこれを知り、いいなあと思いながら、今までみなさんに紹介する機会がありませんでした。たいていのプロテスタントの教会のステージには、皆さんから見て左側にアメリカン・フラッグ、右側にクリスチャン・フラッグがあります。国旗は、ステージに立つひとが右手で指し示すことができるように置くという規則がありますので、みなさんから見て左側にあるのです。クリスチャン・フラッグは、長い年月、ここにこうしてあるのに、誰も見たことがないと思いますので、お見せしましょう。白地の左上に青い四角があって、その中に赤い十字架がついています。クリスチャン・フラッグの赤、青、白の三色はアメリカン・フラッグの赤、青、白と同じですが、それぞれに意味があります。赤い十字架はイエス・キリストがそこで流された血の色であり、御子のいのちまでも差し出してひとを愛してくださっている神の情熱的な愛を表わします。青は忠誠の色です。神の愛を知った私たちはこの神の愛に答えて、神とキリストに忠誠を誓うのです。そして白は、神の栄光と栄光の御国を表わしています。私たちは神の栄光のために生き、神の御国の民として生きるのです。
クリスチャン・フラッグへの誓いのことばは次のとおりです。
I pledge allegiance to the Christian Flag and to the Savior for whose
Kingdom it stands. One Savior, crucified, risen, and coming again with life
and liberty to all who believe.
(それが表している御国のゆえに、私はクリスチャン・フラッグと救い主に、従順な心を誓います。おひとりの救い主は、十字架につけられ、よみがえられ、ふたたびこられます。信じるすべてのものに命と自由を与えるためです。)
一、天の国民
教会にクリスチャン・フラッグとアメリカン・フラッグの二つが飾られているのは、すべてのクリスチャンが、神の国と地上の国の両方に国籍を持っているということを示しています。今朝の聖書の箇所の少し前に「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(ペテロ第一2:9)とあるように、イエス・キリストを信じるものは神の国の国民です。聖書のほかの箇所には「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)とも書かれています。アメリカでは、この国で生まれれば、アメリカの国籍を持つことができます。同じように天の国籍も、私たちが聖霊によって新しく生まれ変わることによって与えられます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)とあるように、キリストを信じる者は神の子どもとして天に生まれるのです。天国に生まれた者に天国の国籍がないわけがありません。神の国の王の子どもとして、ロイヤル・ファミリーに生まれるのです。神の国の国籍がないわけはありません。アメリカの場合は、他の国の人でも移民としてアメリカに来て、市民権を申請すれば、アメリカの国籍を得ることができます。しかし、神の国、天国の場合は、「出生による国籍」しか認められません。イエスが「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われたのはそのことです。
教会は、神の国の大使館のようなところです。中国にあるアメリカ大使館に一歩入れば、そこには中国の主権はもう及びません。大使館の内部はアメリカの主権が及ぶところ、そこは小さなアメリカです。そのように、世界中の教会は、神の国の大使館なのです。外国にいても自分の国の大使館に行けば助けを得られるように、神の国の国籍を持っているものは、地上にあっても、教会で天国の助けを受け取ることができるのです。
教会はたしかに、その地域の法律の規制を受けます。教会の建物や会計の運用方法などは州や市によって規制を受けますが、教会の教えや、礼拝、まじわりはそうではありません。それは、神から与えられたものであり、国や州、市によって定められるものではなく、神のことばによって定められるものです。教会は天国の大使館であり、そこはキリストの主権のもとにある場所です。神の国の国民は、どこの国の人であっても、教会ではみなひとつなのです。
私がはじめて来たアメリカはテキサスでした。そのころは、カリフォルニアのように日本語が通じるところや日本食が手に入るところはほとんどありませんでした。インターネットも、衛星放送もなく、まったく日本から断絶されたような状態でした。けれども、英語の教会であっても、そこに行くと、まるでふるさとに帰ったような気持ちになりました。ことばは違っても、日本で歌っていたのと同じ聖歌が歌われ、慣れ親しんだ神のことばが朗読されており、すこしもさみしい気持ちにはなりませんでした。たとえそこがアメリカ人ばかりのところであっても、私が日本から来たばかりであっても、同じ神の国の国民として、同じ賛美を歌い、同じみことばを聴くよろこびがありました。イエス・キリストを信じて神の国に入れていただけたこと、神の国が私の愛する祖国であることのよろこびを、私は日本にいたときよりもアメリカに来て、もっと強く感じることができました。皆さんもそうではないでしょうか。
ヘブル11:16に「天の故郷」ということばがあります。天はキリストを信じるものたちの共通のふるさとです。キリストを信じるものたちは、たとえ肌の色や、ことば、国籍は違っても同国人、同郷の人たちです。アメリカに来ると同郷の人をなつかしく思うのですが、同じ信仰を持つものたちには、はじめて会う人でもおなじ祖国を持つものとしての親しみを感じます。神の国はクリスチャンのまだ見ぬ祖国です。私たちはまだ神の国を見ていません。天で生まれると同時に、この地上に送り出されたからです。しかし、こころの中に、まだ見ぬ祖国へのあこがれが植えつけられています。それで神の国を求め神の国を目指して歩むのです。小さな神の国である教会に集い、そこでやがて来る大きな神の国を味わい、互いに励ましあって天のふるさと、すべての信仰者の祖国にむかって旅するのです。
二、地上の国民
それで、聖書は「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(11節)と言うのです。信仰者は地上では旅人、寄留者です。しかし、それは、「旅の恥はかきすて」などといった無責任な態度で良いということを意味しません。自分たちは神の国の国民だから地上の国の法律にしたがわなくても良いということではないのです。神の国の国民だからこそ、信仰者は自分の国を愛し、そこでの責任を果たさなければならないのです。聖書は「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」(13-14節)と教えています。
これは、今の時代にも通用する教えです。教会の建物は市の建築コードにかなっていなければなりませんし、教会の会計は州の法律に従って適正に運用されていなければなりません。「教会だから適当でいいじゃないか」というのは違うと思います。教会だからこそきちんとルールを守らなければならないのです。私が東京で臨時牧師の仕事をはじめたとき、教会の隣の家の奥さんが教会にどなりこんできました。その教会では、長年教会の外に向かってスピーカーをつけ、教会の宣伝をしていたので、近所の人々が騒音に閉口していたと言うのです。いくら、賛美歌や聖書のことばを聞かせたいということであっても、それが「騒音」になってしまっては、伝道になるどころか、かえって人の心を閉ざしてしまいます。神の国の国民が地上の国の良き市民であることは、神の国がひろがっていくためにも大切なことなのです。
隣の奥さんがどなりこんで来たとき、私は留守をしていましたので、家内が応対しました。家内はその人の話をよく聞いて、迷惑をかけていたことをお詫びしました。それ以来、隣の奥さんと家内は親しくなり、隣の奥さんといっしょにお茶をいただく間柄になりました。そのご主人は今、話題になっている日本相撲協会の役員をしていて裕福な方でしたので、私たちにいろいろ良くしてくださり、その人たちが引越すときには、家具を、何でもいいからもらってくださいと言われ、教会のために応接セットをいただきました。神を信じ、神に従うこと、神の国の国民として生きることは、同時に良き市民として生きること、ノンクリスチャンの隣人を大切にして良いかかわりを持つことでもあるのだと思います。そのようにして、信仰者たちは、神にも喜ばれ、人にも喜ばれるものになり、その中で神の国の福音を伝えていくことができるのです。
しかし、神の国の国民であることと、地上の国民であることが、いつでも問題なく進んでいくとはかぎりません。ときには、神の国と地上の国との板ばさみになることもあるのです。
山崎豊子さんの書いた『二つの祖国』という小説は、ロサンゼルスで生まれた主人公、賢治という青年が主人公で、賢治が日本とアメリカという二つの祖国の間で苦しみながら生きていく姿を描いています。賢治は日本の大学を卒業したあと、アメリカに戻り日本語新聞「加州新報」の記者になりますが、そんなとき、日本とアメリカとの戦争がはじまりました。賢治とその家族はマンザナ収容所に入れられます。収容所の中でも、日本の勝利を信じて疑わない人々がいたて騒動があり、二世たちがアメリカへの忠誠を示すためアメリカ軍に入隊していきました。賢治と弟勇はアメリカ軍に入隊し、もうひとりの弟忠は日本の大学に在学中日本軍に徴兵され、兄弟三人がそれぞれの運命をたどるという物語です。これは伊丹明という実在の人物をモデルにしたものだそうでが、このように、一世、二世は、日本とアメリカというふたつの祖国の間で苦しんできました。日本語を話さなくなった三世のひとたちでさえ、自分の中に日本人とアメリカ人のふたつの自分があって、いつも綱引きのように、あっちに行ったり、こっちに来たりしているという心の葛藤があると、何人もの三世の人たちから聞かされたことがあります。
天国と地上の国という二つの国の間の葛藤は、日本とアメリカとの間にある葛藤よりもおそらく強いものでしょう。初代教会の人々は、ローマの神々を礼拝しなかったので、「無神論者」と呼ばれて非難されました。皇帝礼拝を拒否したために財産を奪われたり、命を奪われた人々も多くいました。しかし、それでも彼らは、神の国の国民であることを捨てせんでした。皇帝を取るかキリストを取るかと問われたとき、ためらうことなく、「キリストは主です」と答えました。彼らはローマの良き市民として生きました。自分の国を誇り、愛しました。しかし、キリストが皇帝にまさるお方であることを知っており、、地上の国よりも神の国を常に第一に求めるべきものとしました。
日本の代表的なキリスト者のひとり、内村鑑三については皆さんもよくご存知でしょう。内村鑑三が第一高等中学校の教員となった年に、教育勅語が発布されました。翌年、教育勅語の奉読式というものが行われたのですが、そのとき、天皇が自らなした署名に対して最敬礼をおこなわなかったことが社会問題化しました。明治24年(1891年)1月9日のことで、世に言う「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」です。内村鑑三は敬礼を行なわなかったのではなく、敬礼のしかたが十分でなかったというので、当時、キリスト教をこころよく思わなかった国粋主義者から叩かれた不幸な事件でした。内村鑑三の心の中にはキリストがすべてのものの主であることへの堅い信仰がありました。しかし、だからといって、内村鑑三は彼の時代の日本の主権者にたいする敬意を表さなかったのではありませんし、日本を愛さなかったわけでもありません。内村鑑三はキリストを愛するのと同じように日本を愛しました。日本の多磨霊園に内村鑑三の墓がありますが、そこには "I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God." (私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために。そして、すべは神のために)と刻まれています。真剣に神の国の国民として生き、また日本の国民として生きた、ひとりのキリスト者のこのことばは、二つの祖国に生きる信仰者たちに歩むべき道を示しているように思います。
きょう、アメリカは、1776年の独立宣言から234年目の誕生日を迎えました。アメリカはまだまだ若い国です。世界中から集まった人々によってこの国は成り立っています。市民権のあるなしにかかわらず、アメリカに住む信仰者として、私たちは、この若いアメリカを育てていく責任があります。また、アメリカのために貢献できる特権が与えられています。きょうは Independence Day、アメリカの独立を祝う日ですが、本当の独立(independence)は、神への信頼(dependence)によって成り立ちます。神の国のために、アメリカのために、二つのフラッグの前で常に神への信頼を求め、祈り続けていきましょう。
(祈り)
父なる神さま、アメリカの自由と独立を祝うこの日に、私たちは、あなたが、キリストを信じる者を罪と死とほろびから救い出してくださり、自由を与えてくださったことを覚えます。まことの独立は、あなたへの信頼に基づいています。建国の父たちが、あなたへの信頼の中に、アメリカの基礎を据えました。私たちも、神を愛し、自分の国を愛し、自分の住むところで、あなたの御国の民として生きていくことができますよう、助けてください。神の国の民であることと、世に生きることとの間に葛藤を覚えることが多くありますが、その中で神の国を第一とする選択ができますよう、私たちを導き助けてください。キリストのお名前で祈ります。
7/4/2010