生ける望み

ペテロ第一1:3-5

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1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。

 「ペテロの第一の手紙」を学びはじめ、先週は1:1-2を学びました。きょうはそれに続く部分を学びますが、中心は3節だけになります。ここを「ほむべき神」、「イエス・キリストの父」、そして「希望の源」という順で学ぶことにします。

 一、ほむべき神

 まず、神は「ほむべき方」と呼ばれています。これはギリシャ語で「ユウロゲートス」と言い、「ユウロゲオー」という動詞から出た言葉です。「ユウロゲオー」には「良いことを言う」という意味がありますが、たんに口先でお世辞を言うということではなく、まごころから、相手に善意をもって、いや善意以上のもの、深い愛情を込めて接することを意味しています。神が「ユウロゲートス」と呼ばれるのは、まず、神がわたしたちに「良い言葉」、優しく温かい言葉を語りかけ、良いことをしてくださるお方だからです。神は、わたしたちがまだ神に背を向けていたときから、「わたしはあなたの罪を赦し、あなたを受け入れる。わたしはあなたの救いになり、あなたはわたしの者になる」と、わたしたちに語り続けてくださっていました。ほんとうなら、聖く、正しい神の前には決して立てないような者たちに、神は、哀れみと、恵みと、慈しみをもって接してくださったのです。わたしたちはと言えば、身近な人に対しても、ときに、腹を立てたり、不機嫌になったりする者です。しかし、神は、わたしたちに変わることなく、良い言葉をかけ、いつも良くしてくださっています。わたしたちは、そのことを日々の生活の中で体験していることと思います。

 神が「ユウロゲートス」と呼ばれるのは、次に、神こそ、わたしたちの最高、最大のほめ言葉を受けるのにふさわしいお方だからです。わたしたちは、多くの人々に支えられて生きています。とくに、苦しいときに助けてくれた人、励ましてくれた人のことをありがたく思います。優れた人に出会うとき、憧れや賞賛の気持ちを持ちます。そうしたことは人として当然のことです。しかし、神を知っている者たちは、人に感謝し、人につながるだけではなく、そうした人々を通して助けの手を差し伸ばしてくださった神を覚え、神に感謝します。神とつながり、神に頼ります。神を見上げて、神をほめたたえます。日常の中で受けた恵みへの感謝を、その与え主である神のところに持ち帰って、神に良き言葉をささげる、それがわたしたちの礼拝なのです。

 「ほむべき」というのは英語で“Blessed” と言います。 “bless” には、神がわたしたちを祝されることと、わたしたちが神を祝することとの二つの意味があります。礼拝とは、神がどんなにわたしたちを祝してくださっているかを知って、それに応えて、わたしたちも神を「祝す」ことです。礼拝は、神がどのようなお方かを知らなくても、意味が分からなくても形さえ守っていれば良いというものではありません。神がわたしたちにどんなに良くしてくださったかを知り、そのことに心を動かされて、「ほむべきお方」を、良き言葉をもってほめたたえる、それが礼拝です。ペテロの手紙の本文が、神をほめたたえる言葉から始まっているように、わたしたちの一週間を神をほめたたえる礼拝から始め、また、一日を神をほめたたえる祈りから始めていきたいと思います。

 二、イエス・キリストの父

 次に、神は「イエス・キリストの父なる神」と呼ばれています。この言葉も、多くのことを教えています。

 まず、第一に、神は、父と御子と聖霊のお方であるということです。これを、わたしたちは「三位一体」と呼んでいます。この三位一体は、すでに2節で示されていました。2節には、「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ」とあって、わたしたちの救いは、父なる神の選び、イエス・キリストの贖い、そして聖霊のきよめによって成り立っていると書かれています。

 神はおひとりなのに、父、御子、聖霊であり、父、御子、聖霊でありながらおひとりであるというのは、頭だけで理解できるものではありません。聖書が、三位一体を常に、わたしたちの救いとの関連で描いているように、わたしたちが、聖霊によって、御子イエス・キリストを信じ、神を父とするとき、はじめて、三位一体が分かるのです。自分の救いをふりかえってはじめて、聖書が初めかしるしている三位一体が分かるようになるのです。

 第二に、神は愛のお方であるということです。神は、おひとりのお方です。しかし、神は「ひとりぼっち」のお方ではありません。神が「ひとりぼっち」なら、神は「愛の神」ではありません。神は永遠の先から、聖霊によって御子を愛しておられた神です。父、御子、聖霊は愛で結ばれて一体なのです。神は、この御子に注がれた愛と同じ愛を、わたしたちに注いでくださいました。神は、御子をお持ちのお方だからこそ、わたしたちをも愛し、わたしたちの父になることがお出来になるのです。

 第三に、神はイエス・キリストを通して人間にご自分を表わしておられます。神は、人間をはるかに越えて偉大なお方です。人間はどんなにしても神を知り尽くすことはできません。もし、神が、人間に知り尽くせる存在であれば、それはもはや神ではありません。しかし、人間がどんなにしても、神について何も知ることができなければ、神と人との間に愛の関係は生まれません。そこで神は、神の御子を人として、わたしたち、人間の世界に送ってくださったのです。それが、人となられた神の御子、イエス・キリストです。神は、イエス・キリストをお遣わしになる以前、さまざまな形で人間にご自分を知らせて来られましたが、最終的には、御子イエス・キリストによって、わたしたちにご自分を表わしてくださったのです。

 ですから、ペテロは「わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」(ペテロ第二3:18)と勧めています。神は無限のお方であり、イエス・キリストもそうです。「わたしは十分に知っている。もう学ぶことはない」などと言うことができる人は誰もいません。そう思った瞬間、わたしたちの信仰の成長は止まってしまいます。「ますます」主を知ることに励み、霊的な成長を求めていきたいと思います。神は「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」です。わたしたちは、イエス・キリストを「わたしたちの主」と信じ、さらに主を知ることによって、神を父なる神として知り、神の父としての大きな愛の中に生きることができるのです。

 三、希望の源

 神は、わたしたちが、神の愛の中に生きることが出来るために、わたしたちをイエス・キリストによって救ってくださいました。3節に「神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」とあって、神の救いが描かれています。

 神は、この救いを「あわれみ」によって、与えてくださいました。神の「あわれみ」は、たんに人間をかわいそうに思うだけのものではありません。それは決して感傷的で弱々しいものではありません。神の「あわれみ」ほど力強いものはありません。それは、天から降りてきて、天と地をつなぐものとなりました。わたしたちに、誰がみても分かる確かな救いの道を切り開いたのです。神は御子イエス・キリストを、人としてこの世に送り、十字架へと導かれました。それは、主イエスの十字架によってわたしたちの罪を赦すためです。わたしたちが主イエスの十字架で救われることは2節に「イエス・キリストの血のそそぎ」という言葉で示されており、そのことは、すでに学びました。

 神は、十字架で死なれた主イエスを死人の中からよみがえらせました。主イエスの復活によって、罪の中に死んでいたわたしたちに新しい命を与えるるためです。「新たに生まれさせ」という言葉は「新生」とも、「再生」とも訳すことができます。わたしたちは皆、両親から生まれてきました。これが第一の誕生です。しかし、神の子どもとなって、神に愛され、神を愛して生きるためには、もういちど、神から生まれる必要があります。主イエスがニコデモに「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われた、あの「新生」、「再生」のことです。神は、信じる者を、イエス・キリストを復活させた、その命で生かしてくださるのです。

 わたしたちの救いは、わたしたちの内面だけで起こる、目に見えないもの、形の無いものではありません。神は、その救いを、この地上で、目に見えるものとして成し遂げてくださいました。はっきりとした形ある証拠をまた人類の歴史の中に残されました。イエス・キリストの十字架と復活がそれです。わたしたちの救いは、十字架と復活によるものです。そして、十字架と復活に基づいた救いほど、確かなものはありません。

 ですから、わたしたちの信仰の希望も、揺るがない、確かなものなのです。3節に「わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」とあるように、それは「生ける希望」です。この世の希望は、実現しないことが多いものです。失望に終わるものも少なくありません。しかし、イエス・キリストがくださった希望は生きている希望です。決して死なない、なくならない、くじけない希望です。わたしたちがイエス・キリストを信じたときに受け、それによって生かされている命は、永遠の命です。この命は、永遠ですから無くなりません。地上の命がやがて終わっても、わたしたちは永遠の命で生きるのです。今を、神と共に生き、地上を去っても、神とともに永遠に生きるのです。わたしたちの行く先には天が待っています。救いの完成が待っています。

 そのことを思うと、さらに希望が湧いてきます。この希望を与えてくださるのが、イエス・キリストです。この希望によって生きることが信仰です。

 わたしたちの毎日の生活は、いつも順調とは限りません。たいへんなことが起こって途方にくれることもあるでしょう。わたしたちは日常の小さなことによって浮き沈みしやいすいものです。そのような時も、わたしたちを支える「生ける望み」があることを忘れないでいましょう。この希望はイエス・キリストによってわたしたちを救ってくださった神から来ます。そのことを覚えて、神を見上げましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、この世で神も希望もなかったわたしたちを、新しく生まれかわらせ、「生ける望み」を与えてくださったことをこころから感謝します。わたしたちが現実に押しつぶされて希望を失いかけるとき、この希望に目をむけさせてください。この週を「生ける望み」をもって歩ませてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/24/2016