たましいのいやし

ペテロ第一1:3-9

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1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
1:4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

 10年ほど前から「いやし系」という言葉が使われ出しました。「いやし系の音楽」、「いやし系の映画」、「いやし系のペット」、「いやし系の俳優」などという使われ方をします。辞書によると「安らぎを感じさせる人や物をいう」とありました。「いやし」 という言葉そのものは、今から25年ほど前、1985年ごろから一般に使われるようになりました。辞書では「肉体の疲れ、精神の悩み、苦しみを何かに頼って解消したりやわらげたりすること」と定義されています。日本の経済が急速に成長し、世の中がますます忙しく、人間関係がギスギスするようになって、人々はストレスがいっぱいの生活をするようになり、人々は、心に安らぎを与えてくれるもの、疲れをやわらげてくれるもの、悩みを解消してくれるものを探し求めるようになったのでしょう。
「いやし」という言葉が一般に使われるようになったのは最近のことですが、聖書には三千年も前からこの言葉がありました。聖書の言葉が一般にも使われるようになったわけですが、聖書が言う「いやし」と一般に言われる「いやし」はかなり違っています。

 一、たましいのいやし

 第一に、一般に言われる「いやし」は、からだのいやしや感情のいやしだけですが、聖書が言う「いやし」は、からだや感情だけでなく、たましいのいやしのことをさしています。病気が治る、疲れが解消する、ストレスから解放される、感情が安定する、どれも悪くはありませんが、神からのいやしはそれ以上のものです。その人の存在そのものに意味と目的を与えるもの、その目的に向かって生きる力、つまりいのちそのものを与えるものです。それがたましいのいやしです。

 以前、私は「あなたは誰ですか」という話をしました。昏睡状態だったひとりの女性の呼吸が止まりました。彼女はすぐさま裁きの座の前に立たされるのを感じました。「おまえはだれだ」という声が聞こえました。彼女は答えました。「市長の妻です。」すると、その声は言いました。「だれの妻かときいているのではない。『おまえはだれだ』と聞いているのだ。」「私は四人の子の母です。」「だれかの母かときいているのではない。おまえはだれだ。」「私は教師です。」「おまえの職業をきいているのではない。おまえはだれだ。」そこで彼女は「私はキリスト教徒です。」と答えました。するとその声は言いました。「おまえの宗旨をきいているのではない。おまえはだれだ。」彼女は「私は毎週教会に行って、サンデースクールで教え、役員もしてきました。」とも言いましたが、その声はなおも、「何をしたかをきいているのではない。おまえはだれだ。」と言いました。そんなやりとりが延々と続きましたが、彼女は、この質問に答えられなかったために、地上に送り返されました。息をふきかえし、病気が直ったとき、彼女は、自分がだれなのかを見究めようと決心したというのです。この話を聞いた皆さんは「私はだれか」ということを問い続けたでしょうか。その答えを得たでしょうか。「私はだれか。」というとき、それは自分の立場、役割、能力、肩書き、財産でないことは確かです。私の顔でも、手でも、足でもありません。それは「私」に属するものではあっても、「私」そのものではありません。「私」に属しているものを失っても、なお残る「私」というものがあります。それがたましいです。

 最近、日本では、自分の親が実際は亡くなっているのに、死亡届けを出さずに親におりてくる年金を受け取り続けるという事件がありました。200年前に生まれた人が、戸籍の上ではいまだに生存していることになっているなどといった問題も明るみに出るようになりました。いくら長生きでも200年も生きる人はいません。聖書には「人の齡は、百二十年」(創世記6:3)とあります。私たちは、誰もが、やがて世を去ります。しかし、たましいは残ります。人のからだは土から取られましたが、神はその中に「いのちの息」を吹き込まれ、人は霊的な存在として造られました。土から取られたからだはやがて土に帰るでしょう。しかし、たましいは、造り主である神に帰るのです。聖書に「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道12:7)とあるとおりです。人は死んで終わりではないのです。そのたましいは神の前に立たなければならないのです。そうであるなら、私たちは神に会う備えができていなければなりません。誰もが迎えるその日、その時のために、私たちは自分のたましいのことにもっと心を配り、神との正しい関係を求めるべきではないでしょうか。

 イエスは言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)人のたましいはからだや目に見えるものよりも大切なものであることを教えていることばです。財産があれば一流の医者に健康管理をしてもらって、元気で長生きできるかもしれません。しかし、たましいの健康管理を怠っている人には、神の前に出ることは恐ろしいことです。地上にある間は、心の中で神に対して不敬虔であっても、立場や肩書き、能力や財産などによって、自分を隠すことができるでしょう。しかし、そうしたものをすべて地上に遺して、たましいだけが神の前に立つとき、人は何によっても自分を隠すことはできないのです。地上で神との正しい関係を保ってきたか、すべてを見極めることのできる神への畏敬の念を持って歩んできたかどうかが問われるのです。自分のたましいをどう育て、養ってきたかが問われるのです。

 ある漫才コンビが「健康が一番だね。」という話をしていました。一方が「健康でなけりゃ、仕事もできないし、おいしい物も食べられない。なんといっても健康が一番だ。健康だったら、名誉がなくてもいい。お金がなくてもいい。健康があったら命がなくてもいい。健康はいのちよりも大切だ。」すると、相方が「おい、おい、命がなかったら健康も意味がないじゃないか。」という場面がありました。「健康はいのちよりも大切」というのはたわいもない漫才のことばですが、それは人々が「たましい」のことをそっちのけにして、健康や財産、名誉や名声、またさまざまな楽しみを追い求めている姿をからかったもののように聞こえました。今日の私たちはからだの健康のことには熱心でもたましいの健康を考えなくなってしまっていると思います。人はからだを持ったたましいですから、からだの健康を考えなくて良いわけではありません。神もまた、人間のからだの必要をよくご存知であり、それに心をかけてくださり、人間に必要なものを与え、私たちの人生にさまざまな喜びと楽しみを与えてくださっています。しかし、神は人のたましいのことをもっと心にかけてくださっています。神は、からだの必要を満たしてくださっています。いや、それ以上にさまざまな楽しみを与えてくださっています。しかし、神はたましいの幸いのことを考えていてくださっています。神は、私たちのたましいが、神との正しい関係の中で生かされ、養われ、成長していくことを願っておられるのです。聖アウグスティヌスは「神は人を神にむけてお造りなった。だから、人の心は、神のうちに憩うまで、安らぎを得ることができない。」と言いました。私たちのたましいは神のもとに立ち返ってこそ、はじめて神からの平安を体験することができます。様々な重荷から解放されます。神が与えてくださるいやしは、第一に、たましいのいやしです。あなたは神からの安らぎを、たましいのいやしを受けているでしょうか。

 二、永遠のいやし

 第二に、一般のいやしが一時的なものであるのに対して、聖書のいやしは永遠のものです。一般のいやしはからだや感情に関するものです。からだの病気はいったん良くなっても、また悪くなることがあります。そして、からだはいつかは塵に帰るのです。感情の病気も同じで、一時的に良くなったとしても、また逆戻りすることがあります。しかし、神が与えてくださるいやしはたましいに関するものであり、たましいは死後も存続するものですから、たましいのいやしは永遠のものです。私たちのたましいはやがて神とともに永遠を過ごすのですから、それは永遠のものでなければならないのです。

 まず、神は私たちに永遠の立場を与えてくださいます。それは、罪が赦され、神の前に正しい者として立たせていただけるのです。聖書は、罪はたましいの病であって、人のたましいを蝕むもの、傷つけるものだと教えています。罪は神の栄光を傷つけるだけでなく、自分自身をも損なうものなのです。人間は神に似たものとして、神のかたちに造られたのに、人間は罪のために、神とは似ても似つかぬものとなり、ある面では動物以下にさえなってしまいました。人のたましいは罪のために傷つけられ、そこに刻みこまれた神のかたちを損なってしましました。神はそんな人間をあわれみ、その傷をいやすために、救い主イエス・キリストを遣わしてくださいました。ペテロ第一2:22-24にこうあります。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」このことばの中に十字架の奥義が示されています。イエス・キリストは神の御子であるのに、犯罪人として扱われ、軽蔑され、傷つけられ、痛められ、イザヤ書に「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」(イザヤ52:14)とあるように、神の御子にはふさわしくない姿となられました。それは、罪のために自らを損なった人間の罪を赦し、神のかたちを回復し、神の前に正しい者とするためだったのです。

 次に、神は私たちに永遠に変わらない身分を与えてくださいます。神の御子イエス・キリストを信じる者は、神の子どもとされるのです。神は信じる者の父となり、信じる者は神の子どもとなるのです。たましいの親である神は、ひとたびご自分の子どもとしたものを決してお見捨てにはなりません。詩篇に「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。」(詩篇27:10)とあります。神の愛は永遠です。そして、子どもが親の財産を引き継ぐように、神の子どもも、神が天に備えられた資産を相続するのです。今朝の聖書の箇所、ペテロ第一1:3-4は、そのことを教えています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」「私たちを新しく生まれさせて」というのは、信じる者が神によって神の子どもとして生んでいただいたということを示しています。信じる者には神の子どもとしての身分があります。そして神の子どもには神の国を資産を引き継ぐ権利も与えられているのです。

 さらに、神は、イエス・キリストに従う者が天にたどりつくまで、変わらず、守ってくださいます。ペテロ第一1:5に「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」とある通りです。イエス・キリストを信じる者は、罪を赦されるだけでなく、神の子どもとされ、そして、神はご自分の子どもを決してお見捨てにはならないのです。どんな試練の中でも守ってくださるのです。ですから、信じる者には感謝や、希望、喜びが絶えないのです。信仰者も試練の中で悲しむことがあります。しかし、悲しみは悲しみで終わりません。その悲しみは必ずいやされます。たましいが救い主イエス・キリストに出会うとき、それは「称賛と光栄と栄誉に至る」(ペテロ第一1:7)のです。これが、たましいのいやしであり、たましいの救いです。ペテロ第一1:8-9はこう言っています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」これがたましいのいやしです。

 「救い主」というギリシャ語はギリシャ神話の医学の神、アスクレピオスを呼ぶのに使われています。それには「いやし主」という意味もあるのです。聖書はこのことばをイエス・キリストに宛てており、イエス・キリストこそ救い主であり、いやし主であると宣言しています。聖書では、救いといやしはひとつのものとして描かれています。私たちはイエス・キリストの十字架の打ち傷によってたましいをいやされ、救われるのです。キリストの復活によって「たましいの救い」を得た者は、心のいやしとからだのいやしをもいただけるのです。救い主はこう言ってあなたを招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)イエス・キリストはいわゆる「いやし系の人」ではありません。「いやし系の人」というのは、安らぎを感じさせてくれるだけで、必ずしも、ほんとうに平安を与えてくれるとは限らないからです。イエス・キリストは、私たちに本当の平安、しかも、たましいの平安を与えてくださるお方、ほんとうの「いやし主」「救い主」です。主はあなたのたましいのいやしを願っておられます。主のもとに行きましょう。やがて私たちはみな神の前に出なければならないのですが、その前に、私たちのほうから神の前に出ようではありませんか。イエス・キリストによって神との正しい関係に入れていただき、そこで、この世が決して与えることのできないたましいの救いを受け取ろうではありませんか。

 (祈り)

 私たちのたましいの父である神さま。あなたは、私たちのたましいの救いといやしのため、イエス・キリストを送ってくださいました。キリストは私たちを、真実に、誠実に、いやしと救いへと招いていてくださっているのに、私たちは、その招きに耳を貸すことをしてきませんでした。今、私たちはそのことを悔い改め、たましいのいやしを求めます。あなたのもとに行きます。私たちがあなたを受け入れるように、あなたも私たちを受け入れ、私たちのたましいを生き返らせ、力と平安を与えてください。救い主、いやし主、イエス・キリストの御名で祈ります。

9/5/2010