御言葉による新生

ペテロ第一1:22-25

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1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24 「人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

 皆さんは「ボーン・アゲイン」(Born Again)という言葉をご存知ですね。「もういちど生まれること」、「生まれ変わること」という意味の言葉です。「新生」とか「再生」とも呼ばれます。この言葉は「クリスチャン」という言葉と組み合わせて、「ボーン・アゲイン・クリスチャン」という言い方で使われます。「ボーン・アゲイン・クリスチャン」とは「生まれ変わったクリスチャン」ということですが、これにはいったいどんな意味があるのでしょうか。

 一、新生の必要

 「ボーン・アゲイン」であることと、クリスチャンであることは同じことです。人は新しく生まれてクリスチャンになるのです。聖書はそのことをはっきりと教えています。

 イエスは、ヨハネ3:3で、ニコデモという人に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。それを聞いたニコデモは、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」(ヨハネ15:4)と言って驚いています。ニコデモが言ったように、人はもういちど赤ん坊になって生まれ直すことなどできません。イエスが言われた「生まれ変わり」というのは、わたしたちのからだがもういちど赤ん坊になって生まれてくるというのではなく、わたしたちの「霊」が生まれ変わるということです。イエスは言われました。「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。」(ヨハネ3:5-6)聖書に「神は霊であるから、礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)とあるように、神は「霊」です。神は「肉」をお持ちになりませんが、人は「霊」と「肉」の両方を持っています。人は、その「霊」によって「霊」である神とまじわりを持ちます。「肉」は、「からだ」とともに、人に生まれつき備わっている本能的なものや感覚的なものを指します。それは永遠のものではなく、朽ちていくものです。聖書の他の箇所に「肉と血とは神の国を継ぐことができない。朽ちるものは朽ちないものを継ぐことはできない」(コリント第一15:50)とあるように、人は「霊」から生まれ、「霊」とならなければ、霊的な神の国を継ぐことはできないのです。「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」というのは、わたしたちの内面の中心的な部分、「霊」が生かされなければ、神の国に入ることができないということを意味しています。

 聖書は、わたしたちがイエス・キリストを信じる以前の状態について、「自分の罪過と罪とによって死んでいた」(エペソ2:1)と言っています。その「霊」が死んでいたということです。神との関係において「死んでいた」ので、神の真理を理解できない、神の愛を感じられないでいたのです。たとえ、神との関係が死んでいても、それ以外のところで、生きがいを見つけたりして、それなりに人生を楽しむことができます。しかし、その「霊」が生かされ、満たされていませんから、どこかに不安があり、恐れがあるのです。孤独があり、虚しさがあるのです。それを満たすお方は神なのですから、神のもとに帰ればいいのですが、神以外のもので、れを満たそうとして、さらに神から離れてしまうのです。人は、そのままでは、罪のうちに、また、神に対して死んでいます。人はその「霊」において生かされる必要があるのです。

 ニコデモはユダヤの宗教の指導者でした。ユダヤの宗教では、人は神の律法を守ることによって神の国に入ることができると教えていました。しかし、「律法を守る」ということが人間の努力によって達成するものであるなら、それは結局のところ、人間の生まれつきのもの、「肉」によって、霊的な神の国にはいろうとすることになります。「肉」は「霊」を継ぐことはできません。また、律法を犯した人が、改心して、「生まれ変わったようになって」律法を守る努力をしたとしても、それもまた人間の生まれつきの力によるものでしかありません。イエスが言われたのは、「生まれ変わったようになる」ことではなく、ほんとうに「生まれ変わる」ことなのです。人間の力では、「生まれ変わる」ことなどできません。しかし、神にはお出来になります。イエス・キリストはその復活の力によって、わたしたちの霊を生かしてくださるのです。ある人は「生れ変わり」を体験したとき、なにもかもが輝いて見えたと言いました。人によって体験は違いますが、「ボーン・アゲイン」を体験した人は、自分という存在の中心が照らされ、生かされ、動きはじめるのを感じたことでしょう。わたしたちの「霊」が生かされ、満たされていくとき、わたしたちの心も、からだも、生活もまた、生かされ、満たされていくのです。これが「ボーン・アゲイン」の恵みです。

 二、新生の方法

 では、どのようにして、人は「生まれ変わる」のでしょうか。英語では「生まれる」というのは "I was born in New York." などと言い、受け身の形で表わします。人はだれも、自分で時代を選び、地域を選び、両親を選んで生まれてきたわけではありません。人には選択の余地はありません。しかし、二度目に、神から生まれる場合は違います。神がわたしたちを生んでくださるのですが、わたしたちの側に、それを選択することが許されている、いや選択することが命じられているのです。ヨハネ1:12-13にこう書かれています。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。」ここで「彼」とあるのはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを受け入れた者、その名を信じた人が、「肉」によらず、「霊」によって生まれるのです。わたしたちを生んでくださるのは神ですが、わたしたちの側に、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、イエス・キリストに信頼して生きるという選択が委ねられているのです。聖書は、この「選択」を「信仰」と呼んでいます。

 では、この信仰はどこから来るのでしょうか。「信仰は聞くことによるのである。聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)と書かれています。信仰は「キリストの言葉」、「神の言葉」から来るのです。今の時代には、「イエス・キリストについて何も聞いたことがない」という人は誰もいないでしょう。イエス・キリストはさまざまな文学、絵画、彫刻、音楽などの主題になっています。イエスが処女マリヤから生まれ、十字架にかけられ、復活されたということは、ほとんどの人が知っています。しかし、そうした知識がわたしたちを信仰をもたらすのではありません。そうした知識を通して信仰に近づいたとしても、信仰を与えるのは「神の言葉」です。神がわたしたちひとりひとりに個人的に語りかけてくださる、神の言葉によって信仰に導かれ、その信仰によって「ボーン・アゲイン」を体験するのです。それで、ペテロの手紙は「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」(23節)と言っているのです。神の言葉が信仰を与え、信仰が「ボーン・アゲイン」に導きます。ペテロ第一1:23はそれを短くして、「わたしたちは、神の言葉によってボーン・アゲインした」と言っているのです。神の言葉は、わたしたちに神の命を運ぶもの、命の言葉なのです。

 ですから、わたしたちは、教会で、神の言葉を大切にし、機会あるごとにそれを学び、互いに分かち合うのです。イエス・キリストについて何らかの知識をひろめるだけなら、マス・メディアの力を利用すればよいでしょう。しかし、人が救われるのは、神の言葉が神の言葉として語られ、神の言葉として聴かれることによってです。ですから、わたしたちは個人的に神の言葉を親しく語る必要があるのです。神の言葉を分かちあうのです。神はわたしたちを救いに招いてくださっています。この招きを神の言葉のうちに聞いて、はじめて、人は信仰の決断へと導かれます。神の救いの約束の言葉を聞くことによって、神への信頼が生まれるのです。知識が多かろうとすくなかろうと、それは「ボーン・アゲイン」に関係ありません。わたしたちは両親について何も知らないで生まれてきました。生まれてから、両親に育てられるにしたがって、両親について知るようになったのです。神から生まれるときも同じです。まず、「ボーン・アゲイン」があって、それから、さらに神を、イエス・キリストを知っていけばよいのです。神は、わたしたちに、神の愛の言葉、約束の言葉、招きの言葉に応えることを望んでおられます。それは、わたしを生まれ変わらせ、わたしを生かす命の言葉、「ボーン・アゲイン」の言葉です。

 三、新生の確信

 ですから、「ボーン・アゲイン・クリスチャン」とは「自分がイエス・キリストを信じる信仰によって、神から生まれた者であることを自覚し、確信している人」ということになります。「ボーン・アゲイン・クリスチャン」という言葉はアメリカの、信仰復興運動(リバイバル)の中で生まれました。アメリカはクリスチャンの国としてはじまり、キリスト教が主な宗教でした。それで、人々は、自分は生まれたときから「クリスチャン」であると思い、教会に通い、道徳的な生活さえしていれば「クリスチャン」であると考えるようになっていきました。「リバイバル運動」は、神の言葉を聞き、イエス・キリストを信じ、「生まれ変わり」を体験して、「クリスチャン」になるのだということを教えてくれました。イエス・キリストを信じる信仰によって、生まれ変わり、神の子どもとされているという確信を持つ人が「ボーン・アゲイン・クリスチャン」であるなら、わたしたちすべてが「ボーン・アゲイン・クリスチャン」でありたいと思います。

 この確信は聖霊から来ます。ローマ8:14-16にこうあります。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」聖霊が、わたしたちに「ボーン・アゲイン」の確信を与えてくださるのですが、聖霊がそうしてくださると教えているのは聖書です。わたしたちは聖書によって聖霊の働きを学び、その理解を深めることによって、この「聖霊のあかし」を聞き、より強い確信へと導かれていくのです。そんな意味で、神の言葉がわたしたちに「新生」とともに新生の「確信」を与えてくれると言ってよいでしょう。

 どんな名言であっても、人の言葉はいつか消えていきます。どんなにポピュラーであっても人の教えはいつかすたれていきます。しかし、神の言葉は永遠です。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」(24-25節)のです。朽ちるものは、朽ちないものを継ぐことはできません。朽ちることのない、いつまでも残る神の言葉が、わたしたちに新しい命を与え、その確信を与え、その命を育てます。神の言葉が神の国を継がせてくれます。この神の言葉によって、この週も、「ボーン・アゲイン」の確信と喜びの中に歩みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはわたしたちに、御言葉によって、新生の恵みを与えてくださいました。この恵みをもっと理解し、この恵みを確信し、あなたが与えてくださった新しい命に生きるため、さらに御言葉を求めることができますように。御言葉によって生きることがどんなことかを教え、その喜びと力とを日常の生活の中で体験させてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/3/2016