1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
1:4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
ペテロは、この手紙を「イエス・キリストの使徒ペテロから」(1節)という言葉で始めています。最初に差出人が名乗りをあげるのが、当時の手紙の公式の書き方だったからです。ローマ人の手紙からユダの手紙まで、新約聖書には21の手紙がありますが、それは今日の「手紙」とはずいぶん違っています。「手紙」というよりは、手紙に書かれた「教え」であり、手紙によって届けられた「説教」だと言ったほうがよいでしょう。ペテロが自分を「イエス・キリストの使徒」と呼び、そのように書いたのは、この手紙がプライベートなものではなく、イエス・キリストの教えであり、小アジア各地の教会に回覧され、礼拝で朗読されることを前提にして書かれたからです。
差出人に続いて「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している…選ばれた人々へ」(1-2節)と、受取人が書かれています。ここには、イエス・キリストを信じる者が「選ばれた」と言われていますが、続く3-4節では「新しく生まれた」、そして5節では「守られている」と言われています。きょうは、キリストを信じる者が、「選ばれている」、「新しく生まれている」、「守られている」と言われていることの意味を学びましょう。
一、選ばれた者
キリストを信じる者は第一に、「選ばれて」います。最近は日本でも「アスリート」と呼びますが、以前は、スポーツ競技に出場する人を「選手」と言ったものです。地域の競技会や全国大会に選ばれ出場できれば栄誉なことですが、国際的な競技会に出場したり、そこで入賞すれば、大きな誇りとなります。文学や芸術、芸能の世界でも、作品が選ばれたり、パフォーマンスが認められたら、そこからプロフェッショナルへの道が拓けてくるでしょう。どんな分野でも、「あなたは選ばれています」と言われてうれしくない人ありません。それは栄誉なことであり、特権です。人によって選ばれてでさえ、そうなら、神によって選ばれることには、どんなに大きな栄誉となり、特権であることでしょうか。キリストを信じる私たちは神に「選ばれた者」ですが、神は、なぜ、何のために私たちを選んでくださったのでしょうか。
2節に「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々」とあるように、私たちは、イエス・キリストの十字架の血により罪を赦され、聖霊によって聖められ、キリストに従って生きる者になるようにと選ばれました。つまり、キリストの救いを受けるようにと選ばれたのです。
では、なぜ、私たちが選ばれたのでしょう。それは誰にも分かりません。聖書は、「父なる神の予知に従い」としか語っていません。人間は神の知恵・知識・思いを完全に知ることができません。しかし、ひとつ言えることは、私たちが選ばれ、救われたのは、自分の力によってではないということです。私たちが救いに選ばれたのは、他の人より優れていたからでも、信仰深かったからでもありません。キリストを信じたほとんどの人たちはみな、ごく普通の人々でした。弱さを抱えていた人たちのほうが多かったかもしれません。皆が素直な人ばかりでなく、頑固で疑い深い人たちもいました。イエスが選んだ十二弟子にもそのような人たちがいたではありませんか。そんな私たちが選ばれたのは、その選びを通して、神の恵みと力が現されるためでした。私たちが「選ばれた人々」と呼ばれているのは、とても感謝なこと、ありがたいことですが、だからといって、私たちは、そのことで誇ることはできないのです(コリント第一1:26-29参照)。
かつて神の民として選ばれたイスラエルの人たちは、自分たちが選ばれたのは、自分たちが優れているからだと考え、他の民族を見下すようになりました。間違った「選民意識」を持ち、高慢になり、神の選びから離れていきました。聖書はそのことを戒め、イスラエルが神に選ばれたのは、強く、大きかったからではない。その先祖は家畜を追って移り住む遊牧民であり、エジプトで奴隷であった。神がイスラエルを選んだのは、そのような小さく貧しい人々が、まわりの強く大きな国々の圧迫や支配から守られ、豊かな国になっていくことによって、神の力を現すためであったと言っています(申命記7:7-8参照)。私たちも、神が私たちを選んでくださらなければ、自分から神を選ぼうとしなかったでしょう。そして、救われることはなかったでしょう。神の選びを知れば知るほど、私たちは、へりくだって、神の栄光をたたえずにはおれなくなります。
そして、救われた私たちは、自分たちが救われたことに満足して終わるのでなく、他の人々の救いのために奉仕するようになるのです(ペテロ第一2:9参照)。この手紙は、「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々」のために書かれました。「散って寄留している人々」というのは、迫害を受け、財産を奪われ、自分たちの国から追われていったキリスト者たちのことを言います。英語の聖書では「寄留している、選ばれた人々」というところを “Elect Exiles”(選ばれた難民)と訳しています。人間的に考えれば、町に残っている人が「選ばれた人々」で、国外に追放された人々は「選ばれなかった人々」です。しかし、神の目から見れば、国外に散らされていった人々こそが「選ばれた人々」でした。迫害を受けキリスト者たちは、散らされて行った先々で、その困難にもかかわらず、イエス・キリストを宣べ伝え、それによって、まわりの人々が救われていきました。迫害が、かえって福音が広まるのを助けたのです。散らされた人たちは、困難な中でも、神の選びを忘れませんでした。それによって励まされ、選ばれた者としての使命を果たしました。私たちも神に選ばれたことの意味を深く考えましょう。それを感謝し、喜び、大切にしましょう。そして、それに応えていきましょう。
二、新しく生まれた者
キリストを信じる者は第二に、「新しく生まれた」者です。3節に「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」とあります。「新しく生まれる」とはどういうことでしょうか。私たちは「生まれ変わった気持ちで、やり直す」といったことを口にしたり、耳にしたりしますが、「新しく生まれる」というのは、そういった人間の努力のことを言っているのではありません。「新しく生まれる」というギリシャ語には「上から生まれる」という意味もあります。「上から」、つまり、神によって生んでいただくということです。この命は、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」とあるように、イエスの復活によって私たちに与えられます。言い替えれば、罪の中に死んでいた私たちが、イエスと共に新しい命に復活するということです。私たちはイエス・キリストを信じたとき、神によって生んでいただき、神の子どもとなります。キリストと共に復活し、聖霊によって新しい性質を与えられ、神の言葉に養われて成長していく者とされました。「新しく生まれる」ことから信仰生活が始まります。
神が、私たちに与えてくださる新しい命は「永遠の命」と呼ばれています。私たちは皆「寿命」というものを持っています。寿命は生まれたときは100パーセントですが、時が経つと減っていって、やがてゼロになって、この地上を去るのです。しかし、神がくださる命は決してなくならない、永遠のものです。それは、最初は小さなものですが、寿命のように減っていくのでなく、増え続けていくのです。文字通り、永遠に増え続けるのです。寿命が尽きても、信仰者には永遠の命があり、この命によって永遠を、神の国で、神と共に生きるのです。
さきほど、この手紙は迫害を受け、財産を奪われ、国外追放にあった人々に宛てて書かれたと言いました。4節の「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです」という言葉は、まさに、そのような人々のために書かれた言葉です。地上の財産を失ったとしても、それ以上の資産が天にある、地上の命が尽きても、永遠の命に生かされる。聖書が「生ける望み」と言っているのは、そのようなことなのです。
「永遠の神の国」、「天にたくわえられた資産」、そして「永遠の命」と言っても、地上では、そうしたものを、実感したり、手にとるように理解するということは難しいことだと思います。しかし、神が、私たちに信仰とともに与えてくださった「望み」は「生ける望み」、つまり、私たちを生かしてくれる望みであり、「新しく生まれた」者は、この望みによって生かされるのです。「生まれ変わった気持ちになる」ような決心を、何度くりかえしても、同じ罪や失敗、弱さに、再び、逆戻りしてしまいます。そんな自分の無力を正直に認め、「イエス・キリストを信じます。私をあなたの子どもとしてください」と願い、「新しく生まれた者」となって、この「生ける望み」をいただきましょう。そして、この望みによって、永遠の命を確信しましょう。新しく生まれ、永遠の命を与えられている。この事実を受け入れるとき、私たちは、この希望によって、この世を全く新しく、力強く生きていくことができるのです。
三、守られている者
キリストを信じる者は、第三に、「守られている者」です。5節に「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」とある通りです。神はキリストを信じる私たちを選んで、他の人々に救いの言葉を伝える使命をくださいました。私たちを新しく生み、天を目指す新しい生活を与えてくださいました。しかし、私たちは、与えられた使命が重要なものであればあるほど、また、その生活が永遠につながるものであるということを知れば知るほど、「自分にそうしたことができるのだろうか」と心配になります。
そんな時、もし、私たちが、自分の力でなんとかしようとしたら、かならず失敗します。神を信じない人たちは、不安を感じると、自分に鞭打って、より完璧にものごとをやりとげ、不安を解消しようとします。しかし、完璧に物事をできる人など誰もいませんから、不安は解消しません。もっと増えます。それでさらに自分を鞭打つようになるのですが、そうしたことを続けていると、いつか疲れ果て、人生に行き詰まってしまいます。神を信じる者は、自分で自分の不安を解消するのでなく、神の守りを信じ、神の助けを求め、神からの平安を受けて、解決するのです。
ペテロ第一4:19に「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と教えられています。ここに「真実であられる創造者」とありますが、神はあらゆるものの創造者です。世界を創造された全能の力で、信じる者を守ってくださいます。また、神は「真実なお方」です。神はご自分の約束を最後まで守り通されます。神はその全能の力とともに、その「真実」によっても、信じる者を守ってくださるのです。コリント第一10:13に「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」、テサロニケ第二3:3に「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます」と、神の真実が教えられています。私たちは、この真実な神によって守られているのです。真実な神が、ご自分が選んだ者、ご自分が生んだ子どもたちを、守り、助けてくださらないはずがありません。この神の真実に信頼しましょう。真実な御言葉の約束を握りしめましょう。そして神がくださった「生ける希望」をもって新しい日々に向かいましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、御言葉によって、私たちが「選ばれ」「新しく生まれ」「守られている」ことを教えてくださいました。聖書を開くたびに、あなたの、私たちに対する愛と真実の呼びかけを、しっかりと聞き取り、あなたの呼びかけに答える者としてください。イエスの御名で祈ります。
12/27/2020