どのようにきよめられるのか

〜夏期修養会聖書講義〜

ペテロ第一1:13-16

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1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

 一、救いときよめ

 昨日はイザヤ書6章から神がきよめの源であり、私たちは神のきよさに触れてはじめて、神に対する自分の罪が分かり、そこからきよめに向かっていくことができることを学びました。

 罪はたんに神が定めた律法への違反だけでなく、神のみこころを痛め、悲しませることでもあるのです。エペソ4:29-30に「悪いことばをいっさい口から出してはいけません。ただ必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」とあります。聖霊が悲しまれる。神は罪に対して怒られるだけでなく、それを悲しまれる。神の母性的な愛を感じさせることばです。私たちは、贖われた者、別の言葉で言えば、アダプトされた神の子どもであるのに、神を悲しませ、神の心を痛めるようなことをしているのです。

 たとえ、たましいの親である神の顔に泥を塗るようなことをしなかったとしても、私たちは神を悲しませることがあります。私は、子どものころ、母親を失くしました。父はしばらくして再婚しました。新しい母親が来ましたが、私はすぐにはなじめず、「お母さん」と呼ぶことができませんでした。親は、子どもがどんなに良い子であっても、自分に心を開いてくれないとき、一番悲しいものです。私たちの父なる神は、私たちが「お父さん」と呼んで、そのふところに飛び込んで来るのを待っておられます。

 愛は相互関係です。神が私を愛して愛しておられるように、私たちも神を愛し返したいと思います。しかし、「神を愛さなければならない」ということに一所懸命になり、「神に愛されている」ということを忘れるなら、それも神を悲しませるのです。「私なんか、神のために何の役にも立たない」と悲観してしまうことがあるでしょう。しかし、考えてみてください。神は全能で、私たちに助けてもらう必要はないのです。神は私たちを愛したいのです。私たちは「神に愛される」ことを学ぶ必要があります。それが神を喜ばせるのです。

 神と私たちとの関係は、決して冷たい法律上の関係ではありません。それは、私たちのために大喜びもし、涙も流しもする神との「人格と人格」の関係です。この関係の修復が救いであるなら、救いは、裁判官が一枚の書類で「無罪」を告げるようなものだけでは終わらないのです。放蕩息子を迎えた父親が、彼に晴れ着を着せ、履物を履かせ、指輪を与えたように、神は私たちをご自分の子どもとし、それにふさわしいものへと変えてくださるのです。

 人は罪を犯し、有罪となったばかりでなく、その奴隷となり、罪の性質を持つものとなりました。神は、人の罪過のために赦しを、奴隷からの解放のために神の子の身分を、そして、罪の性質からの救いのために新しいいのちとその成長、つまり、きよめを与えてくださったのです。神の救いはトータルなものです。人が罪の結果引き起こしたすべてのものを回復するものであって、そこにはきよめが含まれていなければならないのです。

 二、命令と約束

 ペテロ第一1:15には「あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」と、きよめられることを命じておられます。しかも、その命令はみことばの権威によって強調されています。16節に「『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです」とあります。「…と書いてあるからです」ということばは、イエスのことばを思い起こさせます。イエスがバプテスマを受けたのち、サタンの誘惑を受けました。サタンはさまざまな誘惑をしかけましたが、イエスは「…と書いてある」と、聖書のことばを引用し、その権威によってサタンに対抗しました。イエスは神の御子ですからご自分のことばでサタンを退けることができました。また、ペテロも使徒なのですから、使徒の権威をもって「聖なる者とされなさい」と書くことができました。ところがペテロは、聖書を引用することによって、きよめられることが神の確かなみこころであると教えているのです。

 また、ここで「…と書いてある」というのは、「聖なる者とされなさい」という命令に約束が伴っていることを示しています。神が、私たちをきよめてくださるとの約束です。「聖なる者とされなさい」というのは受け身の命令です。受け身の命令は聖書に多く見られます。ペテロ第一2:5の「霊の家に築き上げられなさい」はそのひとつです。誰が霊の家を築き上げるのでしょう。神です。同じように「聖なる者とされなさい」とある場合、私たちを聖なる者としてくださるのは神です。「わたしはあなたをきよめる。だから、あなたもわたしのきよめのわざに加わりなさい。」神はそう言っておられるのです。学者たちはこうした受け身の命令を「神学的受動態」と呼び、それは人に対する神のわざを表すのに使われると言っています。

 神が私たちに何らかの命令をくださるとき、そこには約束が伴っています。神は私たちに何かをせよと命じるだけでなく、私たちがそれをできるための備えをも用意してくださっています。ペテロ第一5:7に「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」とあります。聖書は私たちに「心配するな」と命じるだけでなく、「神があなたがたのことを心配してくださる」という約束を与えています。命令と約束、この組み合わせを忘れると、きよめは自分の努力で達成するもの、不可能なことにチャレンジするものになり、重苦しいもの、何度やってもそのたびに失敗して失望してしまうものになってしまいます。

 きよめに関してペテロ第一5:10にこの約束があります。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」きよめは、神の「わたしがあなたをきよめる」という約束が伴ったものであることを心に銘じましょう。

 三、内面と外面

 きよめは、私たちのことばや態度、行いにまで及ぶものですが、まずは、私たちの内面から始まります。

 私たちは救いを、なにか法律的なものと考えがちです。伝道をするとき、私たちは「皆さん、天国へのパスポートを持っていますか」と言うことがあります。しかし、救いを「パスポートを得ること」にたとえるのは、救いを「手続き」のひとつとして考えてしまうことになる危険があります。パスポートをもらい、行く先のビザを取得し、ハンコを押してもらって手続きが完了する。救いは、そのようなものでしょうか。神からパスポートを受け取ったら、それで終わりで、パスポートを出してくださった神と関わりがなくなるのでしょうか。いいえ、救いとは、パスポートを得て天への旅を、パスポートをくださった神とともに歩むこと、その旅路で天からのマナで養われながら、神とのリレーションシップを深めるということなのです。きよめとは、私たちのハートが神のハートとひとつになっていくことです。

 では、きよめはハートの中だけのものかというと、そうではありません。「あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」とあるように、物の考え方、ことばや行いもまたきよめられなければなりません。それはハートがきよめられるに応じてなされていくものです。聖書はきよめを心の中だけのものとはしていません。たとえば、ヤコブ1:27に「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」とあります。きよめは、私たちの内面や教会の内部だけにとどまるものではなく、自分たちのまわりの人々の必要にこたえていくことでもあるのです。

 このように、きよめ(ホーリネス)は社会正義にまで至ります。アモス21-24にこうあります。「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」宗教的であることがそのまま信仰的でるとはかぎりません。お祭りは盛んに行われていても社会が退廃している、信仰と社会が結びついていないということが警告されているのです。“Holiness is wholeness” ということばがあります。私たちの内面からはじまったものが、教会から社会へ、世界へ、宇宙へと広がっていく。こんにちは、そういう観点からきよめが見直されている時代だと思います。

 四、礼拝と派遣

 しかし、きよめが内面から外面へと向かうためには、内面のきよめと外面とを結ぶ、結び目があると思います。それがしっかりしていないために、“holiness” が “wholeness” となっていかないのです。

 では、その結び目とは何でしょうか。それはみことばと祈り、そして、その具体化である礼拝です。しかし、その礼拝が崩れています。それは、教会の礼拝形式が変化していくということではなく、礼拝が本質的に、内面から変化して、礼拝が礼拝でなくなってきているのではないかと危惧されています。マザーテレサは言いました。“Holiness is not something for the extraordinary. It is not a luxury of the few. Holiness is the simple duty for each one of us.”(きよめは何か特別なことのためにあるのではない。少数の人のための贅沢物でもない。それはわたしたちひとりひとが果たすべき義務である。)彼女の「愛の宣教会」の働きの源は早朝のみことばと祈りの時、礼拝にあるのです。そこでキリストの臨在から受けるものが、シスターたちの奉仕の力となっています。

 みことばや祈りを大切にしない教会はどこにもないと思います。エルサレム教会でやもめへの配給についてトラブルがあったとき、使徒たちは「私たちは「みことばと祈りに専念する」と言いました。それは、使徒たちだけがみことばと祈りに専念すればよいということではなく、教会は、全体として、みことばと祈りを第一にしなければならないのです。ペテロが「あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」と言うとき、その「あらゆる行い」に進む前に私たちがしなければならないことがある、それがみことばと祈り、礼拝なのです。

 洗濯機に「ソーク・モード」というのがあります。洗濯をする前に、洗濯物を水に浸して頑固な汚れを取るものです。きよめへの道はさまざまにあるのでしょうが、「ソーク・モード」の祈りからはじめるのが良いと思います。きよめは赦しでもあり、癒しでもあります。復活されたイエスの手足に釘跡が、脇腹に槍の跡が残っていたように、赦された者にもなお傷跡は残っています。それが癒されるためには、みことばにどっぷり浸かる必要があります。浴槽に浸かると、シャワーを浴びるのとは違って、水圧によってからだが暖まり、代謝が盛んになります。それと同じように、みことばを頭だけではなく、全人格の中に取り入れるようなことが必要なのです。

 祈るとき、私たちは目を閉じ、手を組み、跪きます。それは「私は何も見ません。ただあなただけを見上げます。私は自分の手のわざを行いません。あなたの御手が動くのを待ちます。私はどこへも行きません。あなたのみもとにとどまります」ということを表しています。手を上げて祈るのは「私にはできません。もうお手上げです。主よ、助けてください」という意味でもあるのです。自分のわざをいったんやめてこそ、神のわざを期待することができます。そのとき、「走っても疲れない、歩いてもたゆまない」生き方へと導かれるのです。そのことがないまま教会生活を送ると、人は教会の中で疲れるのです。日本で堀肇牧師の『教会生活の疲れ』という本がよく読まれているそうです。それだけ、教会で疲れている人が多いのでしょう。教会が人々に癒しと活力を与えるために、教会は祈りの家となり、私たちが祈りの道を通して社会に出て行く必要があります。

 そうです、礼拝から社会に出ていくのです。修養会の最後に「派遣礼拝」がありますが、「礼拝」はそもそも「派遣」なのです。礼拝はラテン語で「ミサ」ですが、ここから「ミッション」ということばが生まれました。礼拝は派遣式なのです。礼拝の最後に、「行って、主を愛し、人々に仕えなさい」という派遣のことばが語られる教会も多くあります。ある教会に行ったとき、礼拝堂の入り口に “Come, and serve the Lord.”(来て、主に仕えよ)とありました。 礼拝が終わって去るときには入り口がこんどは出口になるのですが、そこには “Go, and serve the people.”(行って人々に仕えよ)とありました。別の教会では、駐車場の出口に “This is enterance of the mission field”(宣教の場への入り口)とありました。礼拝は派遣です。しかし、派遣される前に、「ソーク・モード」でみことばの中に、祈りの中に、キリストの中に浸されていたいと思います。

 (祈り)

 愛する神さま、拙い者の二日間のみことばの解き明かしでありました。あなたがおひとりひとりに働きかけ、あなたのおことばを思い起こさせ、これらを用いてくださるようにお願いします。私たちのきよめが私たちの内面からはじまって、教会のまじわりの中に、そして、社会の中に広まっていくことができますように。私たちのきよめは教会のまじわりの中でこそ成長し、社会で様々な戦いをする中でさらにきよめへと導かれていきます。すべてを用いてくださる主よ、万事を益にしてくださる主よ、私たちが派遣されていくところで、私たちを練りきよめてください。キリストの御名で祈ります。

7/8/2011