受難の預言

ペテロ第一1:10-12

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1:10 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。
1:11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。
1:12 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感 じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。

 一、聖書の主題

 皆さんが聖書や聖書のメッセージに期待するものは何でしょうか。キリスト教に関する知識でしょうか。生活に役立つ知恵でしょうか。元気が出る言葉でしょうか。涙を誘う物語でしょうか。もちろん、聖書は知恵と知識の宝庫であり、あらゆる学問の源です。多くの芸術は、聖書の言葉に触れた人々の感動から生まれました。人々は聖書の言葉に励まされ、慰められ、平安を見出してきました。聖書は人々を誘惑から守り、正しい生活へと導いてきました。聖書は、社会を支え、世界を変えてきたのです。

 しかし、聖書の素晴らしさは、それがどんなに人々に親しまれているか、どれだけ社会に貢献しているかにあるのではありません。聖書が聖書であるのは、それがわたしたちにイエス・キリストによる「救い」を与えことにあります。聖書の言葉がわたしたちを生かし、力づけるのは、そこに、イエス・キリストの救いの知らせ、つまり、福音があるからです。

 以前、ハーベスト・アメリカで、グレッグ・ローリ先生がこう話しました。「キリストは人となって天から降りてこられた。私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、三日目によみがえられた。天に昇り、そこで私たちのためにとりなしておられる。世界を救うためにキリストはもういちど来られる。」すると会場から大きな拍手が起こりました。あとで、お話ししますが、先生はとても感動的な救いの証しを持っています。聖書の真理を、わたしたちの日常と関連づけて話すのも上手です。しかし、人々が拍手したのは、そんな上手な話を聞いたから、感動的な物語に心打たれたからではありません。テモテ第一3:16に「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」とある通りに、福音の中心が語られたからです。

 福音の中心、それは、イエス・キリストの十字架と復活です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのどの福音書も、その三分の一を、主イエスのご生涯の最後の一週間を描くのに費やしており、主イエスの復活を告げ知らせて締めくくっています。初代教会は、イエス・キリストの十字架を語り、キリストの復活を証ししました。イエス・キリストの十字架と復活、それが聖書の主題です。

 「なるほど」と思わせる話に、わたしたちは興奮します。しかし、そうした興奮は時間とともに消えていきます。また、どんな感動的な話も繰り返し聞くうちに慣れてきて、感動が薄れてくるものです。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の知らせは、どんなに時間が経っても、時代がかわっても、消えていくもの、薄れていくものではありません。「われにきかしめよ」(Tell me the story of Jesus)という賛美は聖歌の訳では「十字架にかかりて われらの罪を 贖いたまいし 主の物語 聞くたび読むたび 心とけゆき 感激の涙に 目はくもるなり」と歌っています。この歌詞のように、何度聞いても、読んでも、主イエスの十字架と復活の知らせは、わたしたちの心をゆさぶります。それを信じる者の生きる力となっています。

 二、十字架の預言

 イエス・キリストの十字架と復活は、新約聖書に詳しく書かれているだけでなく、旧約聖書にすでに預言されていました。主イエスは復活のあと、弟子たちに現われ、「モーセの律法と預言者と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」、「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」とおっしゃって、旧約聖書にあるキリストの十字架と復活の預言についてくわしく教えられました。それで、福音書には「こうして聖書の言葉が成就した」と言う箇所が数多くあるのです。そして、その多くが主イエスの十字架に関するものです。

 その中で最も有名なものがイザヤ書52:13-53:12です。使徒8章に出てくるエチオピアの役人は、馬車の中でイザヤ書のこの箇所を読んでいました。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」(イザヤ53:7-8)彼は、馬車に近づいてきたピリポにたずねました。「ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか。それとも、だれかほかの人のことですか。」ピリポはためらうことなく、「この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝え」ています(使徒8:34-35)。わたしたちも、この箇所を心静かに読むなら、これがイエス・キリストの十字架を預言していることが分かるはずです。

 神が、イエス・キリストの十字架と復活をあらかじめ預言されたのは、それが起こったときに、それこそが、神の計画しておられた、全人類のための救いであることを、人々に知らせるためでした。主イエスの十字架がたんにハプニングで起こったことではなく、愛の神が、わたしたちの救いのために備えていてくださったものであることを、聖書の預言によって知ることができるのです。聖書の預言ほど正確に成就しているものはどこにもありません。預言は、聖書が神の言葉であることを証明する証拠のひとつであり、イエス・キリストの救いが、確かなものであることの証明です。

 三、わたしのための福音

 では、この福音は誰のためのものなのでしょう。十字架の預言は、誰のために書かれたのでしょう。今朝の箇所に、「そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された」とあります。旧約の預言者たちは、やがて来る救いを預言しましたが、それは、後の時代の人々、つまり、今の時代に生きるわたしたちのためだったのです。

 続く部分には、「それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である」とあります。聖書の預言が成就すること、神の救いの計画が実行されることが、天使たちの関心事であったことは間違いのないことです。聖書では、イエス・キリストによる救いは、神の深いみこころの中に秘められた「奥義」であったと言っています。そして、神はその「奥義」をわたしたちに明らかにしてくださいました。天のことがらは、天使たちがまっさきに知っていても不思議ではないのですが、神は、天使たちでさえ、知ることを許されていなかったことを、まず人間に知らせてくださったのです。

 イエス・キリストによる救いは罪からの救いです。ですから、罪のない天使たちは、それによって神をほめたたえることはできても、それにあずかることはできません。人間だけが、イエス・キリストによって罪を赦され、罪の束縛から解放されて、救われた喜びを歌うことができるのです。わたしたちは天使たちの賛美に溶け合うことを願って、賛美を歌いますが、天使たちも歌うことができない賛美、贖われた者だけが歌うことができる賛美があるのです。天使は、天で神のそば近くにいますが、神は、罪を悔改めて信じる者を神の子どもとし、天使にまさって、ご自分の近くに置いてくださるのです。天使は人間よりも知恵や知識、力において優れた者なのに、神は、天使たちを神を信じる者たちに仕える者としてくださっているのです。

 預言者たちが預言し、聖霊によって伝えられ、天使によって見守られている、この救いの知らせ、福音はわたしたちのためのものです。聖書のすべては、今、ここに生きるわたしたちのために書かれたと言って良いのです。神は、こんなにしてまで、わたしたちに救いの福音を聞かせようとしておられます。それによってわたしたちに、悔改めと信仰とを促してくださっています。わたしたちは、神の大きな愛に取り囲まれているのです。

 グレッグ・ローリ先生は、17歳のとき、救いを求め、イエス・キリストを信じました。それまでのグレッグ少年は、たいへん荒れた生活をしていました。彼の母親は、アルコール依存症で、七回結婚と離婚を繰り返しました。母親の結婚相手が裕福だったため、お金には困りませんでしたが、彼の心の中はいつも空っぽでした。人間の汚く、醜い面をいやというほど見せられてきたため、17歳の時に、自分がすでに70歳の老人のようであるかのように感じていたそうです。母親のアルコール依存症を、あれほど嫌っていたのに、ティーン・エージャの時、パーティで酒を飲み、そこから二年間ドラッグに手を染めました。しかし、アルコールも、ドラッグも、心を満たすものではありませんでした。グレッグ少年の心を深い闇が支配していたのです。そんな時、彼のハイスクールに、カルバリー・チャペルの伝道者が来て、学校の中で伝道集会が行われました。グレッグは最初、そのメッセージに反発して聞いていたのですが、「もし、それが本当だったらぼくの問題は解決するかもしれない」と思うようになりました。「どうやったら、自分は変わることができるというのだ。キリストを信じるしか他ないじゃないか」と気付いたのです。「イエス・キリストを信じる人は前に出て来なさい。」この招きにグレッグ少年は答えました。そのとき、彼は心の闇から解放されたのです。

 それ以来、グレッグ・ローリ先生は、この福音に生かされてきました。福音を証しし、伝えることが自分の使命であり、人生の目的であることを知りました。神に召されて牧師となり、アメリカ中で福音を語る伝道者となりました。イエス・キリストの十字架と復活は、それによって救われた者だけが語ることのできる福音です。いや、語らずにはおれないもの、語り伝えなければならないものです。わたしたちもまた、長い時代をかけて預言され、伝えられてきたこの救いのメッセージを、闇の中に住み、光を求めている人たちに届けたいと思います。心の闇と戦っている人たちが、この福音によって、救いを見出すことができるようにと、祈り続けたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、聖書の光はすべてイエス・キリストの十字架と復活を照らしています。そして、十字架と復活は、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ4:25)と信じる者を照らします。福音を聞いているわたしたちが、闇から光へと歩み出すことができますよう、導き助けてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/28/2016