知恵を求める

列王記第一3:5-15

オーディオファイルを再生できません
3:5 その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
3:7 わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
3:10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
3:15 ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。

 一、心の願い

 フランスにこんなお話があります。むかし町のはずれに、小さな料理屋がありました。この夫婦は、金持ちではありませんでしたが、毎日の食べるものには不自由せず、健康にもめぐまれて、幸せにくらしていました。

 ある日のこと、伯爵と伯爵夫人が馬車に乗って、料理屋の前を通りました。それを見て、おかみさんが言いました。「あの人たちみたいに、わたしも一度でいいから、すてきなボウシをかぶり、耳かざりをして、馬車に乗ってみたいものだわ。」すると、主人も言いまました。「そうだな。何をするのにも、召使いに手つだってもらい、いばっていられたら、いうことはないね。」こんなことを言っているうちに、二人には自分たちの生活が、急にみすぼらしく見えてきました。

 おかみさんは、ため息をつきながらつぶやきました。「こういう時に天女が現われたら、たちまち願いがかなうのだけど…」こういったとたん、家の中にサッと光がさしこんで、そこに天女が現れました。天女は言いました。「あなたたちの話は、みんな聞きました。願いごとを三つ、口でとなえなさい。かなえてあげましょう。」天女はそれだけ言うと、スーッと消えました。

 主人とおかみさんは、しばらくポカンと、口をあけたままでしたが、やがて主人が、ハッとして言いました。「おいおい、おまえ、聞いたかい!」「ええ、たしかに聞きました。三つだけ、願いがかなうって。」最初は驚いていた二人に、だんだんうれしさがこみあげてきました。「願いごとは三つだけか。そうだな。一番はやっぱり、長生きすることだな。」「おまえさん、長生きしたって、働くばかりじゃつまらないよ。なんといっても、金持ちになることですよ。」「それもそうだ。大金持ちになりゃ、願いごとはなんでもかなうからなあ。」二人は、あれこれ考えましたが、すぐには三つの願いごとを思い浮かべることができませんでした。「ねえ、おまえさん、急ぐことはないよ。ひと晩寝れば、いい知恵もうかぶだろうよ。」こうして二人は、いつものように仕事にとりかかりました。しかし、おかみさんも、主人も、三つの願いごとばかりが気にかかって、仕事がすすみませんでした。

 長い一日が終わって、夜になり、二人はだんろのそばに腰をおろしました。だんろの火はごうごうと燃え、あやしい光をなげかけていました。おかみさんは、だんろの赤い火につられて、思わずさけびました。「ああ、なんて美しい火だろう。この火で肉をあぶって食べたら、きっとおいしいだろうね。今夜はひとつ、一メートルもあるソーセージでも食べてみたいもんだわ。」おかみさんがそう言い終わったとたん、願いごとがかなって、大きなソーセージがバタンと、天井から落ちてきました。

 すると、主人がどなりました。「このまぬけ! おまえの食いしんぼうのおかげで、だいじな願いごとを使ってしまったじゃないか。こんなもの、おまえの鼻にでもぶらさげておけ!」主人がそう言い終るか、終わらないかのうちに、ソーセージはおかみさんの鼻にくっついてしまいました。あわててひっぱってみましたが、どうしてもとれません。おかみさんは、大声で泣き出してしまいました。

 それを見て、主人は言いました。「おまえのおかげで、だいじな願いごとをふたつもむだにしてしまった。最後はやっぱり、大金持ちにしてほしいとお願いしようじゃないか。」おかみさんは足をバタバタさせて言いました。「おだまり! もうたくさんよ。最後の願いは、たったひとつ。どうぞ、このソーセージが鼻からとれますように。」そのとたん、ソーセージは鼻から離れ、おかみさんはもとの顔にもどりました。それから二人は、二度と不平を言わず、今の暮らしを大切にしたということです。

 これは貪欲を戒めたお話ですが、同時に、多くの人が、はっきりとした願望や求めを持たないまま人生を過ごしていることを描いています。日々を平穏に生きることは決して悪いことではありません。しかし、人間にはそれ以上のものがあるのです。人は何のために生きるのかということを知って、はっきりした人生の目的、目標を持つこと、そしてそれを達成するために必要なものを求めることです。

 ソロモンは、その王国を父ダビデから受け継ぎました。神は夢でソロモンに現われて、「わたしに願え、それに答えよう」と言われました。もし、あなたがソロモンだったら、何を求めたでしょうか。今、神が「わたしに願え」と言われたら、何を願うでしょうか。みなさんの心には、何か、ひたすらな願いが燃えていますか。そして、その願いは、神のみこころにかなっているでしょうか。

 ソロモンの父ダビデは「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」(詩篇27:4)と言いました。これは、もっと神を知りたい。神の愛や真実、その知恵や力を知って、神の心を自分の心としたい。神をほめたたえて日々を過ごしたいということを言っています。より真実なもの、より善なるもの、より美しいものを願い求めるのは、人間だけができることです。そして神こそ、最高の真実、善、美です。それでダビデは何者にもまさって神ご自身を求めたのです。私たちもそのような願いを持つ者でありたいと思います。

 二、願いと動機

 神はソロモンに「あなたに何を与えようか。願え」と言われました。その時ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」と答えました。ソロモンは、神に「知恵」を求めたのです。神はソロモンの願いを即座に受け入れてくだいました。ソロモンが正しい動機でそれを求めたからです。

 ソロモンは、長生きすることや金持ちになること、また人々から誉められることを願うこともできたでしょう。しかし、ソロモンは、自分のためではなく、国のために役立つことを願いました。国を正しく治め、国民を幸せにすることを願ったのです。今日、世界の指導者たちが、ソロモンと同じように、自分のためではなく、国民のためになることを願ってくれたら、どんなにいいだろうかと思います。

 聖書は言っています。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:2-3)聖書は、願うのなら、神に願えと教えています。神こそ、あらゆる善いものの与え主だからです。神は、私たちがしつこく願うから、しょうがないので与えるというお方ではありません。神は、私たちのために最善のものをすでに用意してくださっていて、私たちがそれを願うのを待っていてくださるのです。ちょうど父親が、あらかじめバースデー・ギフトを買っておいて、子どもが願ったらすぐにそれをあげようと待ち構えているのと同じです。

 しかし、神は、自分の快楽のために願うことや悪い動機で願うことまで聞き入れてはくださいません。私の友人の牧師は、ラスベガスに行く人から、「先生、ギャンブルで勝って帰れるように祈ってください」と言われて、たいへん困ったと話してくれました。その牧師は「私たちの神さまと幸運の女神とは違うんですよ」と話し、その人がギャンブルにのめり込まないように祈ったそうです。その人はラスベガスで負けて帰ってきましたが、あとになって、「あの時自分の願いが叶わなくてよかった」とその牧師に話したということでした。

 ソロモンは自分のためには何一つ求めず、国民のためになることを求めました。それで神はソロモンが求めなかった富も誉れもソロモンにお与えになりました。11〜13節にこう書かれています。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。」

 私たちが良い動機で、み心にかなったものを求めるとき、神は、それに添えて、あらゆる良いものも与えてくださるのです。イエスはこう言っておられます。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)ここに集まる私たちはそれぞれに生まれた国は違います。みなアメリカに住んでいますが、アメリカの国籍を持つ人も持たない人もあるでしょう。しかし、キリストを信じる者は、みなひとつの国民、「神の国」の民です。同じ天に国籍を持つ者です。ソロモンがイスラエルの王国を第一にして、そのために知恵を求めたように、キリストを信じる者も神の国を第一にし、神の国のために生きることを願う時、神は、神の国の栄光と力で私たちを満たしてくださるばかりか、私たちの生活や、仕事、勉強に必要なものもすべて満たしてくださるのです。

 三、知恵を求める

 願いを持つことの大切さと、それを正しい動機で願うことについてお話してきましたが、最後に「知恵を求める」ことについてお話ししましょう。神の国の働きには知恵が必要です。神は知恵によって世界を造り、治めておられます。救い主には「知恵と悟りの霊」がとどまるとイザヤ11:2には預言されています。この預言の通り、イエスはその知恵によって人々を教えました。イエスの教えを聞いた人々はその知恵に驚いています。南の女王がソロモンの知恵を聞くためにやってきましたが、イエスはソロモンに勝る知恵によって語られたと聖書にあります(マタイ13:54、ルカ11:31)。最初の教会の役員は「御霊と知恵とに満ちた」人たちの中から選ばれました。「知恵」は九つの聖霊の賜物のトップに挙げられています(コリント第一12:7-10)。

 また知恵は人生のために必要です。より良く働くための知恵だけでなく、より良く生きるための知恵も持っていなければならないのです。国会議員、政府の高官や大学の教授など、地位のある人が、つまらないことを言ったり、したりして、その地位を棒にふってしまうことがよくあります。そうした人は、仕事の上では知恵があり、能力があるのに、人生をより確かに、より良く生きるための知恵を学んでいなかったのです。

 私たちも、神からの知恵をいただかなければ、愚かなことを言ったりしたりして、自分自身を卑しめたり、他の人を傷つけたりしてしまいます。けれども知恵ある人は、それによって人々を癒やすことができるます。聖書に「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」(箴言12:18)とあつ通りです。

 現代は、インターネットのおかげで様々な知識が簡単に手に入るようになりました。コンピュータのキーボードを叩くだけで、また、スマート・フォンに触れるだけで、いろいろなことを調べることができます。しかし、コンピュータやスマートフォンは、そうした知識のどれを選び、それをどう用いるかまでは教えてくれません。「知恵」と「知識」とは違います。「知恵」は「知識」の上にあって、「知識」を整理し、判断するものです。ソロモンが「善悪を判断する心」を求めたように、洪水のようにやってくる情報の中から善いものを選び取る「知恵」が、現代ではもっと必要になりました。

 ラインホルド・ニーバーは有名な“Serenity Prayer”を残しました。

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.
神よ、私たちに与えてください。
変えることのできないものを受け入れる冷静さを。
変えなければならないものを変える勇気を。
そして、一方を他方から区別する知恵を。
人生においても、このように、ものごとを判断する「知恵」が必要なのです。

 このような知恵を求めましょう。仕事が良くできるという知恵だけでなく、人生を正しく、また、満たされて生きる知恵を求めましょう。そのような知恵を、子どもたちに、若い人たちに与えてあげたいと思います。聖書は「知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい」(箴言16:16)と言っています。

 金や銀にまさる知恵、それは、すべての知恵の源である神から来ます。また、神の言葉から来ます。テモテ第二3:15に「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」とあります。

 ヤコブ1:5はこう言っています。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」私たちはみな知恵に欠けています。しかし、がっかりすることはありません。神の約束を信じ、神に祈り求めましょう。神は与えてくださいます。神の知恵に導かれ、人を生かし、自分を生かし、神に喜んでいただける人生を送りたいと思います。

 (祈り)

 すべての知恵の源である父なる神さま。私たちは、「知恵の欠けた者」です。あなたから与えられた人生を、愚かなことのために使い、感謝も、喜びも、満足もないままに過ごしてきました。しかし、あなたは、そんな私たちにイエス・キリストによって救いにいたる知恵を与えてくださいました。この知恵をさらに求めさせてください。私たちがもっと聖書に親しみ、あなたからの知恵にさらに満たされることができますよう、助け、導いてください。私たちの救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/4/2019