神の励まし

列王記第一19:1-8

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19:1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。
19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
19:7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。
19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

 一、御言葉の力

 列王記第一17章では、北王国イスラエルに雨が降らなくなったことが書かれていました。年月が過ぎ、三年目に、主は再びエリアに言われました。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」(列王記第一18:1)イスラエルに雨が降らなくなったのは、エリヤがアハブ王に語った神の言葉によってでした。ですから、再び雨が降るようになるためには、エリヤがもう一度アハブ王の前で神の言葉を語る必要があったのです。

 神の言葉が雨を降らせなくもし、また雨を降らせもします。このことは私たちに神の言葉の力を教えてくれます。多くの人々は、神の言葉は人の心の中だけで働くのだと考えていますが、それは大きな誤解です。創世記にこうあります。「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1:3)「神は『天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。』と仰せられた。するとそのようになった。」(創世記1:9)神は、その言葉によって、無から有を呼び出され、それを形造られました。そして神の言葉が、目に見える世界を、大宇宙から生物の遺伝子や原子の構成にいたるまでを支えているのです。イザヤ55:10-11にこう書かれています。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」人が神の言葉を信じようが信じまいが、神の言葉は力をもって世界の中に働いているのです。

 神の言葉は、目に見える自然界に働いているように、目に見えない霊的な世界にも働いています。神は、御言葉によってイエス・キリストを信じる者を救い、神の子どもとして生まれ変わらせてくださいます。ペテロ第一1:23〜25はこう言っています。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」そして、神の子どもたちを養い、育てるのも神の言葉なのです。ペテロ第一2:2に「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」とある通りです。

 神の言葉が私たちを救うのはどのようにしてでしょうか。神の言葉が語られ、それが信仰をもって聞かれ、実行されることを通してです。自然や動物は神の言葉に従っているのに、神の言葉を最もよく理解できるはずの人間だけが神の言葉に逆らっています。そのため神の言葉が持つ力を体験できないでいるのです。神の言葉を信じて、それに従った人たちはみな、神の言葉が実現するのを見てきました。神は真実なお方です。求めるなら与えられる、信じるなら救われる、従うなら祝福されるという約束を守ってくださるのです。

 二、御言葉の勝利

 さて、エリヤは神の言葉を携えて再びアハブ王に会いました。アハブ王はエリヤを見ると「イスラエルを煩わしているのはおまえか」と言いました。エリヤはそれに対して、「私ではありません。それはあなたです。あなたは主の命令を捨て、バアル崇拝をしているではありませんか」と答えました。雨が降らなくなり、旱魃や飢饉が起こったのは、なるほど、エリヤの言葉によってでしたが、その災いを招いたのは、アハブ王とイスラエルの人々の罪でした。

 そこでエリヤは、主が神なのか、それともバアルが神なのかをはっきりさせるため、バアルの預言者たちとの対決を申し出ました。アハブ王はそれを承知し、人々をカルメル山に集めました。そこに主のための祭壇と、バアルのための祭壇の二つを造り、それぞれに雄牛を一頭づつ、その祭壇に焼き尽くすささげものとしてささげることになりました。ただし、自分たちの手で薪に火をつけるのではなく、祭壇に天から火をつけた神がまことの神であるということにしました。

 最初にバアルのための祭壇に犠牲が捧げられました。バアルの預言者四百五十人とアシェラの預言者四百人は朝から真昼まで「バアルよ。私たちに答えてください」と叫びました。しかし答はありませんでした。昼を過ぎると、バアルの預言者たちは、自分たちの身体を傷つけ、わざと血を流して興奮し、大声をあげて祭壇の回りを踊り歩きました。しかし、祭壇には何の変化もありませんでした。

 次にエリヤが主のための祭壇を築き、そのまわりに溝を掘りました。祭壇に薪を並べ、犠牲の動物を薪の上に載せました。そこに四つの大きなかめいっぱいの水をいけにえや薪に注ぎかけました。それを三回くりかえしたので、水が祭壇から流れ落ち、溝を満たしました。そしてエリヤはこう祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」(列王記第一18:36-37)神はその祈りに答え、天からの火で、水浸しになっている薪もささげものも焼き尽くされました。その火は祭壇の石やちりさえ焼き、溝にたまっていた水をすべて乾かしました。これを見た人々は、「主こそ神です。主こそ神です」と言って、まことの神を礼拝しました。

 人々がカルメル山を去った後も、エリヤはひとり残って祈りました。すると、雨が降り出し、やがて大雨となりました。主が「雨は降らない」と言われると雨は止み、主が「雨が降る」と言われると雨が降ったのです。神の言葉には天から火を下し、雨を降らせる力があるのです。エリヤはたったひとりで千人近いバアルとアシェラの預言者と対決し、勝利しましたが、エリヤの勝利は神の言葉の勝利でした。私たちも、様々な困難や問題に取り囲まれたとしても、真実な神の言葉を確信して、困難や問題に立ち向かうなら、神の言葉の力によって、そうしたものに勝利していくことができるのです。

 三、御言葉の励まし

 エリヤは神の言葉によって大きな勝利を収めました。ところが、列王記第一19章を見ると、エリヤは王妃イゼベルを恐れ身を隠しています。アハブ王さえ恐れなかったエリヤがイゼベルを恐れたのはどうしたことでしょうか。アハブ王は合意の上で行ったカルメル山の対決で負けたのですから、エリヤの命を保証せざるを得ませんでした。そうしなければ人々の信頼を失い王として国を治めることができません。しかし、イゼベルにはそんな気持ちはありません。自分が養っていたバアルやアシェラの預言者を殺されたという恨みから、政治のことなど考えないで、すぐさまエリヤを殺そうとしたのです。

 そこでエリヤは北王国イスラエルを離れ、南王国ユダのべエル・シェバというところまで逃げて来ました。ベエル・シェバはシナイ半島の付け根にあたるところで、そこから南は荒野が広がっています。ここまで来ればイゼベルといえども手を伸ばすことはできないでしょう。しかし、預言者が自分の持ち場を離れてしまったら、それは預言者としての務めを放棄したことになります。エリヤはそれを恥じて、「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」(列王記第一19:4)と祈ったのです。しかし、主は、「私のいのちを取ってください」というエリヤの願いを受け入れませんでした。エリヤに食べ物を与え、彼をシナイ半島の先端のホレブ山まで導きました。そこは主がモーセに律法を授けた場所でした。主は、エリヤをこの歴史的な場所に導き、かつてモーセにご自分を現されたように、エリヤにもご自身を現わし、御言葉を与えようとされたのです。

 エリヤはホレブ山に着くとほら穴に入って一夜を過ごしました。すると主がエリヤに呼びかけました。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」エリヤはそれに答えて言いました。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」エリヤは主の前でも泣き言を繰り返しています。エリヤは「主の預言者は私ひとりになってしまいました」と言いましたが、じつは、主は、イスラエルに七千人の主を信じる人々を残しておかれ(列王記第一19:18)、エリシャをエリヤの後継者となるように備えておられたのです。エリヤはあまりの失望、落胆のためマイナスの面しか見えなかったのです。それは、私たちも同じだと思います。私たちも困難や問題にふりまわされる時、主が備えておられるプラスの面が見えなくなり、失望や落胆のほら穴に閉じこもってしまうことがあります。しかし、「外に出て、山の上で主の前に立て」という声を聞いたエリヤが、そこから一歩を踏み出したように、私たちも、失望や落胆のほら穴から、主の前に進み出たいと思います。

 エリヤがほら穴の入り口に近づくと、激しい風が山々を裂き、岩々を砕きました。風のあとに地震が起こりました。そして地震のあとに火がありました。しかし、主は、風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられませんでした。大風、地震、火。これは主の大きな力を表します。けれども、人は激しい風や地震、また火の中に立つことはできません。主が、ご自分の力をそのまま表されたなら、誰一人主の前に立つことはできないのです。それで、主は火のあとに「静かな声」でエリヤに語りかけました。主はその「静かな声」の中に、ご自分を現され、エリヤは主の「静かな声」の中で、主にお会いしたのです。

 このことは、今日の私たちにとっても同じだと思います。奇蹟的な出来事や神の大きな御業は、私たちの信仰の目を覚まさせ、「主は生きておられる」と感じさせてくれます。それは必要なことです。しかし、それがセンセーショナルな出来事だけで終わってしまうなら、その興奮が去ってしまった後、何も変わっていない自分を発見してがっかりすることでしょう。主は、ご自分の力を目に見える形で表してくださいますが、主が私たちと共にいてくださること、つまり「臨在」は、いつでも、「静かな声」によって示してくださるのです。詩篇46:10に「静まって、わたしこそ神であることを知れ」("Be still, and know that I am God.")とある通りです。主の静かな声を聞くため心を静める時、私たちは主が私たちと共におられることを知ります。そこで聞く神の言葉によって、慰めと励まし、また力を受け、主によって造りかえられていくのです。

 主はエリヤに言われました。「ハザエルに油をそそいでアラムの王とし、エフーに油をそそいでイスラエルの王とし、エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。」(15、16節)主はエリヤに次の世代の王たちを立て、彼の後継者となる預言者を育てるように命じました。主は、イスラエルのために新しいことをすでに始めておられたのです。エリヤは「私のいのちを取ってください」と言いましたが、主は「あなたにはまだしなければならない使命がある」と言って、エリヤになお生きて、働くことを命じられたのです。ホレブの山で主の声を聞いたエリヤは、もう、今までのエリヤではありませんでした。心身ともに癒やされ、力づけられ、もういちどイスラエルに遣わされて、主の預言者としての働きを続けました。

 私たちもまた、さまざまな困難や問題に取り囲まれて、身も心も疲れ果ててしまうことがあります。そのような時、私たちを慰め、癒してくれるものは、神の言葉の他ありません。世界を創造し、それを支えている神の言葉が、私たちを励まし、力づけないわけがありません。私たちも、エリヤと同じように、神の言葉によって力を受け、自分の持ち場へと送り出されていきたいと思います。

 きょうは、詩篇119:47〜50の言葉で祈りましょう。

 (祈り)

 主なる神さま。私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。主イエスの御名で祈ります。アーメン。

9/8/2019