17:8 すると、彼に次のような主のことばがあった。
17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
17:11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」
17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
17:14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」
17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。
一、預言者エリヤ
イスラエルの国はソロモンの死後南北に分かれ、北は「イスラエル」、南は「ユダ」と呼ばれるようになりました。南王国ユダはソロモンの子、レハブアムによって治められましたが、北王国イスラエルはソロモンの家来であったヤロブアムが王となりました。神殿は南王国エルサレムにありましたので、ヤロブアムは、北王国の人々が南王国に行かないようにするため、北王国に自分たちの祭壇や礼拝所を造り、祭司を任命し、祭日を決めました(列王記第一12:31-33)。それは、聖書に定められたものではなく、勝手に作ったものでした。それで、ヤロブアムからおよそ70年たってアハブが王になった時には、北王国の人々はまことの神への信仰から離れて行き、バアル崇拝が国中で盛んになっていました。アハブ王はシドンの王の娘イゼベルを妻に迎え、妻イゼベルとともにバアル崇拝やアシェラ崇拝を盛んにしたのです。イゼベルは450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者を養っていました。
まことの神、主の預言者たちの多くは、アハブとイゼベルによって殺されましたが、主は、主の預言者を北王国イスラエルにも残しておいてくださいました。そのひとりがエリヤでした。預言者エリヤの名前が最初に出てくるのは、列王記第一17:1です。「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った」とあります。何の前触れもなく、突然、エリヤが登場しますが、エリヤは、すでにアハブやイゼベルに知られていましたから、それまでも預言者として活動していたのでしょう。しかし、北王国で預言者として活動することは命がけでした。エリヤがアハブやイゼベルに知られていたといっても、それは「お尋ね者」として知られていたので、エリヤがアハブの王宮に出向くことは危険きわまりないことでした。
しかし、預言者は主なる神のメッセンジャーですから、たとえそこがどんなに危険な場所でも行かなけばなりませんし、伝えるべきメッセージが人々に気に入られないものであっても、主の言葉通りに語らなければなりません。エリヤはそのことを勇敢に、また、忠実に果たしました。神は、どんなに暗い時代でも、神の言葉を知らせる預言者を与えてくださっています。神の言葉は人を生かします。そして、神の言葉によって生かされた私たちは、他の人にそれを伝える小さな「預言者」となって、他の人々を励ますことができるようになるのです。
二、エリヤの預言
さて、エリヤの預言はこうです。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(列王記第一17:1)これは、バアルに従い、アシェラを拝む人々へのチャレンジでした。「バアル」という名には「主人」という意味があります。しかし、ほんとうに「主」と呼ばれるべきお方はまことの神だけです。かつては、まことの神、主を知っていた人々が、主を捨て、人間が作り出した神を礼拝し、それを「主人」と呼んで仕えていたのです。また、人々は、女神アシェラをあらゆる命あるものの母として崇めていました。しかし、あらゆるものに命を与えておられるお方はただひとり、イスラエルの神、生ける、まことの神、主です。ですからエリヤは「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と言って、人々に、この生ける、まことの神を信じ、この神を礼拝し、この神に仕えるようにと呼びかけたのです。
エリヤは「二、三年の間は露も雨も降らない」と預言しました。そして、その言葉が語られた時から、ぴたりと雨が降らなくなりました。バアルは農耕の神で、バアルが雨を降らせ豊作をもたらしてくれると信じられていました。ところが、エリヤは、バアルが降らせるという雨が、ここ二、三年の間降らないと預言したのです。この預言は、地に恵みの雨を注ぎ、豊かな収穫で人を楽しませてくださるのは、バアルではなく、まことの神、主であることを示すためのものだったのです。
聖書は、エリヤが語った、生ける、まことの神を私たちに教えています。神は世界の創造者であり、あらゆるものに命を与えたお方です。人は被造物の中でも特別なものとして、「神のかたち」に造られました。神を知り、神と心と心を通いあわせることができる者として造られたのです。ですから、神は人に信仰を求め、人は神を信じることができるのです。神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼び、神を信じる者たちと共にいて、その人生を導いてくださいました。イスラエルをエジプトから救われた神は、イエス・キリストによって、私たちを罪から救ってくださいました。神は御子イエスの「父」であり、同時に、御子イエスを信じる者の父となってくださるのです。英語で「神」と書くとき、大文字で始まる “God” を使います。大文字で始まる言葉は人格を示しますので、これは、私たちが「神」という概念を信じているのでなく、「神」というお名前をもつ、ご人格を信じていることを表しています。
韓国語では神は「ハナニム」と呼ばれます。「唯一のお方」という意味があるそうですが、日本では神は「八百万(やおよろず)の神」と言われます。文字通りなら八百万のさまざまな神々が、あらゆるところにいるとされています。ですから、クリスチャンが「私は唯一の神、唯一の救い主を信じています」と言うと、「それは、考えが狭い。自分の心が休まるのであれば、どの神を信じても良いのではないか」と反論されることがあるのです。しかし、「どの神を信じようが、それで自分の心が安らかであればそれで良い」というのは「宗教」の考え方であって「信仰」ではありません。宗教とは、人々の信仰心に基づき、様々な歴史や文化と結びついて、それが人間や社会に役立つために作られた制度のことを言います。ですから宗教にとっては、そこから生まれる結果が同じなら、何を信じるかはさして問題ではないということになります。けれども「信仰」は違います。信仰は神と人との人格の関係、愛と信頼の関係ですから、どの神でも良いというわけにはいきません。私たちが皆さんにお勧めしているのは、「キリスト教」という宗教に加入することではなく、生けるまことの神と救い主イエス・キリストに信頼し、従うことなのです。日毎の祈りの生活や週ごとの礼拝は私たちが神ご自身に近づくためにあるのです。私たちは礼拝をたんなる宗教の集まりで終わらせたくはありません。ここで、生ける神に出会う場にしたいと願っています。
三、神の養い
イスラエルの地方に旱魃が襲い、飢饉がやってきました。それで主はエリヤをケリテ川のほとりに導きました。エリヤはその川の水を飲んで渇きを癒やしました。また、朝と夕には、カラスがどこからかパンをくわえてきてはエリヤのいるところに置き、肉も運んできました。エリヤはカラスが運ぶパンと肉を食べて、飢えをしのぎました。神は、主を信じる者を不思議な仕方で守り、養ってくださるのです。多くの信仰者が、大変困っている時に、思いがけない方法で神の助けを頂いた体験を持っています。ある宣教師が本国からのサポートが届かなくて困っていたとき、思いがけない人からの援助があって、必要が満たされました。そのときその宣教師は「エリヤのカラスが私を助けてくれました」と話していました。皆さんも同じような経験があると思います。
やがてケリテ川も枯れると、主は、エリヤをシドンのツァレファテという町に導きました。シドンと言えばイゼベルの故郷です。アハブとイゼベルの罪によって生じた旱魃と飢饉は、イスラエルだけでなく、イゼベルの故郷をも苦しめたのです。その町にひとりのやもめがいました。このやもめには小さな男の子がいましたが、食べ物が尽きてしまい、かめの中には一握りの粉、つぼには少しの油しか残っていませんでした。それで、このやもめは最後に残った粉と油でパンを焼いて食べたなら、息子とふたりで死のうとしていたのです。エリヤはそのやもめに「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」と告げました。やもめはそれを信じて、まずエリヤのために、次に自分と息子のためにパンを焼きました。すると、空っぽになったはずのかめに粉がいっぱいになっており、つぼにも油がその口まで満たされているのです。それは再び雨が降るまで続きました。こうして、やもめと息子は救われ、エリヤはこのやもめが作ったものを食べ、養われたのです。この世界を無から造られた全能の神にとって、空っぽのかめに粉を満たし、つぼに油を満たすことはたやすいことでした。神はこの奇蹟によって、神には不可能なことはないことを表してくださいました。
聖書で「やもめ」や「みなしご」は社会的に最も弱い立場にある人々を指します。律法には「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。」(出エジプト記22:22)「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。…あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」(申命記24:17, 19)などと書かれています。律法というと、何か冷たい規則のように思われがちですが、律法は本来、神の愛の配慮の表れなのです。詩篇には「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」(詩篇68:5)とあります。神は、その全能の力によって、また、その深い愛によって、外国のシドンのやもめを養い、そのやもめの手を通してエリヤを養ってくださったのです。
エリヤがカラスによって養われたことを思い巡らしていたとき、私は、主がヨブに言われた言葉を思い出しました。「烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのはだれか。」(ヨブ38:41)もちろん、それは神である主です。詩篇に「神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方」(詩篇147:8-9)とあります。地に雨を降らせ、すべて命あるもの、空の鳥やカラスさえも養っておられるのは主です。主はカラスを養い、そのカラスを通してエリヤを養ったのです。
イエスは言われました。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(マタイ6:26)空の鳥を養ってくださる父なる神が、ご自分の子どもとした信仰者たちを養ってくださらないはずがありません。神への信仰は、決して、自分の利益のためにあるのではありませんが、神が神に頼る者に報いてくださることは確かなことです。主に信頼する者は、たとえ困難な状況に置かれることがあったとしても、そこで行き詰まるような目に遭わせられることはありません。主は、信じる者を決してお見捨てにならず、必ず必要な助けを送ってくださいます。
きょうの箇所は、今から2870年も前の遠い昔の出来事ですが、エリヤが仕えた神は今も生きておられます。信仰の先輩たちは、困難に直面して心を乱して慌てたり、もう駄目だとあきらめたりしている人々に、「エリヤの神はどこにおられますか」と言って励ましていました。日々の生活の中で主に信頼し、「エリヤの神、主は、私と共におられます」と言うことができる者でありたいと思います。「私の仕えている神、主は生きておられる。」そう言って主に感謝し、主を賛美する者とさせていただきましょう。
(祈り)
天地の造り主、全能の父なる神さま。あなたは生けるまことの神、ただひとり、私たちが信じ、愛し、従うことのできるお方です。きょうは、あなたを信じる者が、あなたによって守られ、養われることを学びました。この週も、御言葉に学んだことを生活の中で実践することができるよう、導き、助けてください。そして、あなたが、御言葉の通りに働いてくださったことを、次の週に分かち合うことができるようにしてください。あなたの御子イエスのお名前で祈ります。
9/1/2019