自己点検の恵み

ヨハネ第一1:5-2:2

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1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための、―私たちの罪だけでなく全世界のための、―なだめの供え物なのです。

 むかし、ある小さな人里はなれた村に一軒の、誰も住んでいない家がありました。ある日、一匹の子犬がその家の正面の扉に穴が空いているのを見つけました。そこから中に入ると、部屋のドアが少しあいていて、子犬はそこから中に入ることができました。入ってみるとびっくりしました。その部屋にはおよそ1000匹の子犬たちがいたのです。子犬がかれらをじっと見つめていると、かれらもまた子犬を見つめます。子犬が尻尾を動かし、少しづつ耳をあげていくと、1000匹の子犬も皆同じようにまねをします。子犬はうれしくなって、大勢の子犬たちに微笑み、吠えると、何と1000匹の子犬たちも共に喜びながら吠えました。子犬はその部屋を出て、こう言いました。「何と心地よい所だろう。またいつか来よう。」

 それから数日が過ぎ、一匹の野良犬が同じ家の中に入って、同じ部屋に行きました。けれども前の子犬と違って、1000匹の犬を見たとき野良犬は恐怖を感じました。1000匹の犬が自分にいどみかかるような目つきで見すえていたからです。ついに野良犬はうなり声をあげました。すると、1000匹の犬たちも同じようにうなり始めました。野良犬が激しく吠えると1000匹の犬たちも同じように吠えました。野良犬はその部屋を出て言いました。「何と恐ろしい場所だろう。二度とここに来るのはやめよう。」

 その家の正面に古い看板があり、それには「1000個の鏡の家」と書いてありました。子犬も、野良犬も自分の姿を見ていたのです。

 私たちは、お互いに、人の姿は見えても、自分の姿はなかなか見えないものです。「なんて、ここは暗くて、冷たいのだ。」と嘆くとき、それが、自分の心の暗闇を他の人に投影している場合もあるのです。「あの人はなんてケチなんだ。」と人を非難する人にかぎって、自分がケチだったりするものです。他の人の「あら捜し」はしても、誰も自分の「あら捜し」はしたがりません。けれども、神とともに生きる幸いを味わうためには、自分を点検し、自分の姿を正しく知り、それを認める必要があります。「12ステップ」の第四は、自分の姿を正しく知り、それを認めること、「自己点検」を教えています。これは簡単なことではありません。しかし、不可能なことではありません。どうしたら、それができるのでしょうか。また、「自己点検」は私たちにどんな恵みをもたらしてくれるのでしょうか。今朝はそのことを学びましょう。

 一、自己点検の力

 昨年は「12ステップ」の第一から第三までを六回にわけて学びました。「12ステップ」の第一は「私は、自分の依存症(または問題)にたいして無力であることと、自分の生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」第二は「私は、自分よりもすぐれた力が私を正常にもどしてくれることを信じました。」そして第三は「私は、私の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」でした。

 ステップ4では「私は、臆することなく自分自身をほりさげ、道徳面での自己反省をしました。」とあって「自己点検」が教えられています。ステップ5〜7では「私は、神に対し、自分に対し、他人に対し、自分のどこが間違っていたかを、はっきりと認めました。」と、「悔い改め」が教えられています。ステップ8と9では「償い」が、ステップ10〜12では今まで学んだ原則を「実行」していくことが教えられています。

 「12ステップ」は「認めたいと思います。」「信じたいと思います。」「決心したいと思います。」ではなく、「認めました。」「信じました。」「決心をしました。」と言っています。階段を上っていくように、一段登っては、今、自分がいるところを確認していくのが「12ステップ」です。みなさんは、「12ステップ」をどこまで登りましたか。その原則を自分にあてはめて実行できたでしょうか。

 「12ステップ」は先に進めば進むほど、実行するのが難しくなってきます。自分を点検し、欠点を改め、償いをすることなどは、自分の力だけで出来るものではありません。ステップ1で学んだ自分の無力、ステップ2で学んだ神の愛と力、ステップ3で学んだ神への信頼を繰り返しながら、ステップを進んでいかなくてはなりません。「12ステップ」は、人を神の助けも他の人の助けもいらなくなるように私たちを強くするものではありません。むしろ、私たちに神の助けが必要なことをさらに教え、神に頼ることを教えるものなのです。

 「12ステップ」は「セルフ・ヘルプ」のプログラムと言われています。「セルフ・ヘルプ」というのは、専門家の助けによってでなく、自らの努力や仲間の助けによって問題を解決していくことをさしています。「12ステップ」のサポート・グループにもリーダがいますが、リーダのほとんどは「12ステップ」によって回復の体験をした人たちで、専門の医者やカウンセラー、セラピストではありません。それで、これは「セルフ・ヘルプ」と呼ばれます。しかい、厳密な意味では、「12ステップ」は「セルフ・ヘルプ」、自分で自分を変えていくプログラムではありません。ステップ1は「私は、自分の依存症にたいして無力であることと、自分の生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」でした。自分の努力でも、人の助けでもどうにもならないということを認めることから「12ステップ」が始まるわけですから、それは「セルフ・ヘルプ」ではありえません。ステップ2で「私は、自分よりもすぐれた力が私を正常にもどしてくれることを信じました。」と言い、ステップ3に「私は、私の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」とありますから、「12ステップ」は「セルフ・ヘルプ」どころか「ゴッド・ヘルプ」を教えています。「12ステップ」を実行していくには、もちろん努力も、訓練も必要です。しかし、それは、歯を食いしばって頑張らなければならないものでも、いつ転落するかわからない危険と隣り合わせのロック・クライミングのようなものでもありません。「12ステップ」は神が導いてくださる確かな歩みです。自分の力ではなく、神の力に頼る信頼のプログラムです。

 ステップ4の「自己点検」も同じです。「自己点検」は、口で言うのはやさしく、実行するのに難しいものです。人は自分の本当の姿が明らかになるのを恐れます。それに直面するのが怖いのです。主イエスがサマリヤの女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われたとき、彼女は「サマリヤ人はゲリジム山で礼拝をしていますが、ユダヤ人はエルサレムで礼拝しています。どちらが正しいのですか。」と言って、話題を宗教問題に切り替え、自分自身の問題から身をかわそうとしましたね。罪を持った人間にはそういう習性があるのです。「12ステップ」は、そうした人間の習性を良く知っていて、ステップ4で「私は、臆することなく自分自身をほりさげ、道徳面での自己反省をしました。」と言って、「臆することなく」勇気を奮って自己点検をするよう教えているのです。

 しかし、その勇気はどこから来るのでしょうか。それは神から来るのです。自己点検をしようとするとき、私たちはどうしてもしり込みしてしまいます。そんな弱さを持っています。ですから、このことでも私たちは神に頼るのです。「神さま、正しく自分に向き合うことができるよう助けてください。」と祈って、神の助けを願い求めるのです。恐れながらであっても、しり込みしながらであっても、「自己点検」に向かっていくなら、神は、私たちを助け、導いて、ほんとうの自分に向き合う勇気を与えてくださいます。「12ステップ」のどれもが神の助けをいただいてはじめて実行できるように、第四のステップ「自己点検」もまた、神に信頼することによって、はじめて、実行することができるのです。

 二、自己点検の恵み

 多くの人はなかなか医者に行きたがりません。とくに男性はそうだと言われています。医者から重い病気だと言われるのではないかという恐れがあるからです。しかし、重い病気なら、一日も早く、手当てをしなければなりません。もし、病気があるなら、早く見つけてもらったほうが良いのです。それは、私たちと神との関係でも同じです。もし、私たちの物の考え方に間違ったところがあるなら、私たちが神から遠く離れないうちに正していただかなくてはなりません。神に対する態度に思い違いがあるなら、それが私たちから神への愛や熱心を取り去ってしまわないうちに直していただかなくてはなりません。私たちのことば、習慣、時間やお金の使い方などに問題があるなら、それがとんでもない結果をもたらす前に解決しいただかなくてはなりません。神が私たちに自己点検を命じておられるのは、一刻も早く私たちの傷をいやし、私たちの問題を解決し、私たちを強めようと願っておられるからです。

 聖書はクリスチャンになったら、もうどんな罪も犯すことがなくなる、クリスチャンには何の罪もないとは言っていません。ヨハネ第一1:8,10に「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。…もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」とあるように、クリスチャンも、罪を犯します。なお弱さを持ち、不完全で、成長の余地があるのです。ですから、私たちはクリスチャンになる前だけでなく、クリスチャンになってからも、自分を点検する必要があります。私たちは、自分の罪が自分では解決できないことを認めました。神が罪びとを愛しておられることを知りました。そして、イエス・キリストを信じてすべてを神にお任せしました。本当にキリストを信じている者は12ステップの第1から3までをすでに通ってきたはずです。そして、今、ステップ4に取り組んでいるのです。自分の罪を悔い改めることなしに救いはありませんが、救われてはじめて、自分の罪がもっとはっきりと分かるようになるというのも事実です。悔い改めによって成長し、成長するにつれてもっと深く悔い改めができるようになる、それが自己点検の恵みです。

 また、私たちは自己点検によって罪の赦しの恵みを体験することができます。神は、私たちがイエス・キリストを信じたとき、それまで犯した罪を赦してくださっただけでなく、クリスチャンになってから犯す罪のためにも赦しを備えていてくださっていることを発見するでしょう。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)とあるように、それは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しです。十字架はクリスチャンになるときに必要だったが、今はいらないというものではありません。クリスチャンであり続けるために、日々、十字架が必要です。クリスチャンになったとき、バプテスマ(洗礼)を受け、キリストの十字架と復活に結び合わされますが、その後も聖餐にあずかることによって、私たちは、イエスの十字架と復活を覚え続けるのです。クリスチャンにとって、イエス・キリストの十字架も、罪のゆるしも決して過去のものではありません。「光の中を歩く」とは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しの中に生きることを意味しています。

 窓を閉めきった真っ暗な部屋では、その部屋がどんなに汚れていても、散らかっていても、それは見えません。しかし、窓をあけて光を入れると、たちまち、部屋の状態が明らかになります。そのように、神の光が心に入ってくると、いままで見えなかった自分の罪が見えてきます。いままで気がつかなかった自分の欠陥が明らかになってきます。けれども、神の光は、私たちの罪を暴き出すだけのものではありません。それは同時に私たちを罪からきよめるのです。私たちがどんなに闇を持っていても、光に照らされるなら、闇は消えて光になります。光に照らされたものはみな、光になるのです(エペソ5:14)。自己点検は、決して、戒律的な難行苦行ではありません。確かに自分の罪や間違い、欠陥や弱点があからさまになるのを見るのはつらいことですが、しかし、それにまさって、神が罪を赦し、傷をいやし、欠陥を補い、弱さを強めてくださるのを見て喜ぶのです。自己点検は、私たちの心の中にしまいこんでいる暗やみがひとつひとつ光に変わっていくのを見る、エキサイティングなものです。

 ヨハネ第一2:1,2には「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、―私たちの罪だけでなく全世界のための、―なだめの供え物なのです。」とあります。これは、自己点検を実行する人にとってなんと慰めに満ちたことばでしょうか。罪の赦しは、自己点検を完璧にやりとげることによって与えられるものではありません。自己点検は正直に誠実に行わなければなりませんが、どんなに正直で誠実であったとしても私たちのすることは不完全です。罪の赦しは、私たちの完全さによって勝ち取ることのできるものではありません。もし、それが人間の手で勝ち取ることができるものなら、それはもう恵みではなくなります。「立派な」クリスチャンになることによって赦しを得るのではありません。神の右にいてとりなしてくださるイエス・キリストに恵みとあわれみを求める者に赦しときよめがやってくるのです。クリスチャンの自己点検は決して自分の罪を見つめるだけの作業ではありません。それはキリストを見上げる作業です。精一杯の誠実をもって自己点検に取り組むなら、私たちのたましいは、キリストの恵みで満たされることでしょう。

 ミカ書7:18-20に、「神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブを示し、いつくしみをアブラハムに示される。」(口語訳)とあります。ほんとうは、イスラエルが罪を犯し、悪を行ったのに、神は悔い改めたイスラエルを愛し、イスラエルが犯した罪のほうを憎まれました。「われわれの不義を足で踏みつけられる。」という表現は、神が罪を憎しみを込めて踏みつけておられる様子を良く表わしています。「罪を海の深みに投げ入れる」とは、神が私たちの罪を完全に赦し、それを消し去ってくださることを意味しています。神は、イスラエルにしてくださったのと同じことを、キリストを信じる者にしてくださいます。神は、イエス・キリストの十字架で私たちの罪を赦し、罪を私たちから遠ざけ、それをもう思い出さないと言ってくださるのです。ですから、私たちは、神の完全な赦しを確信して、大胆に神に近づくことができるのです。ある説教者が、ミカ書から説教してこう言いました。「神は私たちの罪を海の深みに投げ入た。そして、そこにサインを立てられた。No Fishing! ここで魚つりをしてはいけない。」神の助けをいただいて、正直に自己点検をする者は、罪の赦しという、他では決して得られない祝福を受けるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは自己点検を怠ってきました。この怠りを赦してください。そして、罪の赦しの恵みが待ちかまえていることを確信して、正直に自己点検に取り組むことができるよう導いてください。自己点検に、まだまだ臆病な私たちですが、あなたの助けを信じてあなたの前に一歩を踏み出させてください。私たちをあなたの恵みの光の中に歩ませてください。あなたを知ることによって自分を正しく知り、自分を正しく見つめることによって、あなたの愛の御顔を仰ぎ見ることができるようにしてください。父なる神の右の座にいてとりなしてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。

1/20/2008