1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――
1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
使徒2:42に「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」とあるように、「まじわり」は、「使徒たちの教え」、「パン裂き」(主の晩餐)、「祈り」とともに、教会になくてならないものとして守られてきました。ところが、この「まじわり」とは何なのかということは、案外よく理解されていません。時には誤解されることもあります。そのため、教会の「まじわり」が聖書の教えるものとは違ったものになり、ほんとうの「まじわり」を求めて教会にやってくる人たちを失望させてしまうかも知れません。そうならないため、いや、教会に、聖書の教える「まじわり」が築き上げられていくために、「まじわり」について基本的なことを学んでおきたいと思います。
一、神とのまじわり
「まじわり」には、ふたつの面があります。ひとつは神とのまじわりで、もうひとつは神を信じるひとびと相互のまじわりです。聖書は、神とのまじわりが先にあって、そこから神を信じるひとびとの互いのまじわりが生まれると教えています。この順序は大切です。
「神とのまじわり」、それは神に愛され、神を愛することです。しかし、日本人の多くは「神とのまじわり」と言われてもピンと来ません。日本の神々は、人々を愛することがなく、人々に愛されることも求めていないからです。天からの雨が田畑を潤し、地に実りをもたらす、人々はこの自然の営みを神々としてあがめました。しかし、自然はいつでも穏やかとはかぎりません。嵐が吹きあれることも、洪水になることも、日でりが続くこともあります。人々はそれを神々の怒りと考えました。そして、神々をなだめるために祭りをしました。日本人の多くが信じる神々は怒りこそすれ、人々を愛することがないのです。
日本には昔から「さわらぬ神にたたりなし」ということわざがあって、お宮を建て、神々をそこに閉じ込めておけばそれでよいと考えていました。参拝と祭りを欠かさないことが「信心深い」ことであって、「神とまじわる」などというのは、もののけに取り憑かれる、恐ろしいことだと考えられてきたのです。こうした宗教的な背景のため、「人とのまじわり」はなんとなく分かっても、「神とのまじわり」についてはなかなか理解できないのかもしれません。
しかし、神が分からないのは、日本人にかぎったことではありません。神は人間を超えた存在ですから、人間のほうから神を知ることはできません。神のほうから、ご自分を示してくださってはじめてできることなのです。そして、神は、ご自分を示すために、人となってこの世に来られました。それがイエス・キリスト、人となられた神です。
ヨハネの手紙は、キリストについて、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言」(1節)と言っています。「言」とはキリストのことです。キリストは「初めから」おられたお方です。いつかあるときに誰かに造られたのではありません。すべてのものをお造りになったお方です。
神は永遠のお方、人間は限りある者。神は創造者、人間は被造物。神は聖なるお方、人間は罪ある存在。そのままでは、神と人間には接点も、共通点もありません。それで、キリストは人となることによって人間との接点と共通点を作ってくださったのです。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」とあるのは、人間がほんらいは見ることさえできない神が、見て、触れることのできる体を持った人間となられたことを言っています。
キリストが人となられる、それは簡単なことではありません。キリストがそこまでなさったのは、わたしたちへの愛のゆえでした。かつて、ハワイのモロカイ島にダミアンという宣教師がいて、当時「らい病」と呼ばれたハンセン氏病の人々に伝道していました。しかし、なかなか患者たちに受け入れてもらえませんでした。そうこうしているうちにダミアンもまた同じ病気にかかってしまいました。けれども、ダミアンはそのことを嘆くどころか、むしろ喜びました。「わたしは、あの人たちと同じになった。いまこそ、神の愛を伝えることができる」と考えたのです。病気の人に伝道するため、自分も同じ病気になったダミアンのしたことは尊いことですが、キリストが人となられ、わたしたちと同じになられたことは、それよりもはるかに大きなことでした。ダミアンは、人となってまでわたしたちに神の愛を知らせようとされたキリストの愛に動かされて、そうすることができたのです。
わたしたちは、このキリストの愛によってはじめて神を知ることができました。神に愛されていることを知り、神を愛することを学んだのです。神とのまじわりがはじまったのです。
二、まじわりの成長
イエス・キリストを信じてはじまった神とのまじわりは、成長し、深められていく必要があります。キリストはわたしたちに神とのまじわりを得させるためにこの世に来てくださったのですから、わたしたちがキリストを信じた後の生涯は神とのまじわりを深めるためにあると言っても言い過ぎではないと思います。
では、神とのまじわりはどのようにして深めていけばよいのでしょうか。1節の「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」という言葉は、弟子たちが、最初、イエス・キリストについて聞き、次にイエスに出会い、さらにイエスをよく見、そしてイエスに触れていったという体験を語っています。「聞く、見る、見つめる、触れる」という言葉は、イエス・キリストとのまじわりが深められていくステップを表わしています。
キリストとのまじわりは「聞く」ことから始まります。聖書を開いて、キリストの言葉に聞くのです。誰しも、自分の好きな人の声を聞きたいと思います。若い人たちがひっきりなしに携帯電話で友だちと話しているのはそのためです。もし、イエス・キリストがわたしたちにとって最も愛すべきお方であるなら、その言葉に聞きたいと思うはずです。キリストは、きょうの箇所から何を語りかけてくださるのだろうかという期待をもって、聖書を開きましょう。キリストに聞くことから、キリストとのまじわりをはじめましょう。
次は「見る」ことですが、今は、イエス・キリストを肉眼で見ることはできません。しかし、信仰の目でイエスを見ることができます。そうでなければ、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)などといった言葉が意味をなさなくなります。「聞く」というのは「客観的な知識」を表わしますが、「見る」というのは、もっと「人格的な関係」を表わす言葉です。10数年も前のことですが、ある教会から別の教会に転任するとき、「その教会に行ったら、○○さんという素晴らしいクリスチャンがいますからね」と言われました。その人のことについては前から聞いて知っていましたが、実際にお会いして、もっとその人のことを知り、また親しくなることができました。キリストを「見る」、あるいは「出会う」とは、キリストを知識として知るだけでなく、キリストを人格と人格の関係で知るということなのです。これはたんなる聖書の学びで出来ることではありません。聖書に教えられ導かれ、キリストをまごころから礼拝する中ではじめてできることです。
三番目は「見つめる」です。ヨーロッパの人は人と話すとき、じっと相手の目を見ます。ある牧師は、以前からそうだったのですが、数年にわたるドイツ留学から帰ってきてからはもっと、相手の目を見て話すようになりました。それで信徒の方から「先生と話すと怖い」と言われるようになったそうです。あるアメリカ人は「はじめて日本の教会に来たとき、わたしの目を見て話してくれる人があまりいなかったので、さみしく思いました」と話していました。じっと相手の目を見て話すのは日本人には苦手なことですが、大切なことだと思います。それは、愛情や関心をそこに向け、相手を理解しようとする態度を伝えるからです。「見る」は「人格的な出会い」を意味しますが、「見つめる」は、そこからさらに進んで、出会った相手の「本質を知る」ことを意味します。キリストに出会ったすべての人がキリストがどんなお方であるかを知ったわけではありません。キリストを「よく見」、「じっと見つめた」弟子たちだけが、「あなたこそ生ける神の子キリストです」という告白に至りました。わたしたちの場合、キリストを「見つめる」とは、キリストに思いを集中することを意味します。詩篇27:4に「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、 主のうるわしさを見、その宮で尋ねきわめることを」とあります。キリストを「見つめる」とは、この詩篇のように、深く主を思い見、キリストと心と心を通わせあうことです。これは黙想の祈りによって実践することができます。
最後の「触れる」というのはキリストの臨在に触れることを指します。いや、わたしたちがキリストの臨在に触れるというよりは、キリストの臨在がわたしたちに触れてくださるといったほうが正確でしょう。キリストは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われました。この言葉は、「わたしが一緒にいると思ってがんばりなさい」という励ましではありません。ほんとうにわたしたちと共にいてくださるという約束です。わたしたちは、苦しいとき、たとえ具体的に何かをしてもらえなくても、誰かが一緒にいてくれるだけで慰められることがあります。その人に自分の苦しみを話したからといって、解決がないことを知っていても、誰かに聞いてもらうと、心の重荷が軽くなります。誰かがそこにいてくれることが大きな力になるのなら、キリストの臨在はなおのことです。詩篇に「主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ」(詩篇99:1)とあるように、キリストの臨在はすべてのものを震えおののかせるほどのものなのです。預言者イザヤは神の栄光を見たとき、ひれ伏し、震えおののきました。しかし、同時に恵み深い神に触れていただき、そこから立ち上がりました。そのようにわたしたちも、キリストの臨在の前に身をゆだねるとき、キリストがわたしたちに触れ、わたしたちを赦し、いやし、強めてくださるのを体験できるのです。
三、相互のまじわり
こうした神とのまじわりは、ひとりひとりの内面の中で行われるものですが、それは、その人の中だけでととまらず、かならず外側に表われ、他の人にも伝えられていきます。3節に「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである」(3節)とある通りです。キリストの最初の弟子が次の弟子に伝え、その弟子がまた次の弟子に伝え、そのようにして、神とのまじわりは、世代から世代へと伝えられて、わたしたちにも伝えられたのです。そして、それを伝えられた人たち相互の間に共通したものが生まれました。それが、「まじわり」のもうひとつの面、キリストを信じる者たち相互のまじわりです。
「まじわり」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語では「コイノーニア」と言います。このギリシャ語から英語の "communion" という言葉が生まれました。"com" は「共通」を意味し、"union" は「一致」を意味します。ひとりひとりが神とのまじわり("communion")を持つとき、神を愛し、崇める者たちの間にひとつの共同体("community")が生まれます。これが教会です。共に賛美をささげ、御言葉を聞き、証しを分かち合うとき、お互いの心に共通した神への感謝や信頼、また、献身の思いが与えられます。それによってひとつに結ばれます。互いに「神さまは素晴らしいね」と、神を誉めあう。このまじわりによって、わたしたちのたましいは満たされるのです。
教会には、年配の者も、若者も、子どもも、日本語を話す人も、英語を話す人もさまざまな人が集います。けれども不思議な一致があります。イエス・キリストを信じ、神とのまじわりを持っているひとびとを結ぶ、共通のものがあるのです。どの国で生まれ、どこに国籍があろうと、わたしたちは、天に国籍を持つ者だからです。年配の者も、学生、子どもも、共に神の子どもとして、父なる神をほめたたえ、神に信頼していきます。
教会はこうしたまじわりを育てるところです。わたしたちひとりひとりの神とのまじわりも、ここで育てられます。そして教会はこのまじわりを次の世代に伝えていきます。多くの人々に広めていきます。そのために、わたしたちに何ができるのか、これからも考え続けたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちに、イエス・キリストによって、あなたとまじわる道を開いてくださり、感謝します。わたしたちは、教会に与えられたこのまじわりを育てます。多くの人をこのまじわりに招くことができるよう、わたしたちを助け、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/15/2015