聖霊の宮

コリント第一6:19-20

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6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

 一、三位一体の神

 きょうは「三位一体主日」です。ペンテコステに聖霊が下り、神が「父」、「子」、「聖霊」であることが明らかになりました。神はおひとりでありながら、三人であり、三人でありながらおひとりである。これを「三位一体」と言いますが、三位一体を説明するのに、いろいろなものが使われます。

 ひとつは正三角形です。それぞれの内角は60度で等しく、それが三つ集まってひとつの形を作っています。そのように、父、子、聖霊のそれぞれが等しく神であり、しかもおひとりの神であると説明されます。

 次に「水」。水は常温では液体ですが、沸騰すると気体になり、凍ると個体になります。そのように、おひとりの神が父であり、子であり、聖霊だと説明されます。

 また、「1+1+1=3」だが、「+」という記号を少し傾けると「1✕1✕1=1」で数式が成り立つちます。そのように、三人の神もひとりであるということもできます。

 わたしは、ここに Fidget Spinner というおもちゃを持ってきました。三つのおもりがついていて、これをくるくる回して遊ぶものです。どうやって遊ぶのかというルールはなく、自分で工夫して遊びます。心理学的には集中力を養う効果があるそうです。この Fidget Spinner で「三位一体」を説明するとしたら、こうなります。止まっているときには、三つの部分が見えますが、まわすと、ひとつの大きな円になります。そのように、父、子、聖霊は三人でありながらひとりであるのです。

 しかし、こうした説明のどれも不完全、不十分です。神は人とは異なるお方です。自然界や人間の世界にあるものは、それらを超えた神を説明しつくすことはできません。しかし、たとえ、説明することはできなくても、信じることはできます。信じて、体験することができます。神はご人格なのですから、神を「物質」や「現象」のように科学的に調査するというのは、おかしなことです。人と「知リ合いになる」というとき、そんなことはしません。その人と会って、言葉を交わし、その人を「知る」のです。神を「知る」場合も同じです。神と人格の関係、つまり、「わたし」と「あなた」という関係を持つことによって、神を知るのです。

 わたしたちが神を知るのは、人となられた神の御子、イエス・キリストによってです。キリストは、わたしたちに見えない神を見せるため、人となられました。そして、わたしたちが聖なる神に受け入れられるために、十字架で死に、死から復活されたのです。キリストを信じる者は、罪を赦され、神の子とされます。そのことによって、はじめて、わたしたちは神を「父」として知り、神を「父」と呼ぶことができるようになりました。

 すべての人は、生まれたときから、「神」を意識しています。しかし、多くの人にとって、その「神」は小文字ではじまる “god” です。「神」といっても、それは「人間を超えた存在」という概念をあらわす言葉でしかありませんでした。しかし、イエス・キリストを信じたとき、「神」は大文字ではじまる “God” 、つまり、「神」というお名前を持った「生けるお方」となったのです。

 神は、また、わたしたちの「父」ともなってくださいます。本来の神の御子イエス・キリストを信じる者は、神の子どもとされ、神を父と呼ぶことを許されるのです。かつて罪の中にあったわたしたちが聖なる神に近づくことができるばかりか、その神の愛を一身に受けることができるのです。そして、わたしたちに神を「父よ」と呼ばせてくださるのは、わたしたちの内におられる聖霊です。神を「父よ」と呼んで祈ることによって、わたしたちは聖霊なる神の存在を知ります。このように、すべてのクリスチャンは、「父」と「子」と「聖霊」を信仰によって知り、体験することができるのです。キリストを「神の御子」として信じ、「聖霊」によって、神を「父」と呼ふことがなければ、その人は、まだクリスチャンではないと言ってよいのです。クリスチャンとは、じつに「三位一体」の神に救われ、「三位一体」の神を信じ、「三位一体」の神を体験している者なのです。

 二、聖霊の宮

 「父なる神や御子のことはわかるが、聖霊のことはいまひとつ分からない」というのを良く聞きます。なぜかというと、聖霊は、常にご自分を隠し、父と御子の栄光を表わすように働かれるからです。また、聖霊は、わたしたちの信仰生活を導いてくださるお方なので、信仰生活を歩み出したばかりのときには、そのお働きが良く見えてこないということもあります。さらに、聖霊は人間の意志に逆らってまで働かれるお方ではないので、わたしたちたちが罪を犯して悔い改めないでいたり、聖霊により頼むことがなく自分の力でものごとをしているときには、聖霊の働きを消してしまうこともあります。すると、聖霊のことが分からなくなるのです。また、何よりも、聖霊は、わたしたちの内面で働いてくださるお方なので、聖霊の働きを知るには、自分の内面に深く降りていく、内省的で、瞑想的な祈りが必要です。現代のクリスチャンには、この祈りが最も欠けているので、聖霊が「分からない」のです。そして、聖霊が分からなければ、「三位一体」の神を深く知ることができないのです。

 聖霊のことを「分からない」ままにしておかないでください。もっと聖霊を知るために、聖書を学びましょう。また、祈りましょう。そして、きょうの箇所にあるように、キリストを信じるひとりびとりも、また、その全体である教会も、聖霊が住まわれる「聖霊の宮」、「神殿」であることを自覚し、そのように歩みましょう。

 クリスチャンが「聖霊の宮」、また「神殿」であることは、コリント第一3:16-17にも書かれています。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」この言葉は、厳しい口調で書かれています。それは、コリントのクリスチャンが、自分たちが神殿であることを知っていながら、それにふさわしい生活をしていなかったからです。「だれかが神殿をこわすなら」とありますが、他の人がそれを壊しているのではありません。クリスチャン自らが、みずからを汚すような生活をし、神殿を壊すようなことをしていたのです。

 それは、具体的には、コリント教会の中にあった、分裂や分派、自由の履き違え、使徒の権威への不従順、偶像礼拝とのかかわり、聖晩餐や礼拝の混乱、復活信仰への疑いなどのさまざまな問題を指しています。教会は神殿であり、神殿は聖なるものです。世俗に迎合して、その聖さを損なうことこそ、神殿を壊すことです。

 きょうの御言葉、6:19-20も、3:16-17と同じように「あなたがたは知らないのか」という言葉で始まっています。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。」この言葉は、直接的には、コリント教会にあった不品行に対して語られています。当時、コリントにはヴィーナスの神殿があり、巫女の数は一千人いたと言われます。それが夜になると山を降り、「聖なる売春婦」となるのでした。そして、コリントの教会の中にも、そうした罪にかかわる人がいたのです。パウロはそれに対して「あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない」(コリント第一6:15)と厳しく戒めています。もちろん、そうしたことをしていたのは、教会の中でもごく一部の人たちだったでしょう。しかし、教会の多くのクリスチャンがそれを罪として悲しむことがないばかりか、そうしたことを是認していました。さらに、それを悔い改めるように教えたパウロに反抗したのです。いや、パウロを通して教会に語っておられるキリストに逆らったのです。パウロが問題にしたのはそのことでした。

 そうした罪からきよめられるためには、クリスチャンがキリストのからだの一部であり、聖霊の宮であることを本当に分かり、そのように生きる他、道はありません。パウロは、クリスチャンが救いの原点に立ち返り、そこから新しい人生を送るようにと、励ましているのです。コリントの教会にあったような問題は、今日の教会にも形を変えて入りこんできます。わたしたちもまた、自らが聖霊の宮であることをしっかりと自覚し、それにふさわしい生き方へと導かれたいと思います。

 三、聖霊によって生きる

 キリストがわたしたちに聖霊をくださったのは、わたしたちが、罪から離れ、神に従って生きるためです。わたしたちは聖霊なしに、伝道や奉仕ができないばかりでなく、聖霊なしにキリストに従って生きることもできないのです。

 人が心から「神よ」、「主よ」と呼ぶことができれば、それだけでも立派な信仰だと、わたしは信じています。しかし、そこに真実な悔い改めも、信頼の心も伴わないで、口先だけで「主よ」、「主よ」と繰り返すだけであってはなりません。神に信頼し、キリストに従うとことなしに、「神よ」、「主よ」と言うだけのことを、神はお喜びになりません。ましてや、神の御名を自分の思いを実現させるために使うとしたら、とんでもないことだと思います。

 マラキ書1:6にこうあります。「子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実が、どこにあるか。わたしがもし主人であるならば、わたしを恐れる事実が、どこにあるか。」神を「父」と呼ぶ信仰を、神への信頼で表わしたい、イエスを「主」と呼ぶ信仰を、主への服従で表わしたいと、クリスチャンならだれもが願うはずです。この願いを起こさせ、実現させてくださるのは聖霊です。聖霊を呼び求め、「聖霊の宮」となって生きることができるよう、願いましょう。

 「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。」キリストを信じ、聖霊を迎え入れたということは、聖霊がわたしのからだをご自分のものとされたということです。もう、自分に所有権はないのです。それをどう使うかも、自分の思いのままに決めてよいことではないのです。このことをほんとうに知ったなら、わたしたちの生き方は変わるはずです。

 また、「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」という言葉をも深く想いみましょう。わたしたちのために支払われた代価、それはイエス・キリストの命です。キリストが命をささげたほどに、自分が愛されていることを覚えましょう。

 今年、わたしたちは、チャック・スウィンドール先生が書かれた本をもとにして「敬虔のための訓練」を学んでいます。スウィンドール先生は、海兵隊員として沖縄に行く前、レイ・ステッドマン先生が牧会しておられたペニンスラ・バイブル・チャーチで信仰生活をしていました。それで、わたしはその教会を訪れました。礼拝堂の正面は木製のパネルになっていて、そこにきょうの御言葉が刻まれていました。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」が向かって左側に、「それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」が右側に彫り込まれていました。この御言葉はこの教会の拠って立つ御言葉で、教会に集う人たちは、この御言葉に添って訓練を受けたのです。スウィンドール先生もこの御言葉に教え、導かれたのでした。

 「それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」わたしたちもまた、この御言葉を自分のたましいに刻みましょう。わたしたちはみな聖霊を受けた者、わたしたちのからだは、わたしたちのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮です。本気でこの真理に生きていきましょう。それによって、父、子、聖霊の神の栄光を表わす者となりましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはわたしたちを、聖霊が住まわれる、あなたの神殿としてくださいました。わたしたちがこの真理をさらに深く理解し、自分たちのからだをもってあなたの栄光を現わすことができるよう、聖霊によって導いてください。わたしたちに聖霊を賜わった主イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/27/2018