聖なる教会

コリント第一3:16-17

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3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
3:17 もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。

 一、神の民としての教会

 使徒信条は「聖なる公同の教会…を信ず」と言っています。「聖」であることは、教会の四つの特質のひとつです。教会の「四つの特質」というのは、「ひとつ」であること、「聖なるもの」であること、「公同のもの」であること、「使徒的」であることです。この四つは、ニケアでの教会会議で出来た「ニケア信条」に「ひとつの、聖なる、公同の、使徒的教会…を信ず」(unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam)と、まとめて書かれています。使徒信条では、教会の四つ特質のうち、「聖なる」(holy)と「公同の」(catholic)のふたつを記しています。

 教会が「聖なる」教会と言われるのは、教会が「神の民」として聖別されているからです。「聖別」というのは、「聖め別ける」と書きます。神が、ご自分の目的のために、様々なものを選ばれることを言います。神が最初に聖別されたものは? … そう、「日」です。神は安息日を聖別し、その日を「聖なるものとされ」ました(創世記2:3)。そして、私たちに、この日を聖なる日として守るよう命じられました(出エジプト20:8)。今日の私たちは教会の伝統に従って、主の復活の日を「聖日」(Holy Day)と呼んでいます。「休日」(holiday)は、 “Holy Day” から出た言葉です。

 神はまた、場所を聖別されました。神がイスラエルに与えた「約束の地」は「聖なる土地」(ゼカリヤ2:12)で、今も “Holy Land” と呼ばれています。神はまた、ご自分のみこころを伝える書物を聖別されました。「聖書」のことです。英語でたんに “Bible” とだけ呼ばれることがありますが、正しくは “The Holy Bible” です。

 そして、神は人々を聖別されました。旧約時代、神は、数多くの民族の中からイスラエルを「神の民」として選びました。それでイスラエルは「聖なる国民」(出エジプト19:6)と呼ばれるようになりました。イスラエルは「聖なる国民」と呼ばれるだけでなく、実際に「聖なるもの」になる必要がありました。レビ記11:45に「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである」とある通りです。「あなたがたは聖なる者とならなければならない」という言葉は、聖書全体の中に何度も繰り返されています。

 こうした「聖別」は、旧約に限ったことではありません。新約でも、「聖」と「俗」の区別は、はっきりとなされています。教会は、新約時代の神の民です。ペテロ第一2:9では、教会について、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」と言っています。教会は、イスラエルと全く変わらない「聖なる国民」であって、神がイスラエルに対して命じられたのと、全く同じ言葉で、「聖なるものであれ」と命じられています。ペテロ第一1:15-16にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」使徒ペテロは、「…と書いてあるからです」と言って、レビ記11:45を引用することによって、神の、神の民に対するみこころは旧約も、新約も変わっていないことを示しているのです。

 現代は、「聖」と「俗」の区別がなくなった時代です。人間が恐れ、敬わなければならないような「聖なる」ものなど無いのだと言って、はばからない人が増えてきました。クリスチャンの間でさえ、「聖なる教会」なんて、とんでもない。そんなことを言っているから、教会は堅苦しいところで敷居が高く、誰も人が寄り付かないのだ。もっとくだけて、明るく、楽しくしなければならないということが声高に叫ばれています。

 「聖い」ことは、堅苦しいことなのでしょうか。「聖い」ことは、暗いことなのでしょうか。「聖い」ことは、人を遠ざけることなのでしょうか。もし、そうなら、聖なる神の御子、イエスほど堅苦しいお方はないということになります。聖なる神の霊、聖霊なる神は私たちの心を照らす光ではなくなります。しかし、たとえ、聖なるものを否定する声がどんなに大きくても、人のたましいは、聖なるものを求めて渇いています。確かに聖なる神に近づくことは、イザヤが「ああ、私は滅んでしまう」(イザヤ6:5)と叫んだように、恐ろしいことかもしれません。しかし、そのあとすぐに、イザヤに「聖め」が与えられたように、神は、ご自分に近づく者に、その「聖さ」を与え、人のたましいを満たしてくださるのです。

 私たちは、「強く」、「豊かで」、「賢く」なることを求めていますが、「聖く」なることを忘れています。「聖く」なっても、何の得にもならない。かえって損をするだけだと思い込んでいます。そうでしょうか。いいえ、「聖く」あることは、私たちに力を与えます。私たちのたましいをほんとうの意味で満たします。それは、私たちを真理に導きます。「聖く」あることは、私たちに言い知れない平安を与えます。そして、「聖い」ことは「美しい」ことです。詩篇96:9に「聖なる装いをして、主にひれ伏せ」とあります。この「聖なる装い」は、英語で “the beauty of holiness” や the splendor of holiness” と訳されています。世俗のものは、どんなにきらびやかでも、やがてはその醜くさを現します。しかし、神の「聖さ」は美しく、それはさらに麗しく輝くのです。

 ペテロが生まれつき足の効かない人から物乞いされたとき、こう言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)ペテロは、施してあげる金銭を持っていませんでした。しかし、イエス・キリストの「聖なる」御名を持っていました。ですから、この人を癒やすことができたのです。教会は「神の民」として「聖い」ものでなければなりません。もし、今日の教会が「聖なる」ものを失ったら、どんなに人数がいても、経済力があっても、知恵や知識があっても、私たちは誰をも救いに導き、助けることもできなくなるのです。私たちは神の民として聖別されている。私たちは、いつでも、この出発点に立ち返りたいと思います。

 二、神の宮としての教会

 教会が「聖なるもの」であるのは、第二に、教会が神の聖所だからです。きょうの箇所にこう書かれています。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」教会は新約時代の神の家、主の宮、神殿です。ここで「宮」と訳されている言葉は、神殿の「聖所」を指す言葉が使われています。神殿には、外庭があり、祭壇があり、その全体が「聖なるもの」とされましたが、その中心に、神殿の本体である「聖所」がありました。聖所には燭台やパンを置くテーブル、そして香を炊く壇がありました。そこには祭司しか入ることの許されない聖なる場所でした。聖書は「あなたがたは、…神の宮」と言っていますが、「あなたがた」は複数で、「宮」、つまり「聖所」は単数です。これは、教会が全体として神の聖所であると言っているのです。

 教会は全体として神の宮ですが、クリスチャンひとりびとりも、聖霊の宮です。コリント第一6:19-20に、こう教えられています。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」

 聖霊の宮であるクリスチャンが共に集まって、神の家が建てられていくのです。ペテロ第一2:4-5にこうあります。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」

 教会が神殿、聖所と呼ばれているのは、そこが神の臨在を現す場だからです。神は旧約の神殿を栄光で満たし、神殿を神が神の民とともにいてくださることのしるしとしてくださいました。教会は「神の民」、「キリストのからだ」、そしてクリスチャンひとりひとりは「聖霊の宮」です。これは、教会やキリスト者が、父、御子、聖霊の臨在を世に現すために選ばれていることを指し示しています。教会は、そこで、人々が神と出会う場です。たんに「人と人とが出会う場」だけではありません。私たちは、新約時代の祭司として、みずからが主の臨在に触れるだけでなく、人々をこの臨在の場に導くことを許されているのです。ここで、神と出会うようにと、人々を招くことができるのです。教会が「聖なる教会」と言われているのは、教会に、この使命が与えられているからなのです。

 ですから、私たちは教会が「聖なる」ものであることをしっかりと守らなければなりません。コリント第一3:17には、「もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です」とあります。サンディエゴにいたとき、教会に泥棒が入ったり、落書きされたりしたことがよくありました。私は、この言葉を書いて教会の外に貼り出しておきたい気持ちになったことを思い出します。また、私は、ある教会で、講壇や聖餐卓に無造作にジャケットを置いたり、そこに腰掛けたりする人を見て、とても悲しく思いました。講壇や聖餐卓は神殿の香の壇やパンの机に相当するものです。クリスチャンに「聖なるもの」に対する感覚がなくなり、聖なるものに対する恐れが消えていくのは恐ろしいことです。そうなると、教会に世俗のものがとっと入り込んできて、教会がもはや「聖なる」教会でなくなってしまいます。神の宮である教会を壊しているのは、じつは、クリスチャンと呼ばれる人たちではないかと思うことがあります。コリント第一3:17の言葉は、教会の外ではなく、内側に貼り出しておく必要があるのかもしれません。

 ある記事に、こんなことが書いてありました。「サタンは最初、ある町から教会をなくそうとして、教会を迫害した。ところが教会は、迫害されればされるほど、信仰を強くし、より盛んになっていった。それでサタンは方針を変えて、教会に世の中のものを持ち込んだ。聖書のメッセージにかえて、道徳や心理学、人生訓や社会的成功の秘訣などが語られるようにした。それによって、教会が神を喜ばせることよりも人を喜ばせることに力を入れ、人々は、自らを神に捧げるよりも、自己実現を果たすために教会に来るようになった。その町では、より多くの人が教会に来るようになった。しかし、悔い改めて福音を信じる人、自らをささげてキリストに従う人はいなくなった。もう福音を語る者も聞く者もいない。サタンは勝利を喜んだ。」

 この記事に書いてあることは決してフィクションではありません。世界中の多くの教会で、現実に起こっていることです。人々から聖なるものに対する恐れが消えていくとき、教会から聖なるものが取り去られるとき、教会は、その姿、形は残していても、活動が続いていても、もはや神のものではなく、この世のものになってしまうのです。教会の「聖さ」を取り戻すために、私たちにできることは、神の言葉に聞くことです。そして、神の言葉に教えられ、聖霊に導かれて、教会を「祈りの家」として捧げ直していくことです。私たちは神の民、神の家、聖霊の宮、神の祭司。このことをしっかりと確信し、この事実が私たちを変えていくまでに、熱心に祈り続けたいと思います。

 (祈り)

 聖なる神さま、あなたは教会を世から選び出して「聖なるもの」とし、再び世に遣わしてくださいました。あなたは、教会に、何よりも「聖さ」を求めておられます。教会が聖さを失ってしまったら、この世であなたからの使命を果たすことができなくなってしまいます。今日、教会があなたからの使命を正しく果たしていないとしたら、それは「聖さ」を失っているからかもしれません。今一度、私たちを聖め、あなたの民とし、また宮としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/26/2019