15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
今年の教会の年間標語は「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」でした。先週も触れましたが、「主のわざ」(WORK) には、礼拝(Worship)、伝道(Outreach)、弟子訓練(Reproduction)、交わり(Koinonia) などがあります。この一年、それぞれに励むことができました。しかし、時として、「こんなことをしても無駄ではないか。」「私ひとりが頑張っても役に立たないのではないか。」と考えたり、そういうふうに他の人から言われて、がっかりしてしまったことがあったかもしれません。私たちは、意味のあること、意義を感じられることのためなら、苦労があっても励むことができますが、それが役に立たないとか、無駄であると言われると、努力する気持を無くしてしまいます。
しかし、聖書は「いつも主のわざに励みなさい。」と言ったあとで、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と結んでいます。私たちが神のために励んだことは、人の目には無駄に見えても、神の前では決して無駄にはならないと教えています。聖書は何に基づいてそう言っているのでしょうか。「あなたがは…知っている」と書かれていますが、私たちはどのようにして、そのことを知り、確信することができるのでしょうか。今朝は、そのことを学んでみましょう。
一、キリストの復活のゆえに
私たちが神のために励んだことが無駄にならないとの確信は、第一に、キリストの復活から来ます。コリント第一15:58は「ですから」という言葉で始まっています。聖書には「ですから」とか「そういうわけですから」という言葉で始まる文章が多いのですが、私の母教会の牧師は、説教する時、そういう箇所に来ると、きまって、「『そういうわけですから』とありますが、どういうわけでしょうか。」と話しました。私たちに、聖書を文脈にそって読むことの大切さを教えてくれたのです。
コリント第一15章は、キリストの復活について議論されているところですね。キリストの復活が事実であること、やがてキリストが再びこの世に来られる時、私たちもキリストが復活されたように復活して神の国をうけつぐようになるということが書かれています。もし、キリストの復活がなければ、私たちの救いもなく、将来の復活もありません。私たちの人生は、この地上にいる時だけのもので、死ねばすべてが終ってしますのです。もしそうであったら、私たちにとって最善な生き方は、生きている間に楽しめるだけ楽しむことになってしまいます。32節にあるように「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。
しかし、キリストは、その復活によって私たちを救ってくださったばかりでなく、私たちに「永遠」というものを教えてくださいました。私たちの命はこの地上だけで終るのではなく、地上の生活を終えた後に、永遠の御国が待っていることを、キリストはその復活によって、示し、保証してくださったのです。私たちがこの地上で励んだことを、神は覚えていてくださって、永遠の御国で報いてくださいます。天国のことを最も多く書いているヨハネの黙示録には、「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。』」(黙示録14:13)という言葉があります。「彼らの行ないは彼らについて行く」と言われているのは、私たちが行うどんなことも、無駄にはならず、天国での宝になるという意味です。私たちが、今、ここで、していることはすべて永遠の世界とつながっているのです。
天国で報いを受けることができるのは、死んでからもその功績を讃えられる人々や、歴史に残るような人々だけではありません。社会的に名前が知られていなくても、家族や友人から愛され、慕われてきた人々や人の目に触れずとも、真実に、誠実に生きた人々も神からの報いを受けるのです。タラントのたとえなどを見ると、多くのタラントを預っていた人も、少ないタラントの人も同じようにその主人から喜ばれています。そのように、私たちが神のために励んだことは、たとえ小さなものであっても神を喜ばせ、それが人の目に触れようが、触れまいが、私たちが精一杯したことに神は報いてくださるのです。
この地上のことしか知らない生き方は「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」という刹那的なものです。しかし、キリストの復活によって、罪と死に勝利しているばかりが、永遠の世界が約束されていることを知っているなら、それは、「いつも主のわざに励む」人生、永遠につながる人生へと、私たちを導いてくれるのです。
イエス・キリストを信じる信仰には、神が創造者であること、聖書が神のことばであること、キリストが処女マリヤから生まれてこの世に来てくださったこと、私たちの罪のため十字架で死なれ、私たちの救いのために死人の中から復活されたこと、やがて、私たちの世界に再び来てくださること等、いくつかの大切な信仰箇条があります。使徒信条などにそれは言い表されていますが、それは、ただ口で唱えて繰りかえせば良いというものではありません。そのひとつひとつは、単なる教えではなく、私たちの生活に直結したもの、私たちの人生を生かす真理です。キリストの復活を信じてそれに生きる時、私たちは「自分たちの労苦が、主にあってむだでないこと」を知り、確信することができるのです。
二、神の愛のゆえに
私たちの労苦が無駄にならないことは、第二に、神の愛のゆえに確信することができます。コリント第一15:58は「ですから」で始まっていますが、つぎに「私の愛する兄弟たちよ」という呼びかけがあります。ここでいう「兄弟たち」というのは、肉親の兄弟たちという意味ではなく、神の家族の兄弟たちという意味です。「兄弟たち」という言葉は、クリスチャンを表わす言葉です。しかも「愛する」という形容詞がついています。「愛する」という言葉には、コリント人への手紙を書いたパウロが、コリントのクリスチャンを愛しているという意味があるでしょうが、それよりも、コリントのクリスチャンたちが神に愛され、また神を愛する人々であるという意味が強く込められているように思います。したがって「愛する兄弟たち」というのは、「キリストにあって神に愛され、神を愛する人々」という意味になります。
そして、神を愛している人たちは、神に愛されていることによって、「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知」ることができるのです。ローマ人への手紙8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。この聖句は、神が、私たちを愛してくださっているゆえに、私たちを特別待遇してくださる、私たちのために特別なとりはからいをしてくださるということを言っています。神はすべてのものを造り、それを治めていてくださるお方です。神は、公平に世界を治めておられますが、神は、ご自分の愛する者たちのためには、特別なはからいをしてくださるのです。それが神の恵みです。もちろん、私たちは利己的な目的のために神の特別なとりはからいを願うべきではありませんが、あわれみ深い神は、私たちの益になるようにと、私たちの身の回りのものをアレンジしてくださるのです。
一年を振りかえると、感謝だったことと共に、あの時、こうしておけば良かった、この時、あんなことをしなければ良かったと悔やむこともあるでしょう。しかし、神はそうしたことも含めて「すべてを益にしてくださる」のです。私たちにとってマイナスに見えるものも含めて、神はそれらを「益に」「プラスに」変えてくださるのです。キリストを信じる者は、なによりもまず、自分が神に愛されていることを信じ、確信しましょう。そして、神の愛を確信することができたなら、神が、その愛のゆえに、いつどんな時でも、私たちのために最善をしてくださることを、堅く信じていきましょう。神の愛を心に留めている人は、決して失望、落胆することはないのです。
三、神の計画のゆえに
私たちの労苦が無駄に終らないことは、第三に、神のご計画のゆえに確信することができます。神は「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために…すべてのことを働かせて益としてくださる」方です。神は、私たちに計画を持っておられます。神は、その計画の一部を私たちに示してくださっていますが、神の計画の全体は、私たちの思いを超えた大きなもので、私たちは、そのすべてを知っているわけではありません。ですから、私たちは神によって与えられた役割、それぞれのパートを最善のものと信じて、それに励むのが良いのです。神は、私たちに無駄なパートや無意味な仕事をお与えになりません。人の目には無駄に見えても、神は無くてならないものとして用いてくださることが多いのです。
伝道という「主のわざ」を考える時、私たちは、時として「こんなことは無駄ではないか。」と思えることがあります。私たちは、テレビ番組「みえますか愛」を放送しています。この放送を続けていくには最低、年間三万ドルは必要です。番組の中で榊原 寛先生は「あすは教会に」と、視聴者に呼び掛けてくれていますが、この番組を見た人が、今朝、どっと人々が教会に押し寄せて来ているわけではありません。私たちがどんなに伝道に励んでも、すべての人が神を信じ、キリストを信じるわけではありません。何千人という人に伝道しても、その中からクリスチャンになる人は数人しかいないかもしれません。伝道は、人間的に考えたなら、まったく、効率の悪い、無駄なことのように見えます。しかし、それでも、神はすべての人に伝道するように命じておられます。私たちは、あきらめずに、いままで伝道を続けてきましたし、これからも続けていかなくてはなりません。それは、主の命令であり、教会の使命、「主のわざ」だからです。効率的な伝道のしかたを考えることも大切ですが、伝道では「無駄」をすることを恐れてはならないと思います。伝道では、人の目に無駄と思えるようなことが用いられることが多く、何が効果があって、何が無駄かを区別できないこともあります。たとえば、私は、Aさんにイエス・キリストのことを話しても信じてもらえなかったことがあります。それからしばらくして、Bさんが教会に来て、キリストを信じました。Bさんに話を聞いてみると、Aさんから聞いて、教会に来たのだというのです。Aさんは、キリストを信じませんでしたが、Aさんに伝道したことによってBさんが教会に来て信じたのです。このようなことは皆さんも体験しているのではないでしょうか。
昔、グリーンランドに始めて宣教師が行って伝道した時のことです。グリーンランドではエスキモーたちが鯨をつかまえて、それを命の糧にしていました。鯨は、人々の食糧源であり、また鯨からとれる油は、灯油として使われていました。ところが、宣教師がやってきた年、人々はどんなに努力しても一匹の鯨も捕まえることができませんでした。やがて灯油もなくなり、冬の長い夜の間、人々は暗闇の中で過ごさなければなりませんでした。いよいよ食べ物が無くなり、犬も一匹、また一匹と殺されていきました。そこで、人々は宣教師のところに行って、「おまえの神に頼んで鯨をくれるように」と迫りました。「もし、願いどおり鯨をくれなければ、それは、キリスト教の宣教師がここで働くのを許したのを、この土地の神々が怒っているからだ。その時は、おまえを崖から突き落としてやる」と強迫しました。宣教師は昼も夜も熱心に祈りましたが、鯨は一匹もとれませんでした。それで人々は宣教師を崖から突き落として殺してしまいました。しばらくして、人々が宣教師の死骸を探しに行ったところ、その死骸の側に、一匹の巨大な鯨が横たわっていました。そしてこの鯨が人々を飢餓から救ったのです。人々は、この宣教師を葬り、彼のために鯨の骨で作った十字架の墓標を立てました。人々は心から悔い改めて、この宣教師が伝えた神の前にひざまづきました。
この宣教師は、生きている時、誰ひとりキリストのもとに導くことはできませんでした。伝道に失敗したかのように見えました。しかし、彼の死は無駄にはなりませんでした。私たちも、その時、その時の目に見える結果だけで一喜一憂するのではなく、いつ、どんな場合でも、私たちの最善をつくして励みましょう。神はそれを用いてくださるのです。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」このみことばに励まされた一年でしたが、新しい年も、着実に「主のわざ」に励み続けましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちをあなたの子とし、あなたを「父よ」と呼ぶことができるようにしてくださった、あなたの大きな愛を感謝いたします。あなたの愛のゆえに、その愛のとりはからいのゆえに、なによりも、イエス・キリストによって成し遂げらた救いのゆえに、私たちが「主のわざ」に励むことが決して無駄に終らないことを知らせてくださっり、感謝いたします。この一年、私たちは「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」とのみことばに導かれてきましたが、今日また、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」という確信に導かれました。この確信に立って、いつでも、希望を持ち、喜びをもって歩む私たちとしてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。
12/29/2002