最後の勝利

コリント第一15:51-58

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15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 きょうは、イエスの復活によって与えられる人生の勝利についてお話しします。きょうの箇所に、「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(57節)という力強い「勝利宣言」があります。この勝利はイエスの復活から来るのです。

 一、「復活」のない人生

 しかし、私たちは「復活」を知りませんでした。仏教の影響によって「無常」という考えが心の奥深くに刻まれるようになりました。「いろは歌」には仏教の「無常」が歌われています。

色は匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず

 現代語では、「花が咲いても散ってしまうように、この世に常に変わらない人は誰もいない。迷いの多い人生という山を今日ものり越えて、一時の栄華のような儚い夢に酔わずに生きていこう」となりました。「我が世誰ぞ常ならむ」(この世に常に変わらない人は誰もいない)というところに「無常」という言葉が出てきます。

 こうした無常観は鎌倉時代の「平家物語」の冒頭にも書かれています。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ
ここには「諸行無常」(この世の全てが常に流動変化し、一瞬と言えども同じ状態ではない)という仏教用語が使われています。「寺から聞こえてくる鐘の音には〈無常〉の響きがある」というのですが、たしかに、鐘の音は、最初は「ゴーン」と勢いよく鳴っても、その音は徐々に細くなり、ついに消えていきます。世の中でどんなに権力を誇ろうとも、やがては衰えていきます。物事にいつまでも続くもの、永遠になくならないものはない、常なるものは無い、つまり〈無常〉を、鐘の音は教えているのです。

 仏教では、死は避けられないもの、誰も逆らうことのできないものとされていますので、死を克服しようなどどジタバタしてはいけないと言うのです。死を恐れるのは、この世に執着があるからで、そうした執着を断ち切り、死という現実を素直に受け入れれば良いということになりますが、それが仏教で言う「悟り」なのでしょう。

 では、西洋ではどうでしょうか。聖書にもその名が出てくるエピクロスというギリシャの哲学者はこう言いました。「われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しない。…ゆえに、知者は生のなくなるのを恐れない。…あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口に入れて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。」これは、霊はからだと別に存在するのではなく、からだの働きのひとつだという考えに基づいています。ちょうど、ろうそくが燃えてほのおが灯るように、蝋というからだが燃えて、ほのおという「霊」が存在する。だから、蝋が燃え尽きれば、ほのおも消えるように、からだが死ねば「霊」もなくなると考えるのです。「私」というものは、脳の中で作られたものであって、脳が死ねば「私」も消えてなくなる。だから、死がやって来るとき、そこに「私」はいないのだから、人は死を恐れることはないというのです。

 しかし、これは詭弁です。実際は違います。人間のからだは60兆もの細胞で出来上がっていますが、毎日その2パーセント、1兆2千億の細胞が新しく造られ、古くなったものは分解されて体外に排泄されています。脳の140億の蛋白質も120日で新しいものに入れ替わります。なのに、過去の記憶は受け継がれ、「私」は「私」のままです。私たちのからだの中で毎日死と命が働いているのに、「私」は存在し続けています。これは、人の霊がからだとは別に存在していることを教えています。人はからだを持った霊です。死とは、霊とからだが分離し、からだが土に返り、霊が神のもとに帰ることです(伝道者12:7)。人は、いつか自分の死を体験するのです。人のたましいはそのことを知っています。だから、人は死を恐れるのです。

 二、「復活」の事実

 仏教の「無常」は人生の観察から生まれ、ギリシャ哲学は人間の論理から生まれました。そして、そのどちらも、それが正しいことを証明するものを持っていません。しかし、聖書が教える「復活」は、イエス・キリストがよみがえられたという事実に基づいています。

 「復活」は、人間が作り出した理論や物語ではありません。弟子たちは、最初誰もイエスの復活を信じようとはしませんでした。そんな弟子たちが、復活を信じ、命がけで復活の証人になったのはなぜでしょう。復活されたイエスに出会ったからです。「人は死んで終わりではない。やがて、復活する」と信じることができるのは、イエス・キリストが復活されたという事実があるからです。どんなに深遠な哲学も、宗教も、事実に基づき、事実によって証明されなければ意味がありません。それでパウロはこう言いました。「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(17-20節)「復活」の教えが正しいことは、復活の事実によって証明されているのです。

 ここでパウロが、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言っていますが、「初穂」とは、穀物畑で最初に実る穂のことです。初穂が良く実っていれば、それ続く穂も良いものであることが分かります。初穂は、全体の収穫が豊かであることを保証するものです。そのように、イエスの復活は、イエスを信じる者たちの復活を保証するものなのです。

 きょうの箇所は、イエス・キリストを信じた人々は、死んだままで終わらず、復活すると教えています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(51-53節)聖書は、そのとき、キリストにある者は完全な栄光のからだに復活すると教えています。ヨハネ第一3:2に「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」とありますから、私たちも、復活されたイエスと同じようになるのです。

 私たちは、このような復活を信じています。この希望に生きています。しかし、それは根拠のない信仰、実現する見込みのない希望ではありません。それは確かなこと、必ず起こることです。なぜなら、復活はすでに起こったからです。イエスはすでに死に打ち勝ち、栄光のからだによみがえられました。イエスを信じる者たちも、その後に続き、同じように復活するのです。

 三、「復活」を信じる人生

 私たちは「復活」を知らないときやそれを信じなかったときには、死を恐れるか、「無常」を嘆くかしかありませんでした。現代の多くの人は、エピクロスが言ったような唯物的な考えに染まっていて、死の現実を考えないようにし、その恐れをごまかして生きています。どうせ死ぬのなら、人生を思い通りに、おもしろおかしく生きていけばよいのだと考えるようになりました。コリント第一15:32に「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という言葉がありますが、これはイザヤ22:13からの引用で、神を信じない人生の結末を描いています。

 しかし、復活を信じる人の人生は違います。復活を信じる者は、死の恐怖から解放されます。死は罪の結果ですから、イエスを信じて罪を赦された者は、罪の刑罰から救われ、死後の裁きを恐れることが無くなったからです。この世でどんなに成功を収め、思い通りのことができたとしても、どの人にも「死んでさばきを受ける」ことが定められいます。そのときに死の問題が解決されていなければ、最後の勝利を得ることができないのです。最後の勝利とは死への勝利であり、それは復活されたイエス・キリストによってのみ与えられるものです。

 さらに、復活を信じる者は、人生にどんな嵐が吹いても、落ち着いてそれに対処できるようになります。思いわずらいや不安、迷いや混乱から救われて、まっすぐに、確かな日々を送ることができるようになります。どんな小さなことにでも意味を見い出して、そこから満足を得ることができるようになります。58節に、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」とある通りです。

 私は、この通りのことを体験しました。私は子どものころ、あいついで肉親を亡くし、自分も大きな病気を患いました。「死の恐怖につながれていた」(ヘブル2:15)というのは本当でした。しかし、イエスを信じたとき、そこから解放されました。牧師になって、多くの人がイエスの復活に与るのを見てきました。イエスの復活そのものが大きな奇蹟ですが、日本人が、日本でも、アメリカでも、イエスの復活を信じて、新しい人生を生きるというのは、イエスの復活と同じくらいの奇蹟です。私は、そのような人々を何百人と見てきました。

 今、ひとりの人のことを思い起こしています。日本でのことですが、病気がちで、礼拝を休むことの多い人がいました。その人の欠席が続いたときには訪問して、そこで小さな礼拝をしていました。その人の年老いた両親もともに福音に耳を傾けてくれました。父親はすでにイエスを信じる決心ができていましたが、急に具合が悪くなり入院しました。彼はバプテスマを受けたいと希望していましたので、私は病室で、彼の信仰を確かめ、「バプテスマを授けますが、いいですか」と訊きました。声を出す力はありませんでしたので、うなずいて「はい」と答えました。それまでとても苦しそうだった表情が、バプテスマを受けたあと、ほんとうに安らかになり、ほほえみさえ浮かべていました。神が彼に平安を与えてくださったことが分かりました。それからほんの数日で、彼は亡くなりましたが、私たちは、彼が主のもとに召されたことを確信することができました。彼は人生の最後の勝利を手にしたのです。

 「死にさえも勝利する。」そんなことは、人間の力でできることではありません。それはよみがえって死に勝利されたイエスだけができることです。このイエスの勝利によって、私たちも人生の勝利者となることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、イエスの復活によって、私たちに死に打ち勝つ勝利を与えてくださいました。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)このいのちの贈り物を、素直な信仰で受け取り、復活の主を信じる信仰によって人生の勝利を手にすることができるよう助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/15/2022