15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
人生の勝利者とは、どんな人のことを言うのでしょうか。事業に成功して巨万の富を得た人でしょうか。あるいは、誰にも知られるほど有名になった人でしょうか。それとも、才能を発揮して、その道の第一人者になった人でしょうか。
ジョージ・イーストマンといえば、イーストマン・コダック社を起こした人で、彼は念願通り、巨額の富を手にしました。しかし、その最後に、「私の仕事は終わった。なぜ待つのだ。」というメモを残し、拳銃で頭を撃ち抜きました。マリリン・モンローがネブトールという薬を大量に飲んで死んだ時の新聞には、「一週間に一万ドルの収入があっても、彼女は平安を買うことができなかった」という編集者のコメントが載りました。アーネスト・ヘミングウェーはノーベル文学賞を受けたアメリカの代表的な作家でしたが、彼もショットガンで自殺しました。あれだけの才能も成功も、彼の心を満たすことはなかったのです。
FMラジオを発明したエドウィン・アームストロング、自動車デザイナーのアーサー・シヴォレー、ワイオミング州知事レスター・ハントなど、みな成功者たちでした。しかし、その人生は、悲しいことに、自殺で終わっています。
世界的な金融会社を起こしたチャールズ・シュワーブは、会社を倒産させ、彼は死ぬまでの五年間、借金で生活していました。全米最大の鉄鋼会社社長のサムエル・インスルは失意のうちに外国暮らしをしました。世界最大の設備会社社長のリチャード・ウィットニーは刑務所から出て、まもなくしてから死にました。ニューヨーク証券取引所会頭アルバート・ホールも釈放されて、まもなくして死んでいます。
こういった人たちはよく知られている人たちだったので、その最後も知られていますが、有名でなくても、同じような人生の結末を迎えた人も多いだろうと思います。一時はどんなに成功しても、その結末が不幸であったら、それは本当の成功とは言えず、人生の勝利者というわけにはいきません。どうしたら、私たちは人生を勝利で締めくくることができるのでしょうか。
一、日本人の死生観
考えて見れば、どの人の最後も死で終わります。地上に蓄えた富を死後の世界に持っていくことはできません。生きている間にどんなに名声を博したとしても、その人が亡くなれば、その人に代わる人が現われ、その人の名はいつしか忘れられていくのです。人生が死で終わるだけなら、すべての人は人生の敗北者ということになってしまいます。
日本の文学には、成功を収めた者もやがて滅びていく、いずれ、人は死んでいくという<無常>を描いたものが数多くあります。鎌倉時代にできたといわれる「平家物語」は
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
と言っています。「寺から聞こえてくる鐘の音には<無常>の響きがある」というのですが、たしかに、鐘の音は、最初は「ゴーン」と勢いよく鳴っても、その音は徐々に細くなり、ついに消えていきます。世の中でどんなに権力を誇ろうとも、やがては衰えていきます。物事にいつまでも続くもの、永遠になくならないものはない、常なるものは無い、つまり<無常>を、鐘の音は教えているのです。仏具に「鈴」(りん)というのがあります。真鍮の鉢を小さな布団のうえにおき、鈴棒(あるいは撥<ばち>)で鳴らすものです。合掌や読経の開始や終了の合図に使うのですが、あの鈴の音も、最初は「チーン」と大きく鳴りますが、やがて、細っていき、最後に消えていきます。人は「オギャー」と産声をあげて元気よく生まれても、そのいのちは細っていく一方で、やがて命尽きて、塵や灰になっていく。鈴はそんな<無常>を覚えさせるため鳴らされると聞いたことがあります。
同じ鎌倉時代の人、鴨長明は『方丈記』に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。…朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける」と書きました。室町時代の一休禅師は「生まれては死ぬるなりけりおしなべて、釈迦も達摩も猫も杓子も」と歌っています。いろは歌も、「色は匂えど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ」と<無常>を歌った歌です。
このように、日本の思想には「無常感」というものが漂っています。死は避けられないもの、誰も逆らうことのできない法則なのですから、死を克服しようなどどジタバタしてはいけないと言うのです。死を恐れるのは、この世に執着があるからで、そうした執着を断ち切り、死という現実を素直に受け入れれば良いということになります。それが仏教で言う「悟り」なのでしょう。
人間のからだは60兆もの細胞で出来上がっていますが、毎日その2パーセント、1兆2千億の細胞が新しく造られ、古くなったものは分解されて体外に排泄されています。脳の140億の蛋白質も120日で新しいものになります。なのに、過去の記憶は受け継がれ、「私」は「私」のままです。私たちのからだの中で毎日死と命が働いているのに、「私」は存在し続けています。これは、人が物質だけで出来上がっているものではなく、霊的な存在であることを示しています。人とは、からだを持った霊なのです。しかし、人間が霊的な存在であることを認めない人たちは、霊はからだと別に存在するのではなく、からだの働きが霊だと言います。ちょうど、ろうそくが燃えてほのおが灯るように、蝋というからだが燃えて、ほのおという霊が存在する。蝋が燃え尽きれば、ほのおも消えるように、からだが死ねば霊もなくなると考えるのです。現代的に言えば、人が「私」と呼んでいるものは、脳の電気信号に過ぎないということになります。もしそうなら、脳が死ねば「私」も消えてなくなるのです。ですから、死がやって来るとき、そこに「私」はいないのだから、人は死を恐れることはないというのです。聖書にもその名が出てくるエピクロスというギリシャの哲学者はこう言っています。「われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しない。…ゆえに、知者は生のなくなるのを恐れない。…あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口に入れて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。」この考えを極端に推し進めると、コリント第一15:32にあるように、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(イザヤ22:13の引用)ということになってしまいます。
二、聖書の死生観
このように、日本人もギリシャの哲学者も、死について考えてはきたのですが、そこには死とは何のか、なぜ人は死ぬのかという問いへの答えはありません。それは定めであり、自然なことなのだと言います。しかし、聖書は、死とはいのちのみなもとである神からの分離であり、この死は、罪によってこの世界に入ったと答えています。人が「塵から造られて塵に帰る」のは、決して自然の法則ではなく、それは罪の結果、「罪の支払う報酬」だと、聖書は言っています。
そうであるなら、罪が解決されるなら、死も解決されるはずです。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、そこで流された血潮が罪の赦しをもたらすのですから、イエス・キリストの復活は、死ぬべき私たちをも生かすのです。「罪の支払う報酬」は「死」ですが、「神の下さる賜物」はイエス・キリストの復活によって与えられる「永遠の命」です(ローマ6:23)。
旧約聖書は「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道者の書12:7)と言っていますが、新約聖書では、私たちは塵のまま終わるのではない、いったん塵に帰ったからだもまた、栄光のからだとなって復活すると教えています。神は、アダムを土の塵で造られました。その神が、たとえ私たちのからだが塵に帰ったとしても、そこから復活のからだを造ることがおできにならないわけがありません。
コリント第一15章では、塵から栄光のからだへの変化を、土に蒔かれた「種」に例えています(コリント第一15:35-38)。種は、土の中でその姿を変えていきます。いわば、種は死んでいくのです。けれども、死んで無くなるのでなく、そこから新しいいのちが生まれてきます。古いものが死に、新しいものとなって復活するのです。幼虫がさなぎになり、死んだようになっても、そこから蝶が生まれてくるのも、それと似ています。
種から穀物が成り、さなぎから蝶が生まれるには時間がかかりますが、私たちの復活は、イエス・キリストの再臨のとき、一瞬にして起こります。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(51、52節)このとき、人類の最後の敵である死は滅ぼされます。その時「死は勝利にのまれた。死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(54,55節)との大合唱が起こることでしょう。
イエス・キリストを信じる者の最後は、死で終わらないのです。神は信じる者に、死に対する勝利を与えてくださいました。イエス・キリストを信じ、罪の赦しを受けた者は、この勝利を、今から喜び、祝うことができます。ローマ8:35-39にこうあります。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
信仰は勝利、信じる者は人生の勝利者です。しかも、やっとこさ勝利するというのではありません。「圧倒的な勝利者」となるのです。これは、英語では "more than conquerors" と訳されています。この場合 "conquerors"(征服者たち)というのは、おそらく、中東世界を征服したバビロンの王ネブカデネザル、遠くインドとの国境まで遠征したアレキサンダー大王、また、地中海世界を治めたローマの皇帝たちのことが意味されていると思います。こうした人たちは、他の国々を征服しましたが、最後は死に征服されています。彼らの作った帝国もやがては滅びていきました。しかし、キリストを信じる者は、最後の敵である死にさえ打ち勝ち、永遠に神とともに世を治めるのです。信仰者はまさに「征服者以上の者」、「圧倒的な勝利者」です。
復活の信仰によって、私たちは、自分の悟りでは決して知ることのできなかった人生の意味を知ります。人生の目的を見出し、投げやりな生活から救われます。毎日をただ忙しく動きまわって終わるだけの生活から落ち着いた生活に入れられます。愛する者を失くし、悲しみに沈んでいる人は、慰められます。死の恐れにおびえている人は、勇気と希望を与えられます。
この勝利に、あなたも招かれています。この中に、イエス・キリストを信じたいと願っている人がいるはずです。明日ではなく、きょう、今この時を、イエス・キリストを自分の人生に受け入れる時としませんか。また、みなさんの中には、イエス・キリストを信じてはいても、様々なつまづきのため、信仰の勝利を体験できなくなっている人もいるでしょう。イエス・キリストによって死にさえ打ち勝ったのですから、ちいさなつまづきに打ち勝つことができないわけはありません。そのことを信じて、もう一度、信仰をふるいたたせようではありませんか。あるいは、みなさんの中には、ものごとが思い通りに運ばなかったため、自分のしてきたことは無駄だったと失望している人がいるかもしれません。決してそうではありません。神のために行ったことは、どんなに小さいものであっても、それは天で覚えられ、必ず報われます。コリント第一15:58に「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」とある通りです。もう一度、主に従い、主のわざに励む、堅実な日々を送ることができるようにと、祈ろうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、イエス・キリストの復活によって、私たちに死に打ち勝つ勝利を与えてくださいました。この勝利は、私たちの努力によって勝ち取ったものではなく、あなたからの愛の贈り物です。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)この永遠のいのちの贈り物を、素直な信仰で受け取る私たちとしてください。そして、あなたがくださるいのちによって歩み続ける人生の勝利者としてください。復活の主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/21/2013