15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
15:6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
15:7 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、
15:8 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
15:9 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
15:10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。
教会は、ヘブライ語をいくつか、そのまま、礼拝で使ってきました。その中で一番多く使われてきたのは「アーメン」で、次は「ハレルヤ」です。「ハレルヤ」というのは「主をほめたたえよ」という意味で、イースターには「ハレルヤ」と叫んでイエス・キリストの復活を祝いました。わたしたちも、古代からの慣習にならって、「ハレルヤ」でイースターを祝いましょう。
主はよみがえられた ― ハレルヤ!
主イエス・キリストはよみがえられた ― ハレルヤ!
まことに、主はよみがえられた ― ハレルヤ!
一、復活の事実
イエス・キリストの復活は、聖書にあるように、クリスチャンの信仰にとって「最も大事なこと」です。もし、復活がなかったら、クリスチャンの信仰は、まるで現実的でないもの、夢物語で終わってしまいます。「人は必ず死ぬ。」これは、誰もが知る事実です。しかも、その生涯は長くて100年、千年以上も生き続けている樹木に比べれば、なんとも短く、はかないものです。ところが、聖書はイエス・キリストは死人の中から復活され、今も永遠に生きておられると告げています。これは、「人は必ず死ぬ」という鉄則にまっこうから逆らうものです。もし、キリストの復活が事実でなければ、イースターを祝っているわたしたちは、常識はずれの、狂信的な人間ということになってしまいます。
しかし、キリストの復活が事実であれば、これ以上に素晴らしいことはありません。なぜなら、人の一生は「死」で終わるのでなく、「死」のかなたに永遠の命が待っているからです。イエス・キリストは、どんなに権力のある人も、財産のある人も、頭の良い人も、すぐれた人格の持ち主も、誰ひとり打ち勝つことができなかった「死」に打ち勝ってくださいました。そして、ご自分を信じる者たちに永遠の命を与え、死に打ち勝つ者としてくださるのです。まさに「ハレルヤ」です。
イエス・キリストの復活が事実であることを立証するものは数多くあります。まずは「空っぽの墓」です。どの偉人たちにも、墓があり、そこに遺体や遺骨が収められ、数多くの人々がそこを訪れます。日本で最近、歴史上の人物や、著名人のお墓を回ることが流行になっています。そうした人々は「お墓にお参りする人」なので、「墓マイラー」呼ばれているのだそうです。しかし、イエス・キリストのお墓に行っても、そこにイエスのなきがらはありません。十字架から降ろされたイエスの遺体は、アリマタヤのヨセフという人の新しい墓に収められました。その墓があった場所は今も保存されていますが、そこには空っぽです。生きておられる方は墓にはいないからです。
イエス・キリストの復活の後、弟子たちは、エルサレムのど真ん中で「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」(使徒2:32)と言って伝道しました。それはイエスを十字架に追いやったユダヤの指導者たちにとって迷惑なことでした。そのとき、ユダヤの指導者たちはきっとイエスの遺体を墓から運んで、「イエスは復活などしていない。遺体がここにあるではないか」と言いたかったのでしょう。しかし、そうすることは出来ませんでした。イエスはじつに復活されたからです。
二、復活の信仰
イエスの復活のもうひとつの証拠は「弟子たちの変化」です。イエスが十字架につけられたとき、弟子たちは自分たちも同じようにされるのではないかと恐れ、逃げ隠れしていました。ところが、幾日も経たないうちに、弟子たちは大胆に、確信をもって「イエスは復活した」と語り出しています。そのために財産を奪われたり、苦しめられたり、命を奪われるようなことがあっても、彼らはひるみませんでした。なぜでしょう。復活の信仰を持っていたからです。では、その復活の信仰はどこから来たのでしょう。ふつう、宗教の教義というものは、ある程度の年月をかけて形づくられるものです。ある人々が言うように、「イエスという優れた人物が志半ばで殉教した。そのあまりにも早い死を残念に思うあまり、人々の間に「復活」という神話が生まれた」のなら、イエス・キリストの復活が宣べ伝えられるようになったのは、何十年も、何百年もたってからだったでしょう。
しかし、イエス・キリストの復活は、わずかしか経たないうちに、宣べ伝えられています。弟子たちは復活されたイエス・キリストをその目で見、四十日にわたってキリストから教えを受け、キリストが天に昇っていかれるのを見送っています。その時、弟子たちは「あなたがたは…わたしの証人となる」(使徒1:8)という使命を受けました。それから十日して弟子たちはその言葉通り、キリストの復活の証人になったのです。「復活の信仰」は復活の事実によって生まれたと言うしか説明がつきません。復活の事実が復活の信仰を生み出し、復活の信仰が弟子たちを変えたのです。
三、復活の体験
この弟子たちの変化は、イエスの直接の弟子たちに限りませんでした。その後に弟子になった人たちもまた、イエス・キリストの復活によって変えられていきました。サウロという人はユダヤの指導者のひとりで、クリスチャンを迫害していました。とはいっても、サウロはただ乱暴なだけの人ではありませんでした。彼は、聖書とあらゆる学問に通じた一流の学者でした。彼は、学問上の信念から、大工の子であるイエスを神の子とすること、また、そのイエスが十字架で死んだ後、復活したと語ることを許すことができなかったのです。彼の行動は堅い信念にもとづいたものでした。
サウロは、ユダヤにいるクリスチャンを迫害するだけでは飽きたらず、シリヤのダマスコにまで出かけていきました。ところが、そのダマスコへの道の途中、復活されたイエス・キリストがサウロに現れたのです。学問を自分の天職と考え、それに打ち込み、すべての学問的考察をもって、イエス・キリストを否定してきたサウロが、そのイエス・キリストに出会ったのです。サウロは今まで堅く保ってきた「信念」が音を立てて崩れていくのを体験したに違いありません。サウロは三日の間、目が見えなくなり、何も食べず、何も飲まずに過ごしました。その間にサウロの理性に、感情に、そして意志に百八十度の変化が起こりました。サウロはダマスコの教会の指導者アナニヤからバプテスマを受け、イエス・キリストの弟子となり、やがて、使徒となり、パウロという新しい名前で呼ばれるようになりました。
イエス・キリストの復活については客観的な証拠が数多くあります。しかし、実際に生きておられるイエス・キリストに出会うなら、そうした証拠は必要でなくなります。パウロは、イエス・キリストの復活をさまざまな証拠で信じたのではなく、キリストに出会って信じたのです。そして、キリストの復活を、さまざまな証拠で論証するのではなく、「わたしをご覧なさい。教会を迫害した者が、キリストを宣べ伝える者になっている」と言って、自分自身を復活の「証拠」として差し出したのです。今朝の箇所の9-10節にこう書かれている通りです。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。
パウロから後のクリスチャンは、イエス・キリストの直弟子のように、直接復活されたキリストに会い、キリストをその目で見たわけではありません。しかし、聖書のメッセージによってキリストに出会い、キリストを信じ、キリストに従っている人々の姿の中にキリストを見い出してきました。その人たちは、キリストの復活によって人生が変えられ、キリストによってその魂が生かされるという、霊的な復活を体験してきました。聖書に
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。(第一ペテロ1:8)とある通りです。
ある青年がクリスチャンの兄に連れられてはじめて教会に行きました。それはイースターの日で、その説教はイエス・キリストの復活をまっすぐに語るものでした。彼の兄は、はじめて教会に来て、いきなりキリストの復活の話を聞かされた弟が「もう教会には来ない」と言い出すのではないかと、内心、はらはらしました。しかし、教会からの帰り道、弟はこう言いました。「ぼくの心は、生きる目的も意味もわからず、無気力で死んだようになっていた。こんなぼくを救ってくださる神は、たとえ死んでも復活するお方でなくてはいけないんだよ。」やがて彼はイエス・キリストを信じました。この青年もまたイエス・キリストの復活を体験を通して信じたのです。
また、日本に、ひとりの少年がいました。この少年は、小学生のとき、母親を亡くし、彼を自分の子どものようにかわいがってくれた義理の兄を亡くしました。彼も病気にかかり、高校生になっても、まだ病院通いをしていました。時々、高い熱を出し、数日間寝こむことがありました。そんなとき「ぼくは死んだらどうなるのだろう」という不安が彼の心にいっぱいになりました。どんなに彼を愛してくれる人がいても、「死」は容赦なくその人たちを奪い去っていく。そんなことを考え「死の恐怖」に囚われていました。しかし、この少年は聖書に出会い、教会で福音を聞き、イエス・キリストを信じました。最後に勝つのは「死」ではない。彼を愛してくださるイエス・キリストは、決して彼を離れることはない。彼は、キリストの復活によって「死の恐怖」から解放されました。この少年もまた、復活されたキリストに出会い、自分のうちに復活を体験したのです。この少年はイースターの日にバプテスマを受けました。それから50年の間、イエス・キリストは彼と共に歩んでくださいました。この少年とは今、皆さんの前に立っている、このわたしです。
キリストの復活。それは、歴史の確かな事実です。しかし、それを事実として認めるだけでは、何も変わらないのです。キリストの復活のいのちと力は、それを体験してこそ、意味があるのです。イエス・キリストをあなたのこころに、人生に迎え入れるとき、あなたも、それを体験でき、あなたは変えられます。イエス・キリストは、このイースターに、あなたにも復活を体験して欲しいと願っておられるのです。
(祈り)
父なる神さま、イエス・キリストの復活のゆえに、あなたを賛美します。あなたは、キリストの復活によって、死によっても決して消えることのない希望をわたしたちにくださいました。復活し、今も生きておられるイエス・キリストを、今、わたしは心を開いて、わたしの人生に迎え入れます。永遠の命に生かされて歩む幸いを与えてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/5/2015