復活の順序

コリント第一15:21-34

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15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
15:27 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
15:29 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
15:30 また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。
15:31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
15:32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。
15:33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
15:34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。

 一、聖書と復活

 国民性を題材にしたジョークをふたつ紹介します。

世界中の人々を乗せた豪華客船が沈みそうになった。乗客を海に飛び込ませるにはどうしたらよいか。ドイツ人には「規則ですので飛び込んでください」と言う。アメリカ人には「今、飛び込んだらヒーローになれますよ」と言う。日本人には「みなさんが飛び込んでいますよ」と言う。
レストランで注文したビールの中にハエが入っていた。ドイツ人は、ビールのアルコールでハエの菌は死んでいるからと言って、ハエを取り出しそのまま飲む。アメリカ人はハエを取り出し、ビールを飲んでから、店に訴訟を起こす。日本人はビールに手をつけず、取りかえてもらう。

 こういう冗談はあまり真面目に受け取る必要はありませんが、なんとなく当たっている面もあると思います。聖書の読み方にも国民性があるかもしれません。アメリカでは、聖書が毎日の生活、人との関わり、仕事にどう役立つかという観点から読まれることが多いように思います。たとえば、主イエスが五千人の人々にパンを与えた奇蹟について、主イエスが少年の持っていた五つのパンと二匹の魚を用いられたこと、人々を何人かの組みに分けて座らせたこと、十二弟子たちにパンの配給を任せたことなどに注目して、わずかなものでも神にささげることの大切さ、スモールグループの必要性、リーダーシップのあり方などが論じられます。聖書には、もちろん、プラクティカルな教えもたくさんあって、そうした面からも学ぶことができますが、パンの奇蹟の場合、主イエスが「わたしがいのちのパンである」と言われたことを見落とすなら、聖書の中心的な教えを外してしまいます。聖書は、1, 2, 3, ... A, B, C, ... などと箇条書きで理解できるプラクティカルな面だけではなく、その言葉を心の中に深く宿して思い巡らすことによってしか理解できない面も多くあるのです。聖書は、私たちの日常の生活のレベルを超えた真理、それでいて、日常の生活の支えとなる真理を教えています。ですから、聖書の言葉が自分の生活にすぐにあてはまらないからといってそれを捨てたり、避けたりしてはならないのです。ヘブル人への手紙が教えているように、聖書の「堅い」と思える部分も忍耐深く取り組みたいと思います(ヘブル5:12-14)。

 もし、聖書を「生活にすぐに役立つ」ということだけで読むなら、「復活」などという主題は正しく理解することができないでしょう。それは、私たちが何をどうすべきか、どう生きるべきかということ以上のこと、何が私たちを生かすのかということを教えるものだからです。何をするか、どう生きるかという前に、私たちを生かす、いのちがどこから来るのかを知っていなければなりません。そこから、どう生きるべきか、何をなすべきかが分かってくるからです。聖書は、それが役に立つかどうかだけでなく、人間にとって最も根本的な問題の解決を示すものとして読んでいく必要があります。聖書によって、そうした根本的な問題の解決を与えられてこそ、聖書が、私たちの人生を支え、潤し、満たすのに大いに役立つものとなるのです。

 二、霊の復活

 イエス・キリストは復活された。このイースターのメッセージは、歴史の事実にもとづいており、真理であることを、先週学びました。イエス・キリストの十字架と復活という、グッドフライデーからイースターの朝の三日間に起こった出来事が、私たちに罪の赦しを与えます。ローマ4:25に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」とある通りです。ローマ10:9に「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」とあるように、イエス・キリストが私の罪のために十字架で死なれ、私を救うために復活してくださったと信じる者に救いがやってきます。聖書が教える信仰は、キリストを「主」と告白することも、その復活を信じることもいらない、教会の活動に参加して、仲間を大切にすれば良いというものではありません。人を救う信仰とは、イエス・キリストが私の罪のために死に、私を救うために復活されたということを、心からの悔い改めと感謝をもって受け入れ、そこに信頼を置いて生きることなのです。アウグスティヌスは「私たちはイースター・ピープルで、アレルヤがその歌である」と言いました。クリスチャンとは、キリストの復活を信じ、それをたたえてアレルヤを歌う人々なのです。

 アウグスティヌスが「私たちはイースター・ピープル」と言ったのには、キリストの復活を信じて、復活のキリストを賛美し、礼拝するということばかりでなく、キリストと同じように復活し、新しいいのちを与えられた者という意味もあります。きょうの箇所には、キリストの復活は、キリストひとりの復活だけでなく、キリストの復活を信じる者たちの復活がその後に続くと教えています。

 23節に「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト」とあるように、キリストの復活は「初穂」です。「初穂」というのは、穀物の収穫のとき、神に献げるために最初に刈り取ったものを指します。日本では秋に稲の刈り取りのとき、熟した稲穂が神々に捧げられますが、ユダヤの国では、春の大麦の収穫のとき、その初穂が神に捧げられます。この「初穂の祭り」は、過越の祭りのあとに行われます。過越の「小羊」がキリストとその死を示しているように、「初穂」はキリストとその復活を表わしているのです。

 「初穂」のあとに大きな収穫があるように、キリストの復活のあとにキリストを信じる者の復活が続きます。その復活は、まずは、霊の復活です。エペソ2:1-3に、私たちのキリストを信じる以前の状態が書かれています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」これは、霊的な死の状態を言っています。山で切られた木は枝を削られ、川に流され、製材所に運ばれていきます。命のない丸太はあっちにゴロン、こっちにゴロン、水の流れに流されるままです。同じように、罪の中に生き、神に対して死んだ状態の人は、この世の流れに流されるままです。しかし、魚は小さくても、命がありますから、川の流れに逆らっでも、自由に泳ぐことができます。神は、丸太のようだった者に、キリストの復活によっていのちを与え、罪から解放されて、自由に生きることができる者にしてくださったのです。

 キリストの救いは、信じる者に赦しとともにいのちを与えるのです。罪という墓の中に閉じ込められ、生きる意味も目的も見失っていた人々を、神は、再び生かし、その墓から解放してくださるのです。エペソ2:4-6に「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とある通りです。

 アウグスティヌスは354年、カルタゴで生まれました。こどものころから天才的な才能を表わし、教師の職を求めてローマに来ていました。アウグスティヌスは、不道徳な生活をし、当時流行していたマニ教という宗教に入ったりもしました。彼は気ままな生き方をしましたが、そこには、ほんとうの自由はありませんでした。自分の知恵や知識に頼っていましたが、それは彼を真理に導きませんでした。彼のたましいは飢え渇いていました。そんなときアウグスティヌスはミラノで司教アンブロシウスに出会い、信仰に導かれ、それと同時に、カルタゴに帰って教会に仕える決心をしました。アウグスティヌスが、いままでの一切を清算してバプテスマを受けたのは、386年、32歳のときでした。アウグスティヌスもまた、罪の中に死んでいた自分が、イエス・キリストの復活によって生まれかわりる体験をしました。自分自身のイースターを体験したのです。真実なクリスチャンは皆、イースターの体験を持っています。それで、「私たちはイースター・ピープル。その歌はアレルヤ」と言って、神に感謝するのです。

 三、からだの復活

 キリストの復活は、また、私たちをからだの復活に導きます。もういちど、23−26節を読んでみましょう。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。

 ここには、キリストの救いがいや3段階で完成することが書かれています。第1段階は、今から2千年前、イエス・キリストがこの世に来られた時に起こりました。キリストの十字架と復活によって、私たちの救いは成就しました。信じる者は罪の赦しを受け、霊的に生まれ変わります。第2段階は、イエス・キリストが来られてから世の終わりまで、あるいは、人がイエス・キリストを信じてから世を去るまでの時です。この期間、信じる者は罪の力から守られ、与えられた霊的な命を成長させていきます。救いが成長するのです。そして、第3段階は、世の終わりに、イエス・キリストがもういちど、この世においでになるときに起こります。この時、信じる者は、罪の存在そのものから救われます。罪のないところに死もありませんから、このとき、人は死に勝利し、救いが完成するのです。

 信じる者は、すでに、永遠のいのちを受け、死の恐れから解放されています。信じる者にとって死は地上から天への通過点にすぎません。しかし、死ねば、そのからだは朽ちていきます。愛する人々とずっといっしょにいたいと思っても、そこにいることはできません。遺された者も、いままでいっしょに暮らしていた人がもうそこにいないという悲しみに突き落とされます。亡くなった人は天で、もっと素晴らしい礼拝をささげているのでしょうが、今までいっしょに礼拝をささげてきた私たちは、その人が、いつも座っていた席にいないことに寂しさを覚えます。人類は様々なものを克服してきました。しかし、死だけは、どんなにしても克服できませんでした。死んだ人のからだは灰となり、土に返ります。死は、最後にあらゆるものを滅ぼす力を持っています。しかし、キリストはその死を滅ぼされます。どのようにしてでしょうか。キリストが再び世に来られるとき、信じる者、聖書では「キリストに属している者」に、ご自分と同じ復活のからだを与えることによってです。

 キリストの復活からすでに二千年たっていますが、キリストの再臨はまだです。神はひとりでも多くの人がキリストを知り、信じるようにと待っておられるからです。しかし、時が満ちれば、キリストは必ず来られます。そのとき、すでに霊の復活を体験し、「キリストに属する者」となっている者は、そのからだも復活するのです。死ぬことのないからだを受け、死に勝利するのです。

 23節に「まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です」とあるように、復活の順序からいえば、キリストに属する者は、キリストについで二番目です。一番目であるキリストはすでに復活されたのですから、二番目である私たちの復活も近いのです。飛行機に乗るとき、セキュリティ・チェックのため、長い列に並ばなければなりません。飛行機に間に合うのだろうかと心配になるときもあります。そんなとき、自分の何人か前の人がチェックポイントに進むのを見て、「もうすぐ自分の番だ」と思い、ホッとする。それと同時に、もうすこしの我慢だと自分に言い聞かせます。そのように、私たちの前に立っておられるキリストが復活されたからには、次は、自分の番だと、自分に言い聞かせましょう。霊の復活をいただいた者はかならず、からだの復活にもあずかります。まず、信仰とバプテスマによって「キリストに属する者」となりましょう。「キリストに属する者」はキリストのからだである教会にも属します。教会生活と聖餐を守ることによって、キリストに属し続け、それを確認しながら、救いが完成するとき、幸いな復活にあずかる日を待ち望みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、キリストの復活によって、信じる者の霊を生き返らせ、なくなることのないいのちで生かしていてくださいます。そして、やがての日には、私たちに、決して死ぬことのない栄光のからだを与えてくださいます。私たちはすでに救われてはいますが、いまだ、救いの完成を味わっていません。霊の復活をいただいていますが、からだの復活に至っていません。新生の恵みを受けていますが、栄化の恵みを受けてはいません。救いの成就と完成の間に生きている私たちです。私たちに、救いの完成を思い見、それを待ち望む信仰を与えてください。十字架で死なれ、復活され、再び来られるキリストのお名前で祈ります。

4/14/2013