じつに主は

コリント第一15:12-20

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15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 きょうはイースター。教会にとって一番大切な日で、この日、ほとんどの教会で出席者が一番多くなります。しかし、今年は、世界のどこででもイースター礼拝を集まって行うことができなくなりました。二千年の教会の歴史の中で、このようなことは、今までなかったことでした。パンデミックの中でのイースターですが、それだけに、キリストの復活から、力と励まし、希望と慰めを得たいと思います。

 教会には、レントの期間、「ハレルヤ」を含む賛美を控えるという伝統があります。「ハレルヤ」はヘブライ語で「主をほめよ」“Praise the LORD!” ですから、いつでも口にしていいのですが、レントの期間、それをためておいて、イースターに一気に爆発させるのです。イースターの礼拝では、司式者が「主はよみがえられた」「主イエスはよみがえられた」「じつに主はよみがえられた」と三度宣言します。一同は、そのたびごとに「ハレルヤ」で答える慣わしがあります。私たちも同じようにしてみましょう。私が「主はよみがえられた」「主イエスはよみがえられた」「じつに主はよみがえられた」と三度言いますので、皆さんは、その場で「ハレルヤ」と叫んでください。

 主はよみがえられた。―― ハレルヤ!
 主イエスはよみがえられた。―― ハレルヤ!
 じつに主はよみがえられた。―― ハレルヤ!

 一、死の現実

 「じつに主はよみがえられた。」この言葉は、コリント第一15:20からとられました。新改訳では「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とありますが、口語訳では「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」、新共同訳では「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」となっています。NIV では “But Christ has indeed been raised from the dead.” で、ESVでも “But in fact Christ has been raised from the dead.” となっています。“Indeed,” “in fact” どちらも、「事実」、「実際」、「まことに」、「じつに」という意味で、キリストの復活が事実であり、実際に起こったこと、誰もが確認できることだと言っているのです。

 なぜ、復活の事実がそれほどに強調されているのでしょうか。それは、復活がなければ、罪と死からの救いはないからです。

 人は年齢を重ねて死んでいく。これは、私たちが毎日見ている事実です。身近な人が亡くなるまで、私たちはふだん「死」を意識しませんが、今、コロナウィルスによって大勢の方が亡くなっていく現実を見ると、「死」を意識しないわけにはいかなくなりました。コロナウィルスによって亡くなった方は、世界で十万人をこえ、アメリカで一万八千人となり、おそらくイタリアを抜いて世界で一番多くなるだろうと言われています。

 人の「死」は、まさに「現実」ですが、それは、もとからあったものではありません。人の命は、神によって与えられたものであり、神は、人をご自分の命によって生き、生き続ける存在として造られました。しかし、最初の人アダムが罪を犯し、神から遠ざかって以来、人は死ぬべきものとなりました。たとえ身体は生きてはいても、生きる意味や目的を見失い、生きる喜びや力を失い、内面的には死んだようになっていきました。ある人が、「僕は、そのころ二十歳代でしたが、イエスを信じるまでは、まるで七十歳、八十歳の老人のようでした」と言っていました。今では、七十歳や八十歳の人たちのほうが、戦後の社会を乗り越えてきた活力を持っていて、二十歳代の人たちのほうが、かえって、ひよわかもしれません。若者であっても、内面の命を失っている人たちが大勢いるのです。

 「健全な身体に健全な精神が宿る」と言われますが、かならずしもそうではありません。この言葉は、もともとは、「健全な身体に健全な精神が宿ればいいが、実際はそうではない」というのだそうです。どんなに健康な身体を持っていても、心が病んでいる人が大勢います。身体が不自由でも、喜びや平安に満たされている人々もいます。私が東京で牧師をしていたとき、全盲の姉妹が礼拝でピアノを弾いてくれました。彼女の伴奏はとても正確で、歌いやすいものでした。その時彼女は盲学校の学生でしたが、目が不自由であることを感じさせない、明るく、はきはきした人で、同じ年代の他の学生と何も代わりませんでした。いや、他の学生よりも、もっとはっきりと自分に与えられた使命を知り、そのために努力していました。「使命」とは「命を使う」と書きます。自分の命は神からのものであることを知り、神によって生かされ、神のために生きる。そのことを彼女は知っていたのです。まことの神を知らないため、なんと多くの人が、人生をあきらめたり、自分の命も、人の命も粗末にしたり、その時、その時、回りに流されていくだけの人生を送っていることでしょうか。聖書は、それを「霊的な死」と呼んでいます。私たちは、人がやがて死んでいくということだけでなく、内面においては、すでに死んでいるという現実にも直面しているのです。しかし、イエス・キリストの復活は、霊的に死んだ私たちを生かし、やがて死そのものを克服して復活するという希望を与えるのです。

 二、罪と死からの救い

 私は小学生の時に母を亡くしました。私をかわいがってくれた義理の兄も、続けて亡くしました。私の心には、「どんなに僕をかわいがってくれる人がいても、その人もいつかは死んでしまうんだ」という思いが宿りました。時々高い熱が出て、学校を休むことがありました。そんな時、「このまま死んでしまったら、どうなるのだろう」などといったことを考えるようになっていました。

 高校生になって、通信講座で聖書の勉強を始めました。聖書を読んで分かったことは、神が私を永遠の愛で愛してくださっているということでした。私をかわいがってくれた肉親が世を去っても、永遠に生きておられる神は、決して私を見捨てることはないということでした。「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる」(詩篇27:10)「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)といった聖書の言葉が私を励ましました。

 そして、さらに知ったことは、私には罪があるということでした。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とあるように、私が死を恐れるのは、それが罪に対する審判だからです。はじめて教会に行ったときの説教で語られた聖書の言葉は、今でも忘れません。「(あなたの)罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている」(エレミヤ17:1)という大変厳しいものでしたが、イエスがその罪から救うために十字架で死なれたことを知っていましたので、素直に、イエスを信じることができました。

 その夜、聖歌隊が歌っていた賛美は「わが生涯はあらたまりぬ」(新聖歌262)でした。この賛美の四番目の歌詞は「死の恐れはまたく消えぬ、イエスを信ぜしより、あまつ住まい備えたもう、イエスを信ぜしより」です。この歌詞のように、私は、イエスを信じたことによって、罪の赦しをいただき、死の恐れから解放されました。聖書に「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(ヘブル2:14-15)とある通りです。イエス・キリストを信じた時、霊的に死んでいた私は、キリストの復活の命で生かされたのです。イエス・キリストは私の罪のために十字架で死んでくださいましたが、罪の中に死んでいた私に、もうひとつの命、霊の命を与えるため、よみがえってくださったのです。この命を体験して、私は、イエス・キリストがもういちど世に来られるとき、私が生きていれば、死を見ることなく栄光のからだに変えられ、私が死んで、その身体が塵や灰になっていても、復活する(テサロニケ第一4:16-17)ということを確信することができるようになりました。

 三、復活による勝利

 ですから、私の、また皆さんの救いは、イエス・キリストが復活されたという事実に基づいているのです。「イエスが復活されたかどうかはどうでもいいではないか。信じたければ信じてもいいが、信じたくなければそれでもいい。何であっても、それを生きる力とすればよいのだ。」そういったことをよく耳にしますが、そうでしょうか。自分を信じてもいい、アイドル・グループを追っかけてもいい、趣味に没頭してもいい。自分がいいと思うものを信じていけば、生きる力が湧いてくるのだとしたら、なぜ、若者の中にも、働きざかりの人の中にも、高齢の人々の中にも、生きる力を失い、毎日を塞いだ気持ちで、うつろに生きている人、いや、生きているとはいっても、ほんとうに生きているという実感を持つことができないでいる人が、こんなにも大勢いるのでしょうか。自分を信じさえすれば物事が解決するというのは、罪と死の現実を無視しています。少し気分を変えればそれで、人が救われるというのなら、神の御子イエス・キリストが十字架であれほどの苦しみを味わい死んでいく必要がなかったのです。キリストが復活し、その復活の証人たちが、命がけでそれを証しする必要もなかったのです。

 私たちの信仰はキリストの復活という事実の上に立っています。ですから、聖書は「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(17節)と言うのです。私たちの信仰は、自分で自分に「キリストはよみがえったと信じよう」といって言い聞かせるものではありません。復活という、すぐには信じられないようなことに出会い、そのことに驚き、戸惑いながらも、それが事実であることを知り、その事実から来る力と喜びを体験して、その事実の上に立つというのが、私たちの信仰です。

 「二度生まれた者は一度しか死なない」という言葉があります。すべての人は時が来れば死を迎えます。しかし、「二度生まれた者」、つまり、イエス・キリストを信じ、霊的な誕生、二度目の誕生を体験した人は、イエスが復活なさったように、その人も復活の時を迎えるのです。土の中に埋められ、死んだようになっていた植物の種が、時がくれば芽を出すように、「キリストにあって眠った者たち」(18節)も、やがて復活するのです。もし、キリストの復活がなければ、この復活の希望は根拠のないものになってしまいます。そんな希望に人生をかけるなど、愚かで哀れなことです。19節に「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」とあるとおりです。

 では、私たちは、「すべての人の中で一番哀れな者」なのでしょうか。いいえ、私たちは、復活されたキリストによって「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされています。私たちは、最後の敵である死に対してでさえ勝利しています。キリストが、事実、実際に、死に勝利し、復活されたからです。主は、じつに、よみがえられた。ハレルヤ。

 (祈り)

 ハレルヤ。主よ、あなたを崇め、賛美します。毎週の日曜日は、キリストの復活を覚えて礼拝を捧げる日ですが、きょうは、その「日曜日の中の日曜日」です。パンデミックのため、教会での復活日礼拝はキャンセルされましたが、キリストの復活は、誰もキャンセルすることはできません。こうした現状の中でも、時を同じくし、心をひとつにし、復活の主を仰ぎ見ることができ、感謝します。主イエスの復活によって、この苦難の時にも、信仰による勝利を祝う者としてください。今、生きておられるイエス・キリストのお名前で祈ります。ハレルヤ、アーメン。

4/12/2020